後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「仙台の近くの金蛇水神社のボタンの花の写真」

2023年06月27日 | 写真
仙台の近くの金蛇水神社のボタンの花の写真をお送り致します。
 仙台の近くの岩沼市の金蛇水神社で、大輪のボタンが見頃を迎え、訪れる人の目を楽しませています。
金蛇水神社には約100種類1000株のボタンが植えられていて、見頃を迎えています。
赤や黄色、ピンクの大輪のボタンが咲き誇っています。

「忘れ得ぬ人々(11)仙台市愛宕中学校の亡くなった同窓生への追悼」

2023年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
2012年10月に、仙台市愛宕中学校の第二回生の同窓会が秋保温泉でありました。私は卒業以来61年目に初めて仙台の同窓会に出席しました。
若くして仙台を捨てるようにしてアメリカへ留学した私はそれ以来61年間仙台の中学校の同窓会へは不義理を重ねてきました。
今回をもって最後にしますという案内状に誘われて出席しました。61年目に再会した懐かしい友人が皆笑顔で迎えてくれたのです。
その折に幹事が配った名簿に物故者の名簿がありました。分かっているだけでも既に76名もの人が旅立っていたのです。2回生は全部で350人でした。
その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。亡くなったことも知らなかった私の薄情さがこたえました。長い間疎遠にしていた私のお詫びとして以下の追悼文をお送りいたします。
まず萩生田啓一君へ私の疎遠をお詫びします。君の家にはしょっちゅう遊びに行き優しい母上に随分とお世話になりました。北海道炭鉱に勤めていた父上にも親切にして貰いました。お霊屋下の奥の方に家があり近所に住んでいた宮内量君ともよく一緒に遊んだものです。
君が大学卒後、七十七銀行に入り、その得意先まわりの折に私の大学の実験室を訪ねてくれたことがありました。新しい職場に張り切っている様子でした。それが君に会った最後になりました。性格の優しい君に会えると期待しつつ同窓会に行きました。旅立ったことも知らなかった私をお許し下さい。
内海範夫君。君は長身で知的な少年でした。今回の大津波で流された宮城県の名取市の閖上港町から汽車通学していたので心配していました。同窓会に出ていた友人に君の事を聞きました。石巻日赤病院に医者として定年まで勤めていたそうですね。定年後、実家のあった閖上港町に帰って暫くして病気で亡くなったそうですね。ですから大津波が来る前だったのです。幸いだったのかも知れませんが何故か悲しいです。
有路敏夫君。君の家は愛宕神社の山の中腹にありました。何度も遊びに行きましたね。君は小柄な体に機敏そうな顔をしていました。よく走り回って遊んでいましたね。勉強は苦手だったようですがいつも数多くの友人が君の周りにいました。友達のめんどう見が良かったですね。何故か君のパーソナリティーが魅力的だったのです。今回の同窓会で多くの人が君の事を懐かしそうに話してくれました。
我孫子遜君。美声でよくイタリア歌曲を歌って聞かせてくれましたね。満州からの引き揚げで、都会的な雰囲気をまき散らしていましたね。
大学を卒業してからすぐに東京で一緒に飲みましたが、その後、君が証券会社で忙しくなり会えなくなりました。そして若くして病死したのです。その頃のことをよく知っている友人が同窓会で君の華やかな活躍ぶりを話してくれました。それにしても若すぎる死でした。君は実に印象深い人でした。
村木良彦君。きみは2008年に亡くなり東京の増上寺でお葬式があり私もでました。
テレビマンユニオンを創り、テレビの有名な旅番組を沢山つくりましたね。
仙台時代は君の東八番町の家によく遊びに行きました。中学校と高校では一緒に演劇部でよく遊んだものです。それにしてもテレビ界では有名なプロデューサーとして活躍しましたね。
早坂清作君。君は喧嘩が強かったですね。その君が何時も非力な私を守ってくれましたね。どういう訳か君は僕の保護者のようになってくれていました。貧しい時代で、世の中は殺伐としていました。学校でも喧嘩が絶えませんでした。現在のよう陰湿ないじめはありませんでしたが鉄拳がものを言う時代でした。
そんな学校で喧嘩の強い君が守ってくれたおかげで大変心強かったです。そのお礼を何時か言おうと思いつつ今回同窓会へ行ったのです。でも君は既に旅立ってしまっていたのです。
早坂清作君、私を守ってくれて有り難う。そのことは一生忘れないよ。
その他いろいろ追悼したい友だちが沢山いますが、この辺で止めます。
今日は既に亡くなってしまった76人の愛宕中学二回生のご冥福をお祈り致します。どうぞこの私の長い間の不義理をお許し下さい。
ついでに小学校時代の友人へも追悼文をお送り致します。
お霊屋下に本間君という金持ちの家の子がいました。大柄ですが気の弱い優しい性格の子でした。彼の家には小学校の時よく遊びに行き、広い屋敷の中の樹木に登って遊んだものです。終戦直後に、プロ野球の若林忠志選手が彼の家に寄寓していて、小学校の校庭で野球を教えてもらったこともありました。
本間君とはその後会っていませんが、中年の頃、事業に失敗して自殺したという噂を聞きました。彼の気の弱さがよくなかったのかと悲しい思いをしました。
そのお霊下には満州から引き上げて来た羽田君も住んでいました。でもすぐに何処かへ行ってしまったのです。
それから大人のように分別のある三浦君もそのお霊下に住んでいました。しかし三浦君とは一別以来会っていません。賢い子でした。
優等生の鈴木壽君もお霊下に住んでいました。彼とは2012年の同期会で61年ぶりに会いました。感無量でした。

仙台に行くと仙台駅から名掛町、大町、東一番丁とゆっくり歩きながら私は過ぎ去った小学校や中学校の頃の友人のことを思い出します。
懐かしいその少年たちはみんな旅立ったり、はるか遠くに行ってしまってもう二度と会えないのです。仙台の町もすっかり変わってしまいました。

今日の挿絵代わりの写真は仙台を流れる広瀬川の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)