後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「忘れ得ぬ人々(3)ヨットを共に楽しんだ星野君の思い出」

2023年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「忘れ得ぬ人々(3)」としてヨットを共に楽しんだ星野君の思い出を書きたいと思います。
星野君は仙台の大学の同級生でした。彼とはいろいろな所で一緒にヨットに乗りました。
例えば猪苗湖で彼の大きなヨットで花春カップレースに3回参加したこともあります。そして会津城やその城下町を観光しました。
1番目の写真は猪苗代湖と磐梯山の写真です。出典は、http://www.yae-mottoshiritai.jp/seishin/inawashiroko.html です。

5番目の写真は夏の猪苗代湖を帆走するヨットの写真です。
出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/theearth99/17541627.html です。
星野君とこの写真のような彼のヨットに乗り湖を何度も帆走しました。
3番目の写真は猪苗代湖の西南岸のヨットの係留風景です。星野君もここにヨットを係留していました。彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。写真の出典は、http://ameblo.jp/normanhiga/entry-11034780813.html です。

星野君と湖や海などいろいろな所でヨットに乗りました。
最後になったのは霞ヶ浦で私のヨットに乗った時でした。それは2010年の秋のことでした。当時、私は霞ヶ浦でヨットを係留していました。そのヨットで一緒にセイリングをしたのです。それが最後になりました。翌年彼は亡くなったのです。
4番目の写真は私のヨットと霞ヶ浦の風景です。星野君とヨットに乗り港を出ると、始めは風が穏やかでしたが、沖では物凄くなり、船が身を躍らせて走りまわりました。
5番目の写真の右が星野君です。強風で走るヨットを操船しています。左はやはり同級生の大友君です。帰港のころは風が又静かになり夕日を楽しみながら帰ってきました。
6番目の写真は帰港後のキャビンの中での宴会の様子です。星野君は自宅のある福島から東北新幹線で上野経由でやって来ました。よく冷えたシャンパンを担いで来ました。その後、ホテルに一泊し翌朝も3人でセイリングへ出ました。それが星野君に会った最後になりました。

星野君は仙台の大学を1958年に卒業しました。卒業と同時に父が経営する精密鋳物会社の仕事をするために福島へ行ってしまいました。それから15年間くらいはお互いに多忙で会うこともありませんでした。ところがある時の同級会の折、彼が猪苗代湖で大きなキャビンのクルーザーでセイリングしているのことを話しました。
そして花春カップというクルーザーレースへ3回ほど私を招待してくれたのです。花春カップとは猪苗代湖のそばの大きな酒造会社、「花春」が主宰するレースです。花春は現在でも酒造をしていますが、ヨットレースはやめてしまったようです。
彼のヨットはヤマハ29というクルーザーで船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、簡単な炊事施設がついています。
船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が静かに風波を立てている様子が眺められのです。

今日は我が友人、星野君とのヨット遊びの思い出を書いてみました。
星野君の住むかなたの国の湖にも、白い鳥が舞っているでしょうか? 猪苗代湖と白鳥の風景はそんなことを想わせるのです。あれから茫々13年がたちます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「忘れ得ぬ人々(2)若き日のアメリカ留学で出来た親友、ジョージの思い出」

2023年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の「忘れ得ぬ人々(2)」は若き日のアメリカ留学出来た親友、ジョージの思い出です。
私は1960年から1962年までオハイオ州立大学に留学しました。そのPh.Dコースでは戦場のような激しい勉強が続きました。
セント・ピエール教授、フォンタナ教授、ラドルフ・スパイサー教授、ゴードン・パウエル教授、スプレットネク教授の講義は厳しくて、それについて行くためにはアメリカ人の同級生からノートを見せてもらったり毎週行われる試験の予想問題を丁寧に教えてもらったのです。
激しく攻めるのが5人の教授で、隊列を組んで防戦するのが14、5人の同級生です。
同級生は戦友のような感じでした。その中でジョージ・オートン夫妻とは生涯の友人としてお付き合いをしました。
ジョージ・オートンさんは14歳年上の空軍大佐でした。大柄なふくよかな体格の持ち主でした。
彼は戦争中はB29に乗り組んで東京空襲をしていました。そのオートンさんと親友になり彼が死ぬまで交友が続きました。気さくな男でした。明るくて親切なのです。とても爆弾を落とした人間とは信じられないのです。
面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せて勉強を助けてくれました。何度も家に招待してくれました。当時、彼は空軍大佐でしたが、引退後は大学の先生になろうと博士課程を取っていたのです。
オートンさんの奥さんのケイが死んだのは40年以上も前です。
しばらくしてからアリゾナ州のサンシティーに住んでいたオートンさんを訪ね、二人でケイの墓参りをしました。ケイは赤毛の陽気な女性でした。オートンさんと缶ビールを飲みながら野球のテレビ中継を見ていると、チョットしたおつまみを持ってきて一緒にテレビ中継を見ていたものです。ケイの墓の前で、いつも陽気に話していた彼が消え入るように沈んでいます。墓地には白い墓石が一面に広がり、秋風が吹き渡っていました。
その後オートンさん は一度だけ日本に来ました。私どもを訪ねてくれ一緒に熱海温泉への旅を楽しみました。
そのオートンさんも1990年に亡くなってしまいました。息子さんから丁寧な手紙が来て知らせてくれました。
B29は日本側の発表では日本上空で714機撃墜されています。そして3041人の搭乗員が殺されたり、行方不明になったのです。無差別空襲に怒った人々に惨殺された人もいます。しかしオートンさんは無事でした。
オートンさんと私の交友は奇跡のようなものと思います。不思議な「えにし」でした。年老いて今日この頃、彼と一緒に過ごした場面のいろいろを鮮明に思い出しています。
オートンさんの思い出は、邯鄲の夢のような私の一生を美しく飾ってくれる走馬灯の絵のようです。
ある時、オートンさんと一緒にアリゾナの砂漠に咲いているサボテンを見に行きました。その時のことも思い出します。
私が生まれ育った昭和は幾つかの戦争、敗戦、戦後の困窮、復興と続く不幸な時代でした。
21世紀の日本は平和な、そして豊かな国になりました。

最後に、オートンさんにまつわる写真を5枚示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はオートンさんが搭乗していたしていたB29です。
2番目の写真はオートンさんと知り合った留学先のオハイオ州立大学の建物です。この建物の教室で一緒に机を並べたのです。
3番目の写真はオートンさんが乗っていたMGです。この車に私を乗せてあちこちドライブしてくれました。繊細なスポーツカーでした。
4番目の写真はアメリカの墓地の風景です。墓地には白い墓石が一面に広がり、秋風が吹き渡っていました。
5番目の写真はオートンさんと一緒に行ったアリゾナの砂漠のサボテンの花の写真です。