このブログに8月28日掲載しました、「甲斐駒山麓で偶然見つけたターシャ」という記事でご紹介した美しい庭のオープンサロンが9月18日、19日、20日、21日の10時から開催されます。この期間は庭の可憐な秋の草花を楽しむことが出来ます。陽賜里(ひだまり)工房です。桜を使った草木染めの体験教室も19日と21日に御座います。草木染め教室に参加ご希望の方は白いハンカチやTシャツをご持参下さい。なお草木染めは1人300円です(コーヒー付き)。参加希望者は、090-4170-0370(原田さん)へ予約して下さい。ただ見学する方ももちろん大歓迎です。
場所は北杜市武川町の真原桜並木の東端で、並木道の南側に隣接しています。下の写真の小屋の後ろがわが真原桜並木です。上の写真をご参考にして見つけて下さい。桜並木から少し入り込んだ所に星山荘という民宿があります。お楽しみ頂ければ嬉しいです。(終わり)
8月6日に前立腺全摘出手術を受けてから始めて本格的なセイリングをして来ました。開腹手術は体力や気力の回復に日数がかかりました。ヨットの傍までは何度か行きましたがセイルを2枚上げて本格的なセイリングをする気力が無く出来ませんでした。今朝は初秋の爽快な風が吹いていました。気力も充実してきたようなので霞ヶ浦へ行きました。
少し強めの東風が吹いていましたが、思い切って2枚のセイルを上げてセイリングをしました。船体を傾けながらジグザグに走ったり、8の字の形に走りまわりました。体が風の中に舞い上がるような錯覚にとらわれ、蝶々になったような気分になります。風と一緒に舞遊ぶような気分のセイリングは一年に3回あれば良いほうです。気温が丁度良く、乾燥した少し強めの風が一定の方向から吹いていると、風の中を飛ぶように走り回れるのです。
こんな気分は写真に撮れないのが残念です。変わり映えしませんが、下に今日のセイリングの写真を掲載します。風の中の蝶になった心算で、爽快なセイリングをご想像して頂ければ嬉しいです。(終わり)
この遺骨の科学的考察は次回の記事に掲載しますが、題と以下の記事は宗教的記事としてお読み頂ければ嬉しく思います。
三蔵法師の頂骨が昭和17年に偶然に南京で発見されました。お骨の入っていた石棺に、「宋時代の天聖5年(1027年)に、演化大師が西安から南京へ持って来た」と刻んであったのです。その頂骨の一部が昭和19年に南京政府から日本へ寄贈されたのです。そして日本の仏教界の為に海を渡って来ました。
玄奘三蔵法師が遠くインドへ旅したように死後にも旅をして日本へやって来てくれたのです。その遺骨は現在、埼玉県の岩槻の慈恩寺が守っています。昨日、お参りして来ました。慈恩寺の第50世住職の大嶋見道師と第51世住職の大嶋見順師の2代の住職が心を配り慈恩寺から少し離れた場所に玄奘塔を建て、その根元に遺骨を奉安しました。この遺骨は慈恩寺だけの所有物ではなく、日本の全仏教徒の為に眠っているのです。その為に見順住職は日本仏教連合会と相談をしながら、お寺とは独立した場所に13重の塔を建て玄奘三蔵法師のお墓にしたのです。更にその後、遺骨は日本仏教連合会の決定にしたがって、台湾の玄奘寺と奈良の薬師寺へ分骨されました。
慈恩寺へ行けば第51世住職の大嶋見順師にお会い出来ると楽しみにして参上しましたが、残念にも2年前に亡くなっていました。奥様と第52世住職の方としばしお話をした後に玄奘三蔵法師のお墓へお参りに行きました。午前中は教会のミサへ行き、午後に家内と一緒に行きました。
13重の玄奘塔は広々した田畑の中にありました。参道には店も無く、人気の無い淋しい野原が夏の名残の日差しの中に輝いているだけです。
下の写真が玄奘塔の入口の門です。思わず合掌し、中国の西安から、遠方の埼玉県まではるばる来てくれた三蔵法師の温かい慈悲の心へ深い感謝の言葉をつぶやきました。
下の写真は13重の塔で東武鉄道の根津社長が昭和22年に寄進した見事な石塔です。この塔の基部に高さ8cm、直径7cmの水晶の壺に入れた玄奘三蔵法師の遺骨が埋めてあります。
下の写真は長安にある玄奘三蔵法師のインドへの旅姿の絵画を忠実に模した大きなブロンズ像です。
下の写真は玄奘塔のある周囲の風景です。場所は、http://www.jionji.com/ に御座います。
お参りして豊かな気持ちになりました。
しかし参詣人が誰も居ないのが淋しいです。多くの日本人は玄奘三蔵法師の遺骨がここに有ることを知らないのです。複雑な思いです。次の記事でその原因を少し考えて見ます。皆様はこの状態をどのようにお考えでしょうか?
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。 藤山杜人
実社会で人に会うときは、まずその人の姿や顔を見ます。名刺を交換したり、簡単な自己紹介をしてから話合いを始めます。ネット社会は姿も顔も見えない仮想的な空間です。無責任なことを書いても非難されません。私個人はそのような考えがネット社会を貶めていると信じています。そのような理由から昨日、自分の姿の写真を3枚掲載しました。人相が悪いので顔は勘弁して貰いましたが。私は東京の小金井市に住んでいる老人で妻と2人の子供と3人の孫がいます。ネットの上の私の友人については住んでいる場所や家族の様子などは皆知っています。姿や顔の写真も見ています。ネットの上で自己紹介をすると犯罪に巻き込まれるから実名を含めて絶対に紹介をしてはいけないと忠告してくれる人々が多いのです。しかし犯罪に巻き込まれるなら過去73年の実社会生活でも巻き込まれる可能性は同じだった筈です。そのような疑心暗鬼が世の中の人間関係を冷たくすると信じています。過度な個人情報の公開禁止の風潮も社会の雰囲気をギスギスさせています。
もう一つ、賢そうな人々がブログでは昨日見たテレビ番組の感想や、個人的な雑談を書いてはいけない。そんな記事はブログのレベルを低俗にする上、誰も読んでくれないと忠告する人がいます。これも余計なお世話です。書きたければ書いても良いのがネット社会の良さです。読みたくない記事は読まなければ良いのです。
例えば、昨夜見たテレビ番組に感動しましたので感想を書いてみます。フィリッピンのモンテンルパ刑務所のBC級日本人戦犯108名を、歌手の渡辺はま子と教悔師の真言宗の僧侶、加賀尾秀忍が協力しあって全員の釈放、帰国を成し遂げたという話です。死刑執行をしようと決心していたキリノ大統領を、最後に加賀尾秀忍師が訪問し、モンテンルパの夜が更けて、という渡辺はま子の歌のメロディーのオルゴールを贈呈するのです。オルゴールの悲しいメロディーに心が動かされたキリノ大統領が特赦、釈放を決心します。その前に渡辺はま子が国交の無いフィリッピンのビザを苦労して得て、渡航し、モンテンルパ刑務所内で日本人の戦犯の前で当時の流行歌と「モンテンルパの夜が更けて」を歌って慰めます。一介の流行歌手と僧侶が、戦犯108名の無条件釈放を勝ち取ったのです。実話です。当時の映像も多く挿入されています。本も色々出版され現在でもネットで購入でます。「渡辺はま子」や「モンテンルパ刑務所BC級戦犯」を検索すると出版された本の情報も得られます。ブログの上で商品の宣伝をすると、賢い人に顰蹙を買い、冷笑されますが、良い話は日本民族の財産として後世へ伝いたいと思います。
皆様は昨夜のこの番組をご覧になったでしょうか?ご感想をコメントとして頂ければ嬉しく思います。
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。 藤山杜人
少年の頃、西遊記に夢中になった時期がありました。映画も何度か見ました。孫悟空や、沙悟浄や、猪八戒の目覚ましい活躍も面白いが、三蔵法師の柔和な優しい笑顔が好きになってしまったのです。孫悟空が悪い事をしても何時も優しく許している。お釈迦様とはこんな人だったのかも知れない。青年になって、何となく三蔵法師が懐かしくなり、色々な本を読みました。17年間におよぶインドへの旅と西安に帰ったあと19年間の経典の翻訳事業に圧倒されました。三蔵法師は根気が良く、知的に優れているだけでは無いのです。慈悲の心が体中に漲り、どんな人でも優しく包み込む雰囲気を持っていたと信じています。そうでなければ、初めて訪れる西域の各地で大歓迎される筈がない。1980年代に2度、西安に行き、三蔵法師の出入りした大雅塔に登り、深い感慨にふけったこともあります。訪問する機会を逸しましたが、西安にある興安寺の唐三蔵塔の下には遺骨が祀ってあるということです。
その後20余年の年月の流れました。昨日、偶然にも三蔵法師の遺骨が分骨され日本にもあることを知ったのです。しみじみとした嬉しさが体中に広がっています。埼玉県の岩槻の慈恩寺の13重の塔の下に眠っているのです。地図も調べ、すぐに訪問する心算です。昨日、何故、三蔵法師の遺骨が日本へ渡ってきたかという経緯を記事にしてこのブログで紹介しました。お読み頂ければ嬉しく思います。
何故、老年になった現在、三蔵法師にまた会えたのでしょうか?それはブログを書いていたお陰です。
書く話題に窮し、近所の深大寺の門前蕎麦の取材をしに行きました。ついでに深大寺にお参りし、その歴史を読んでみました。西暦633年、満功上人が創建したそうです。そのとき、三蔵法師のインドへの旅の途中で、流砂河を渡るのを助けた深沙大王を祀ったと書いてあります。三蔵法師の弟子がはじめた法相宗のお寺だったとも書いてあります。
お寺の縁起書には西遊記のことが一切書いてありません。西遊記な明時代の娯楽物語です。関係ありません。しかし私は素人の直感で、深沙大王は沙悟浄のモデルになった人物と分かりました。あとで西遊記を検索して調べましたが、この直感が正しいことが明記してありました。
昨日もう一度深大寺を訪問し、深沙大王が祀ってある深沙大王堂の写真を撮って来ました。昨日のこのブログの深大寺の紹介記事のトップに深沙大王堂の写真を掲載しました。言ってみれば沙悟浄のモデルが祀ってあるお堂です。ご覧頂ければ嬉しく思います。
沙悟浄のモデルが祀ってあるお堂があるので、とたんに愛着が出て来ました。家内に沢山写真を撮るように頼みました。下に詰らない写真かも知れませんが、「沙悟浄ゆかりのお寺」の近所の風景写真としてお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。
日本人の多くは玄奘三蔵法師を尊敬していると思います。西暦650年頃、唐の都を密出国し遠くインドに経典を求める旅に出ました。生れつきの人徳も豊かだったらしく行く先々で歓迎され、大切にされました。現在、日本で広く使われているお経はほとんど全て三蔵法師がインドから持ち帰り、漢文に翻訳されたものです。
私はカトリックではありますが、昔から三蔵法師を尊敬し、色々な本を読んできました。ところが今日、偶然にもその遺骨が日本のお寺にも分骨されて信仰を集めていることを知りました。埼玉県の岩槻市にある慈恩寺の13重の塔の下に遺骨が眠っています。左の写真は慈恩寺本堂です。
現在の住職様の大嶋見順様が中国の南京から分骨されて慈恩寺へ伝わった経緯を具体的かつ克明に書いています。慈恩寺の HP:http://www.jionji.com/ を開け、左サイドバーの三蔵法師の項目をクリックするとその経緯が克明に書いてあります。
簡略に言いますと、昭和17年日本軍が南京で偶然、三蔵法師の遺骨を発見します。そのご日本政府のつくった傀儡政権の南京政府が一大法要をし、その後遺骨の一部を日本の仏教会の代表者へ与えたのです。彼は東京へ持ち帰り、東京の増上寺に預けます。しかし空襲が激しくなった東京を避け、埼玉県の慈恩寺へ疎開したのです。戦後は色々な事情で、結局、慈恩寺が遺骨を永久に祀ることになったのです。この慈恩寺の遺骨は蒋介石の依頼により、更に分けられ台湾のお寺にも安置されました。その後、奈良の薬師寺の依頼で薬師寺へも分けられています。昭和17年に南京で発見された遺骨は同時に発見された石棺の碑文や副葬品から中国側も三蔵法師の遺骨と認めているので、本物と認めて良いのではないでしょうか?
最後に慈恩寺の現在の住職様の文章を転載いたします。玄奘三蔵法師へ対する敬慕の情があふれている感動的な文章と思います。ここに謹んで転載させて頂きます。
=======慈恩寺。現在の住職様、大嶋 見順様の文章======
私は昭和53年、父見道の後を承けて慈恩寺第五十一世を継ぎました。思えば昭和25年玄奘塔建設の折、塔内へ霊骨を奉安したのも私なら、薬師寺様へのご分骨で解塔申し上げたのも、更には水晶の壷を開いて霊骨を分骨申し上げ、再び奉持して塔内へお納め申し上げたのも私であります。
建塔奉安の折、もはや再び誰の目にも触れることはあるまいと思ったことが再びおこり、しかも私自らの手に奉持し、分骨申し上げるというまことにおそれ多い、願っても与えられないことが、片田舎の住職に一度ならず二度まで与えられたということは、唯事ではない因縁を感ずるのであります。
仏教ではもののいのちは永遠であると考えられています。とすれば、1300年の昔、三蔵法師が中国からインドへの経典をもとめて大偉業の中で、過去の私がいささかの手助けをしたからこそ、今この世に人と生まれて、余人を措いて法師の霊骨を奉持するご縁をいただけたと思わずにはおれません。でなければ、仏教徒として高徳の方々をさしおいて、名もない片田舎の住職にこのような機会が与えられるはずもないでしょう。
最近は、檀信徒の方々のご理解とご協力をいただきながら、当寺も着々と整って参りました、また、玄奘法師のご威徳に関心を寄せてくださる人々も年々増えております。今後はさらに皆様のご縁をいただきながら、法師の遺徳の顕彰に努力いたしたいと考えております。
以上、因縁の不思議を感じながら霊骨をお迎えしたいきさつを記させていただきました。(終わり)出典は:http://www.jionji.com/ です
門前蕎麦で有名な調布市の深大寺は東京都では浅草寺につぐ古いお寺で、733年に満功上人によって創建されました。武蔵国の国分寺は760年代始め頃に完成していますので、それより20年も古いお寺です。
満功上人は玄奘三蔵法師の弟子がはじめた法相宗を学び、法師を深く尊敬していました。三蔵法師がインドへ旅した途中、西域の大河、流砂河を渡るときその河の砂の中に住む水神の深沙大王に助けられました。その経緯から満功上人はお寺の名前を深大寺として、650年には深沙大王の像を安置しました。その後、750年頃、このお寺は天台宗に変わります。その経緯は省略しますが、その関係で、991年には天台座主、元三慈恵大師の像を本尊にし、以後、江戸、明治、現在に至るまで元三大師堂は人々の信仰を集めています。
現在の深大寺の本堂は大正時代に建てられたものです。深大寺の寺領は現在の神代植物公園も含めて広大であたといいます。多数の小作人を擁し、寺領の畑には蕎麦を栽培して来ました。江戸時代は代代の将軍へソバを献上し、元三大師堂への参拝客相手のソバ屋が多数あったと伝えられています。現在も参道にはソバ屋が並んでいます。
下の写真は上の説明に従って、上から順に、現在の「深沙大王堂」、「元三大師堂」、「深大寺本堂」、そして現在の「門前町のソバ屋の様子」を示しています。
昨日は手術後34日目です。傷の痛みも無くなりましたので体力回復のために富士山の5合目まで車で上がり、6合目の下まで1時間ほど登りました。家内と道の脇の岩に座り、雄大な風景を楽しみながら持参のオニギリの昼食をとりました。その後、また1時間ほどかけて写真を撮りながらゆっくり降りてきました。晴れ上がった空に白い雲が湧き、なかなか雄大な風景でした。東から北へ向かって、奥秩父の山波、八ヶ岳が横たわっています。そしてその左手には、甲斐駒から北岳、間の岳、農鳥岳と続く南アルプスの山々が、北から西へと連なって青く輝いていました。
富士山の中腹の写真を4枚お送り致します。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 藤山杜人
下の写真は富士山、吉田口からスバルライン3合目から見た河口湖です。
下の写真はスバルライン終点の5合目の駐車場から見上げた富士山頂です。
下の写真は山中湖の写真です。5合目と6合目の中間では雲の下の山中湖がよく見えます。
下の写真は6合目の下にある防災センター近くの礫石の急坂とダケカンバの向こうに湧き上がる雲の様子です。
心が癒され、気分爽快になり、健康な気分になるブログを作りたいと努力しています。その為の何よりのものは美しい自然の風景写真を掲載することです。花々の写真も人々を元気にします。写真機も高級で鮮明な写真の方が良いものです。例えば雄大な大雪山を背景にした透明感あふれる青空と広い大地の写っている風景写真などがその例です。想像しただけで爽快な気分になります。しかし日常身の周りで見かける何気ない草花や人間の姿の写真を掲載しても良いと思います。人々の健康な生活が見えるような写真です。今日はその様な写真の3つの実例をしめします。はじめは何気ない可憐な草花の写真です。ご覧下さい。
小さく可憐な花が色々咲いています。無造作に撮った写真ですが、何かホットしませんか?その原因はこの花々を植え、育てた人の心にあります。豪華絢爛たる見事な花々を整然と育てて、見る人々を感動させようという気持ちが無いのです。散歩の野の道端に何気なく咲いている草花のように育てているのです。しかし良く見ると色々な種類の花々が混じり合い、自然の調和が感じられます。そのような植えた人の気持ちが奥ゆかしく感じます。心が和みます。元気になります。
さて次は花の写真ではありません。2人の若いカップルが仏さんを拝んでいる写真です。
昨日、733年創建の古刹の深大寺の厄除元三大師堂の暗い中に何となく20分程座っていました。さて、と腰を上げたら、カップルがチャリンとお賽銭を投げ入れて、並んで手を合わせています。思わず撮ったのがこの写真です。まだ若い2人ですが育った家庭の健康な雰囲気が想像できます。2人の将来へ幸多かれと思わず祈ってしまいました。その後で自分の気分も良くなったことに気が付きました。なにか豊かな気分になって歩いていたら、下のような光景が目に入りました。
母親と2人の子供が熱心に池へ何かを投げ込んでいます。近づくと大きい方の子供が振り仰ぎ、自慢そうに笑っています。池を覗くと大きな草亀数匹と錦鯉十数匹が投げ入れた餌を奪い合いながら食べています。家から準備して持ってきた小さく切ったパンを沢山持っています。きっと昨夜のうちから母親が、「明日は公園へ行って、カメさんと綺麗な色のコイさんへ上げましょうね」と言いながら切ったパン片に違いありません。そこから離れて遠景の写真を撮りました。遠景の方が静かな雰囲気が伝わると思ったからです。
如何でしょうか?皆様、少しお元気になったでしょうか?私はこれを書きながら気分爽快になりました。今日一日健康に過ごせる自信がついて来ました。
今日も皆様の心が安らかで、健康にお過ごしになりますようにお祈りいたします。
藤山杜人