後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「クリスマスが近づいて来たので美しい季節の写真をお送り致します」

2021年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は待降節の第三の主日です。クリスマスが近づいて来たのです。
この季節にはカナダ、アメリカ、フランスの街々が美しいイルミネーションで飾られます。そのクリスマス風景の写真をお送りします。
写真の出典はすべて、http://www.moshtravel.com/christmas-around-the-world/ です。

1番目の写真はカナダ東部にある都市ケベックでのクリスマス風景です。店の前にクリスマスツリーも並べられ、クリスマスの雰囲気満載です。

2番目の写真はアメリカ、カリフォルニアの町の風景です。
停められたシボレーの車の後ろには、イルミネーションが輝いています。

3番目の写真はニューヨークです。
屋外に設けられたスケート場です。高層ビルに囲まれた中でのスケート場です。

4番目の写真はニューヨークのタイムズスクエアです。かなり雪が降っていますが、世界一華やかな交差点だけあって、独特の雰囲気があります。

5番目の写真はフランスのパリです。
パリの通りでは木に設置された青いイルミネーションがずっと続いています。

日本にも各地に美しいイルミネーションが華やかに輝いています。聖夜を静かに待っている日本の教会の写真もお送りいたします。
6番目の写真は長崎の国宝、大浦天主堂です。

7番目の写真は五島列島の教会です。
さて次に聖歌のYouTubeをお送りします。
URLをクリックしてお楽しみ下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=5Zw33qcJ12Y&list=PLKFzvc3KMkE03vHmFzeDTR22dCevw9yaV

https://www.youtube.com/watch?v=wzCCUZRoo2Y&list=PLKFzvc3KMkE03vHmFzeDTR22dCevw9yaV&index=2

https://www.youtube.com/watch?v=9MDGOjzjj3k&index=3&list=PLKFzvc3KMkE03vHmFzeDTR22dCevw9yaV

https://www.youtube.com/watch?v=m8JP7fSwljo

https://www.youtube.com/watch?v=7IYCfI6FRmU

このクリスマスの季節は心が浮き浮きします。皆様も楽しくこの季節をお過ごし下さい。クリスマスが終わると楽しいお正月もやって来ます。
楽しい季節ですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「キリスト教は何故『愛の宗教』というのか?」

2021年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する文章を書きたいと思います。
日本にキリスト教が初めに入ってきたのは1549年でした。ザビエルが伝えたのです。しかしその後まもなく禁教時代が始まりました。
しかし明治維新の結果、ヨーロッパの文化が大々的に日本に入って来ました。キリスト教も入って来ました。
しかしキリスト教は仏教とあまりにも違います。仏教と非常に違うので理解出来ません。当然、信じることも不可能です。
こんなに欧米と交流のある現在でも日本のキリスト教徒は人口の3%以上になりません。増える傾向もありません。

キリスト教が理解出来ないのは、それが愛の宗教だからです。愛という言葉は明治維新以前には現在のように広く使われている言葉では無かったのです。
神が人間を愛しています。イエス様も人々を愛しています。人間は神やイエス様を愛します。
キリスト教では神やイエスや人間の絆は愛で結ばれているのです。このようなことを信じられますか?
このような考えは仏教にはまったく存在しません。仏教国の日本人に理解出来ないのは当然ではないでしょうか。

ここで愛という言葉の意味を考えてみましょう。愛とは相手を大切にする心です。相手の苦しみや悲しみに心を寄せ、その苦しみを担ってあげることです。相手が好ましいと思う心です。
キリスト教では神が人間を愛するのでイエス・キリストという人間を地上に送り、人々を救けようとしました。キリストはいろいろな教えを説いた後で、人間の罪を担って十字架についたのです。
死んで3日目にふたたび生き返り、弟子たちに会ったのです。そして天上に上がり全知全能の神の右の座についたのです。
そして天上から神とイエスは地上の人々を愛し続けているのです。

私はカトリック信者です。毎週、日曜日にはミサに出ます。
それでは私は神やイエス様が愛して下さっているという実感を何時も持っているのでしょうか?
答は、否!です。
しかしイエス様に愛されているという感じは時々持てます。例えばミサの中で、神父さんが「イエスの体」と言いながらパン片を私の手にくれる時に感じます。
その上、神父さんが私を信じ、大切にしてくれると、私は「イエス様が私を愛している」と感じます。
愛してくれれば、当然自分もイエス様を愛し、その教えに心を寄せます。

そして私の場合は洗礼を受けたカトリック立川教会の主任司祭をしていた塚本金明神父さまを忘れられません。そしてカトリック小金井教会の初代主任司祭だったムニ神父さまの愛を忘れられません。そしてその後、主任司祭になった山本量太郎神父さまの愛を忘れません。
現在の主任司祭の神父さまからも愛を感じます。
こうしてカトリックでは神父さんを通うしてイエス様の愛を実感するのです。神の愛を感じるのです。
愛されていると感じれば人間は相手を愛します。
これがキリスト教が「愛の宗教」と言われる理由なのです。

しかし元来、人間は疑い深い性格を持っています。イエス様や神の愛など信じられないのです。
しかし1日、24時間のうち数秒でもイエス様や神の愛を感じられば、それが決定的に重要になります。信者になれるのです。

まあ一般的に言えばイエス様や神の愛は荒唐無稽な話です。
多くの日本人がそれを信じないのも自然なことではないでしょうか?
宗教は無理に信じてはいけません。他人に無理強いしてはいけません。自然体で考え、信じられる人が信じれば良いことです。
私は絶対にキリスト教を他人へお薦めしません。
そして私は信じて初めて「キリスト教は愛の宗教だ」という意味が理解出来たような気がします。
世の中には信じないと理解出来ないものもあるのですね。

今日の挿し絵代わりの写真はマリア様のフレスコ画とそれがある江の島、片瀬教会の外観と内部です。写真の出典は、http://neverslourdes.blog.fc2.com/blog-entry-354.html です。
このフレスコ画を描いたのは、長谷川路可(ろか=ルカ)という日本のクリスチャンです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)