武蔵国分寺跡の公園は広々とした気持ちの良い所です。よく散歩に行っては車中で昼寝をします。昨日も行きました。昼寝をしない家内が走り回りながら写真を撮ってくれました。
奈良時代の武蔵国分尼寺跡と江戸時代に再建された武蔵国分寺の写真をお送りいたします。
武蔵国分寺、尼寺の創建は、8世紀半ばの750年代末から760年代初と推測されているます。
武蔵国分尼寺跡は、JR武蔵野線西側の西院と呼ばれていた地域に位置しています。国分寺市西元町4-1にあります。
尼寺伽藍の中枢部を構成する中門・金堂・尼坊など主要建物や区画施設である掘立柱塀を復元的しています。
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尼坊の北側一帯の平坦部には、尼寺関連の遺構群が埋没していると考えられますが、保存したまま、広場として利用されています。
さらに北側の崖線には、伝鎌倉街道の切通しが残り、その西側に中世の伝祥応寺跡、東側に塚跡があります。
さて武蔵国分寺は元弘3年(1333年)の分倍河原の戦いで焼失し、建武2年(1335年)、新田義貞により薬師堂だけが再建されました。 その後一帯は荒れ果てました。ところが武蔵国分寺は1725年に本堂が再建され、宝暦6年(1756年)頃に薬師堂も再建されたのです。その再建された現在の武蔵国分寺を写真で示します。
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武蔵国分寺跡の公園は広々とした気持ちの良い所なので是非いらっしゃってください。JR中央線の西国分寺駅下車、南へ徒歩15分です。
時々私は欧米と日本で人間の絆は違うと感じることがあります。そして絆の種類によってはまったく同じものもあります。具体例で言うと前者は学校で出来た絆であり、後者は家族どうしの絆です。前者の違いはキリスト教と仏教の違いを反映してためと考えられます。
今日は宗教に関係したいささか面倒くさい話を書きます。宗教に関心の無い方は添付したポール・セザンヌの油彩画をお楽しみ下さい。記事の内容とは関係無い美しい油彩画です。
さて欧米では社会的な人間の絆にしばしば神が介在しているようです。キリスト教の影響でしょう。
一方仏教国の日本では社会的な人間の絆に神が介在していません。日本の社会における人間関係は社会の習慣できまることが多いのです。
このように書くとあまりにも抽象的で何を言いたいか分からないと思います。
そこで人間の社会的な絆の違いの一つの例で示したいと思います。
それは学校の同窓会や同級会に見られる人間の絆です。
分かり易く結論を先に書けば、欧米では同窓会や同級会による人間の絆は存在しません。日本のように強い人間の絆が無いのです。
一方、日本ではある学校を卒業すると全員が自動的にその学校の同窓会に入ります。そしてその後の社会生活でも「同窓生のよしみ」でいろいろなことが期待されます。
同窓生は学校の部活への寄付を一生期待されます。同窓生同士も同じ学校を出たという絆を尊重します。
勿論このような絆に反発する人も少なくありません。
しかし何故、同窓会のことを一例として書くかというと、欧米では日本ほど強固な同窓会の組織もありません。確かに数年おきにアメリカの大学から寄付の案内も来ますが無視しても良いような文面なのです。私はオハイオ州立大学も卒業しているのでその大学からも寄付の依頼状が時々来ます。
日本では同窓会に関連して同級会もあります。これは同じクラスとして何年間か同じ勉強をした仲間なので絆が強いものです。
同級会には小学校、新制中学校、高校、大学とあります。私はそれぞれの同級会を大切にしています。同級会は出席すると楽しいのです。
生まれつき社交的でない性格の私にとっては同級会の仲間だけは気軽に楽しく話しあえるのです。以前あった大学の同級会には毎回出席していました。
このような学校という社会的な組織で出来た人間の絆が強いのは日本や韓国や中国などの社会特有の文化のようです。
例えば日本の新聞やマスコミで有名人を紹介するとき必ず卒業した大学の名を書く習慣です。そしてその大学で働いていれば、東大教授、早稲田大教授とか表記するのです。しかしその専門分野を書かないのです。
出身大学を書く習慣は日本の悪習です。これでは高校や中学までしか行っていない人はどうするのでしょうか?私は憤りを感じています。
欧米の社会では人間の絆は組織を離れ、個人個人が作るものです。当然、日本のような同級会はありません。
しかし欧米でも若い頃通っていた学校を懐かしいと思う卒業生もいます。そこでアメリカでは毎年、ホーム・カミング・ディーと称する日に希望する同窓生が学校に帰って来て、いろいろなイベントに参加します。私が卒業したオハイオ州立大学にもあります。しかし出席は全く自由です。
日本文化で無意識ながら重要な概念は運命共同体というものです。同じ学校を卒業したのも前世からの縁です。運命です。運命共同体なのです。
ですからそこには強い人間の絆がある筈です。雑に言えばこのようないきさつで同窓会や同級会は日本や韓国や中国では重要な意味を持っているのではないでしょうか?そこで出来た人間の絆は強いのではないでしょうか?
こういうことを書くと叱られますが、戦死した人は皆靖国神社に祀られるのは日本人として生まれた運命共同体だからなのです。
しかし一方、人間の絆の種類には農村における共同作業の絆やインターネットで出来た人間の絆などといろいろあります。ですから上に書いたことは普遍的に正しくはありません。私の個人的な感想です。
しかしその一方、日本と欧米でまったく同じような人間の絆の種類もあります。
その一つは夫婦の絆です。まったくの赤の他人同士だった2人が一緒になって何十年死ぬまで暮らして行くのですから、これほど不思議な絆はありません。
一緒になる2人が外国人同士だろうが親子ほど年が離れていても一向に関係なく添い遂げるのですから不思議です。
血を分けた母子の絆や父と子供の絆の強さは容易に理解出来ますが、夫婦の場合は全く他人同士なのです。
それから最近増えてきたものに同性婚という絆もあります。
私の友人に同性婚をしていた人がいます。人間性が良く知的で、暖かい心を持った人です。
それにしてもいろいろな人間の絆を考えると不思議な気分になります。背後に神の存在があるのでしょうか?
今日の挿し絵はポール・セザンヌの油彩画です。記事の内容とは関係ありません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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