当時住んでいた仙台市は1945年7月10日に100機のB29の焼夷弾空襲で完全に焼け野原になりました。焼け野原になった10日後に小学3年生だった私は弟2人と共に3人だけで宮城県北部の農村に疎開しました。都会からいきなり農村に行ってみると生活条件が非常に違うので驚き、そして悲しい思いをしました。
今日はまず昭和時代の農村の風景写真を示し、疎開生活の思い出を少し書いてみようと思います。
1番目の写真は私が疎開した農村によく似た農村の風景です。写真の出典は、
2番目の写真は昭和時代の農家の風景です。大八車の左にある箱型の装置は脱穀した米と籾殻を風で分ける装置です。重い米粒だけ下から出てきます。
写真の出典は、https://kodaira-tourism.com/spot/1284/ です。
3番目の写真は昭和21年に撮影された田植えの風景です。一人の男だけ兵隊服を着ています。復員して来た直後のようです。
4番目の写真は農婦が畑に肥料の人糞を運んでいる風景です。占領軍はショックを受け日本の野菜を絶対に食べませんでした。野菜は全てアメリカから運び込んで、しばらくすると独自に清浄栽培していました。
5番目の写真は子供達と一緒に農作業をしている長閑な風景です。
子供達は丁度我々3人と同じ年恰好のように見えます。
さて疎開生活の思い出で印象深かったことは囲炉裏の大鍋で一家の夕食を作ることでした。大鍋へ 畑から採って来た野菜をいれ味噌を加えて煮ます。そこへ小麦粉をこねて親指の形にした塊を次から次へと放り込むのです。これを囲炉裏の回りに座った一家と疎開者の我々が椀によそって貰ってフーフー言って食べるのです。
毎日、毎日、夕食はこの「すいとん」でした。
米は朝に一回だけ大きな釜で炊き上げます。朝食はご飯と囲炉裏で煮た味噌汁と漬物でした。昼は朝に焚いたご飯で弁当を作り当時通っていた田舎の小学校へ持っていきました。おかずは漬物だけでした。
時折父母が仙台から疎開先にやって来てお土産としてクジラのベーコンを持って来ました。それが驚くほど美味しかったのです。
最近店でクジラのベーコンを売っているのを見つけました。驚喜して買ってたべました。ところが不味いのです。生臭くてとても食べられません。あの美味しかったクジラのベーコンは幻のように消えてしまったのです。
疎開生活の思い出はいろいろありますが今日はこれぐらいにしておきます。
嗚呼。あれから76年です。戦争に負けた日本も豊かになったものです。それにしても毎日囲炉裏の大鍋で煮た「すいとん」が懐かしいです。家内は鎌倉から群馬県の下仁田へ一家で疎開したので、生活条件は良かったようです。疎開の思い出は山の生活が珍しかったようでいつも楽しそうに話します。最近まで年に一度下仁田 小学校のクラス会に出席していました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)