後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「忘れ得ぬ人々(7)南米へ移民してしまった水元君の思い出」

2023年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台の愛宕中学校に行っていた頃、一人の友人がいました。霊屋下に住んでいた水元君です。何度も家に遊びに行きました。母子家庭で母親は働いていて家には水元君だけが淋しそうにしていました。白っぽい顔で優しい真面目な少年でした。
中学校を卒業するとすぐ働き始めました。  繁華街の大町通りにあった相沢メガネ店の店員になったのです。私は高校に行きましが、繁華街に行くたびに相沢メガネ店に寄りました。真面目に働く水元君は店の評判も良かったようです。店の人が私を大切にしてくれます。水元君と店の外で数分立話をします。そんな関係が高校の3年まで続きました。最後に会った時、水元君が言います。「僕、こんど母と南米へ移民することにした。君と仙台とお別れだ。何度も店に寄ってくれてありがとう」と。 微笑んでいましたが淋しそうでした。
それから暫くして相沢メガネ店に寄ったら水元君の姿はありません。店の人が、「水元君は南米へ行ってしまったよ」と言います。水元君は本当に仙台から消えてしまったのです。
それから数年して石川達三氏の「蒼茫」という小説を読みました。南米移民の苦難の場面が出て来ます。水元君のことを思い暗然とした気分になります。しかし真面目で優しいい性格の水元君は周囲の人々の好意と支援を受けた筈です。立派な農園を作ったかもわかりません。多分、孫に囲まれて平穏な老後を楽しんでいることでしょう。そんなことを想像し昔、仙台で交友していた頃の水元君を懐かしく思い出しています。嗚呼、あれから茫々70年です。懐かしいです。

今日の挿絵代わりの写真は現在の相沢メガネ店の本店と広々とした南米の農園の風景写真です。写真は、「南米の農園の風景写真」を検索して、インターネットの写真をお借り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========================
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%BC%E6%B0%93
蒼氓』(そうぼう)は、石川達三の中編小説。1935年4月「星座」に発表され、第1回芥川賞を受賞。同年10月改造社より同作を表題とした短編集が刊行。その後1939年2月から7月までに「長篇文庫」に第二部、第三部が掲載され、長編を成した。ブラジル移民を余儀なくされた貧農たちの悪戦苦闘の日々の悲惨さを、社会的正義感から客観的筆致で描写した作品で、第一部は神戸の移民収容所を描いたもの。1937年映画化、1960年テレビドラマ化された。
第1部は移民収容所から神戸出港までを描いたもので、1932年に雑誌『改造』の懸賞小説募集に応募するも選外佳作となり、翌年加筆して再度発表する予定が、掲載予定だった雑誌が廃刊となって日の目を見ずにいたところ、1935年4月に、新早稲田文学の同人によって創刊された同人誌『星座』に編集長の独断で石川の知らぬ間に掲載され、それが新設の芥川賞の対象作品となり、8月に第1回芥川賞を受賞した[1]。1930年、石川がブラジル移民として渡伯した時のことを描いたもので、題名は民草(たみくさ)、民衆を意味する(「氓」は流浪する民の意)。石川は当時無名の新人だったが、受賞によって一躍人気作家となった[3]。同年10月、他の短編3作と合わせて改造社より『蒼氓』の題で刊行。三笠書房刊行の雑誌「長篇文庫」に1939年2月から4月まで第二部「南海航路」が、7月に第三部「声無き民」が掲載され、同年『蒼氓 三部作』として新潮社から刊行、1951年新潮文庫に入り長く読み継がれた。
第2部は船内の様子、第3部はブラジル到着後が描かれ、渡航した移民たちが、現地に根をおろそうと決意するところで終わっているが、作者の石川は半年ほどで帰国している。