後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

喜びも悲しみも幾歳月・・・そして灯台への道

2011年02月14日 | 写真

学生時代に松竹映画「喜びも悲しみも幾歳月」という映画を見ました。木下恵一監督、佐田啓二、高峯秀子主演のオールカラー映画でした。全国の美しい灯台の風景と灯台守夫婦の喜びと悲しみが描かれています。若かった私はこの映画に感銘を受け、数々の美しい灯台の風景が心に焼き付いてしまいました。

その後、灯台のそばへ行くと、必ず灯台まで登って行くのが習慣になりました。多くの灯台は駐車場より高いところに立っています。映画、「喜びも悲しみも幾歳月」の場面を思い出しながら登ります。事故で若くして亡くなった佐田啓二を思い出します。高峯秀子の美貌も思い出します。

先日の外房総の旅では野島崎灯台と犬吠崎灯台へ行ってきました。灯台への道はミゾレ混じりの強風が吹きつけて前も見えません。体で風を押しながら灯台まで歩きました。灯台は随分前から完全に自動化され灯台守の宿舎はありません。「喜びも悲しみも幾歳月」は戦前、戦後にかけて灯台守の奥さんの手記にもとずいた実話なのです。灯台守が全国に居なくなってその苦しみ、悲しみを経験する人も居なくなりました。安心して、寒い風の中を散歩して帰って来ました。下に野島崎灯台と犬吠崎灯台と周囲の風景の写真をしめします。

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散歩していたらある木工作家に会いました

2011年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

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国立市の矢川にある滝乃川学院は明治24年に日本ではじめて作られた知的障害児専門の学園です。創立者は石井亮一氏で妻の筆子さんと共に障害児の世話をしました。家内の祖母が石井夫妻を尊敬し、少しながら支援をしていたようです。そんなご縁があったので、昨日見学へ行って来ました。

その帰り、矢川沿いに田園の道を散歩していたら、上の写真のような夏ミカンがたわわに実った木に出会いました。右奥にある家をしげしげと見ました。家の外側には綺麗に切りそろえた薪が積んであります。庭には何か藝術作品のようなものも飾ってあります。ははーん、芸術家が住んで居るなと思います。すると丁度その時、中年の主人が帰ってきました。ニッコリ挨拶をしてくれて、「今、ちょっと待ってて下さい」と言って家に入り、自分が主宰している「イトウタカシ木工房」のパンフレットを手にして出て来ました。

パンフレットには自分が創作した木工製の作品の写真があります。テーブル、イス、本棚、仏壇、オカモチ、オブジェ、楽器、店舗ディスプレー、表札、照明器具、花器、時計、積み木、木の指輪、首飾り、舞台・映画の小道具、などなど何でも作りますと書いてあります。(詳しくは、http://itotaka.com をご覧下さい)

散歩をしているといろいろな人が挨拶をしてくれたり、話しかけてくれます。私も散歩しながら会う人々へ挨拶をするようにしています。


親子、孫と代々読み続けられる星新一のショート・ショート作品

2011年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログはわかる人だけに解かる内容です。判からない人には面白くも可笑しくもないのです。と狭量な自己満足で居直っていました。そうしたら中学生の男の孫が「面白くない」と、面と向かって冷やかに非難します。そして星新一の本を貸してくれました。何も言わずに貸してくれたので仕方なく数編を読みました。

短くて読み易く、その上非常に面白いのです。科学的空想によっていろいろ興味深い発明品が現れます。欠陥の無い技術はこの世に存在しないという原理原則に従って何かしら致命的な欠陥を暴きだして終りになります。

発明には科学的な原理を踏まえていますが、途中からとんでもない逸脱へと発展し、奇想天外な発明品になります。人間の善意と悪意を上品に詰め込んだ軽いタッチの短い小説のようなものです。美しいエッチングの小品集です。人間の怨念とか男女の間の情念や復讐劇は絶対に出て来ません。散文詩のような文章で、深い内容を含んでいます。人間への鋭い皮肉・アイロニーが書いてありますが美しい情景描写のお陰で上品に仕上がっています。

考えさせるユーモアが洒落たタッチで書いてあります。一つだけ1958年に発表された初期の傑作の「おーい。でてこーい」をご紹介します。

ある村のはずれにある社(やしろ)が台風で流されました。村人が集まって社の跡を見ていたら大きな穴が出来ていたのです。若者が「おーい。でてこーい」と穴の底へ向かって叫びますが、返事がありません。そして小石を一つ投げ込みます。底から反響はありません。

結論を先に言えば、人々は便利なゴミ捨て場として不要な物を何でも投げ入れてしまいます。原子炉のカス、外務省の機密書類、伝染病の実験に使われた動物の死骸、浮浪者の死体、都会のゴミや下水、警察の押収した巧妙すぎる偽札。人間の忘れたい物、他人には知られたくない物全てを捨てたのです。便利至極な穴でした。都会の汚れを引き受けてくれました。海や空が綺麗になりました。

しかしある晴れた日に青い空の上から声がします。「おーい。でてこーい」という。そしてストーンと小石が一個落ちて来たのです。これでお終いです。洒落たお終いですね。あとは貴方のご想像にお任せします。

星新一の本は家内から息子へ、そして孫へと伝承されています。その孫が折角ブログを書くのなら星新一のように読んで面白く、考えさせる内容の短い文書を書きなさいと見本として渡してくれたのです。しかし残念ながら私にはその才能はありません。勘弁して下さい。そこで何時も文章とは関係の無い美しい写真を添付して誤魔化しています。

下のは近所の神社の写真です。お正月に撮った写真です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

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大学時代の30名の同級生の友情に感謝する

2011年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム

仙台にある大学の金属工学科の定員は当時30名でした。その専門教育は現在、思い出してもとても徹底していて、工業界へ就職してもすぐに役に立つような高度な内容でした。

全ての金属の製錬と精製方法から、出来上がった金属材料の強度や性質を体系的に教えてくれました。そして種々の合金の化学分析の実験を丁寧に指導してくれました。

金属や合金は結晶から出来ています。その結晶組織を各自へ貸し与えられた顕微鏡で観察し、組織のスケッチを描く訓練も受けます。一人で数十枚のスケッチを描いていると自然に金属は結晶で出来あがっているという実感的理解が出来るのです。

工業設計の科目では大きな製図用紙に正確な設計図を描く訓練も受けます。

4年生になると鉄鋼製錬学、鉄鋼材料学、非鉄製錬学、電気冶金学、金属加工学、鋳物学、防食腐食工学などの細分化された講座に4名くらいずつ分かれ教授の指導のもとで卒業実験を一年間します。

4年生の夏には4週間の工場実習が必修で、30名の同級生は全国の金属工業関連の工場へ2名くらいずつ配属になり工場で実際に技師見習いのような訓練を受けます。3年生の夏には全国の金属関連の工場を訪問する2週間の見学旅行も必修でした。

何よりも有難かったのは講義で金属に関する専門用語を、逐一、英語とドイツ語で全て教わったことです。そのお陰で英語やドイツ語の技術論文が読めるようになりました。特に私はアメリカへ留学をしましたのでその有難みがしみじみと分かったものです。英語の講義がなんとか理解出来たのは英語の専門用語が全て理解出来たためです。

仙台の大学はすでに新制大学になっていましたが、教授陣は旧帝国大学時代の人々がそのまま働いていました。

その後、私は幾つかの大学で働きましたが、年を経るに従って日本の専門教育のレベルが下がって行くのを悲しい思いで見ていたものです。個性の尊重と自由の拡大解釈で「専門」というものが軽視されてしまったのです。

それは別にして、上記のように30名の同級生が同じ専門教育を受けたという意識は何か戦友のような気分にさせます。就職して全国の会社に散らばっても、同級生は若い時に一緒に同じ専門を学んだのです。その意識が友情として一生の間残っているのです。

同級生で大学に残ったのは私一人でしたので、会社で技師として働いている友人達は何かにつけて私を助けてくれました。工場へよく招待してくれたのです。それだけでなく個人的にヨットを教えてくれたりしてくれた友人もいます。オハイオ州立大学へ誘ったら留学してくれた友人もいます。一緒に初島へ船で旅した友人も居ます。その上、私の霞ヶ浦のヨットの会へ遠路はるばる何度も参加してくれた友人達も居ます。遠路なのに招ねいた事を申し訳なく思っています。(怖い体験の連続でした

定年後は2年毎にあちこちの温泉で同級会をしています。その上、Gさんが幹事役で4ケ月に一回、横濱で昼食会をもう14回も続けて居ます。その会には関東地区在住の同級生が12、3名程集まり、楽しくビールを飲み交わしています。

卓越した趣味を持っている人も居ます。油絵を専門的に習って毎年展覧会に出品している友人も居ます。あまり上手なので彼の油絵をこのブログで3度ほどご紹介しました。彼の描いた桧原湖の風景画は現在も我が家に飾ってあります。(「楽画樹ぐるーぷArt box ひまわり 」2008 絵画展の写真

蝶々の採集の専門家も居ます。彼のシベリアでの採集旅行記はこのブログで数回にわたって連載しましたので・ご記憶の方もいらっしゃると思います。(大宮司弘昌著、「初めてのロシア沿海州昆虫エコツアー」その一

このブログを読んでくれて、温かい声援を送ってくれるのも同級生です。本当に頭が下がります。大学時代の良い友人に恵まれて幸だったと何時も感謝しています。その友人達とまもなく別れる時が来ます。人生の摂理とは言え悲しいものですね。

友人達がいつまでも、いつまでも元気で、健康でいる事をお祈りしています。

有難う御座いました。(終り)

(下に油絵の上手なTさんの作品の写真とヨットへ来てくれた同級生のHさんとOさんの写真を示します。)

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シェイクスピアの生まれた家を忠実に復元した建物があります

2011年02月13日 | 写真

房総半島の最南端野島崎の北には花畑が広がる千倉があり、そのちょっと北にシェイクスピアカントリーパークという公園があります。その中にシェイクスピアの生家を復元した家があります。周りには16世紀のイギリスの当時の様子が分かるように幾つかの建物があります。 一番上の写真がシェイクスピアの生まれた家を復元した建物の写真で、二番目のは家の中の様子です。

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上のシェイクスピアカントリーパークの隣がローズマリー公園になっています。小さな公園ですが花の写真を下に示します。大きな無料駐車場もありますので南房総に行った折にはお寄り下さい。

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房総半島と伊豆半島の生活と文化の比較

2011年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム

ここ数年、国内のいろいろな地方へ家内と旅をしています。すると同じ日本でも地方によってこんなにも生活の様子が違うものかと驚く事が多いのです。生活の仕方が違えば人々の考え方が違って来ます。文化も違います。大げさに言えば日本の文化とはこの豊かな地方文化の違いが特徴と言えるかも知れません。東京や京都の藝術だけが日本の文化ではないのです。

地方、地方の生活と文化はその地方の歴史によって決まることも多いと思います。また、中央政権のあった奈良、京都、江戸、東京からの距離、交通の便利さによっても影響を受けます。しかし土地の自然条件が大きな影響を与えていると思います。

1月の18日、19日に伊豆半島の下田までの旅をしました。今回は2月11日、12日と房総半島の海岸沿いを丁寧に回る旅をしました。泊った所は下田のそばの白浜で、房総半島のほうも野島崎に近い白浜温泉と偶然同じ白浜でした。宿の窓から白い波打ち際を見ながら、ビールをゆっくり飲みました。そしてそれぞれの地方の歴史と自然環境の違いをボンヤリと考えて時を過ごしました。

房総半島で海を眺めて愕然と分かった事があります。房総半島の海は遠浅で浜辺に波が打ち寄せています。聞けば房総半島は日本一海水浴場の数が多いそうです。一方伊豆半島は溶岩が海にせり出し断崖になっている所が多いのです。

そこで分かりました。房総半島は水成岩と深い土壌に覆れているようですが、伊豆半島は、半島全体が火山の溶岩が固まりのようです。土壌が薄いので農作物が育ち難くそうです。

房総半島は海底の隆起によって出来上がり、伊豆半島は火山の噴火の連続で出来たと、素人の私は、勝手に決め付けてみました。

下に房総半島の浜辺の様子の写真を示します。

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そして、下の写真は伊豆半島が火山の噴火の連続で出来たことを想像させる海岸の崖を示します。

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このように素人の大胆不敵な仮定をしてみると、房総半島と伊豆半島の生活と文化の違いが分かるような気がします。

房総半島は花々とイチゴの生産が非常に多く、東京へ出荷しています。伊豆半島はキンメダイ、サヨリ、サザエ、アワビなの高級海産物を東京へ多量に出荷しています。どちらも東京へ近いという事が重要です。

房総半島は、勿論イワシ、アジ等の魚も取れますが、農村文化圏です。一方、伊豆半島は都会の影響が強い漁業文化圏です。文化が違えば、お土産屋さんの売り手の雰囲気が違います。一方は農民の純朴さがあり、他方は漁師のキップの良さがあります。宿の従業員の態度、物腰にもこの違いが見えるようですい。

どういもいけません。若い時からの比較文化の趣味が出てしまって申し訳ありません。素人の雑談ですから間違いだらけです。誰方かご指導下さい。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


多摩動物公園には絶滅したニホンコウノトリが沢山居ます!

2011年02月12日 | 写真

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150年前には日本の各地で普通に見らていたニホンコウノトリは次第に減少し、1971年に兵庫県の豊岡市で最後の一羽が捕獲されたのを最後に絶滅したと知っていました。

ところが先日多摩動物公園へ行ったら、なんと数十羽が檻の中を元気に飛び回っているではありませんか?まったく、これほど驚き、同時に心豊かになる経験をした事はありません。

帰宅して調べて見たら、多摩動物公園ではロシアや中国から輸入したニホンコウノトリを飼育して、1988年以降に100羽以上へ繁殖させたそうです。そんなに繁殖したなら佐渡のトキのように野山へ放鳥し、野生化すれば良いと思いました。

しかし現在の日本の環境では放鳥しても生き延びないと考えられているようです。

動物園は、昔日本に沢山居たが絶滅した動物を繁殖し、保存する役目があるのですね。その目的があるのならニホンオオカミも何とか出来なかったのでしょうか?

それにしても多摩動物公園のニホンコウノトリの繁殖と保護の成功へ心からの賛辞をお送り致します。

他にも絶滅動物や昆虫の、繁殖と保護に成功してるものもあると思います。少し詳しく調べて見ます。もし分かったら続篇としてご報告致します。

以下に国の情報機関から出されているニホンコウノトリに関する参考資料を添付致します。

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ニホンコウノトリ野生復帰計画と獣医師の関与http://ci.nii.ac.jp/naid/110002683112http://ci.nii.ac.jp/naid/110002683112

ニホンコウノトリ(Ciconia boyciana), 150年ほど前までは日本中でごく普通に見られた野鳥であった。しかし, 1971年に兵庫県豊岡市で野生最後の個体が捕獲されたことで, わが国のニホンコウノトリの地域個体群は消滅した。まれに迷鳥として中国大陸から渡ってくることはあるが, 残念ながら定着して繁殖することはない。この鳥が絶滅した主な原因は, 明治時代以降の狩猟による乱獲, 戦時中の営巣木の伐採, 農業改良による生息地の減少, 農薬による餌の汚染, 小個体群内で生じた遺伝的問題などであると考えられている。同様の現象は, 現在の野生ニホンコウノトリの生息地である中国やロシアでも進行しており, 種の存続自体が危ぶまれている。ニホンコウノトリの飼育下繁殖は, 野生個体が11羽となった1965年に兵庫県豊岡市で始まった。さまざまな努力にも関わらず, 日本産のコウノトリの繁殖は成功に至らなかったが, 中国やロシアから若い個体を導入して飼育下繁殖を試みた結果, 1988年に待望のヒナが誕生した。以後, 国内の3施設で順調に繁殖し飼育個体数が増加している。野生復帰計画を具体的にすすめるために, 1992年から専門家による委員会が設置された。遺伝的管理下でより多くの個体を飼育・繁殖させ, 野生復帰の訓練を行う新たな施設も建設される予定である。しかし, 野生復帰までにはまだ多くの問題がある。生息環境の保全は第一の課題である。たとえば, 飛行時の事故原因となる高圧電線への対策, 餌場となる水田の無農薬もしくは減農薬化, 湿地の確保, そして人工巣塔の設置なども考慮しなければならない。地域住民への啓発も大切である。獣医師が本計画に関われる分野は, 飼育下での疾病治療や予防のみならず, 環境保全を含めたはば広いものであると考える。わが国で今後も進展すると思われる各種希少動物の野生復帰計画を成功に導くため, 日本の獣医学は野生生物保護にも積極的に貢献していく必要があろう。

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宗教的訓練を重要視する社会としない社会の違い

2011年02月12日 | 日記・エッセイ・コラム

先進国ではいろいろな統計資料が公開されています。そしてその公開資料は正確であると考えて良いと思います。欧米諸国や日本、韓国、台湾の統計資料は信用出来ます。ところが信用出来る統計資料の無い国々が多いのも事実です。

以前も報告しましたが、欧米諸国、韓国、日本で、神様の存在を信じている人の割合を調べた統計結果が公表されています。それを見ると神の存在を信じている人の多い国はアメリカ、フランス、イギリス、韓国、等です。日本は最低に近い数字です。「無宗教です」と言うと人格が疑われる!・・・気をつけましょう! をクリックすると統計結果の図は見られます。

当然、日本は宗教的訓練の重視されない社会です。

随分昔の事で恐縮ですが、1962年にアメリカで就職するために履歴書を書きました。驚いた事にアメリカの履歴書には人種、宗教、宗教的訓練などという項目がありそれぞれをキチンと書きなさいとアドバイスを受けた事があります。アメリカで就職試験を受けるときは「宗教的訓練」が重要なのです。訓練を多く受けた人は採用されやすいのです。

「宗教的訓練」とは何ですか?と周りのアメリカ人に聞いたら明快に教えてくれました。まず教会へ毎週行っていたか?礼拝式の出席割合は40%だったか90%だったか具体的に書く必要があるそうです。そして何年間教会へ通っていたかも正確に書くのです。洗礼を受けた年月日と場所も必要です。それでは仏教徒の私はどのように書くのですか?参拝のためにお寺へ毎月何回行ったか書けば良いのです。あるいは修業の為に僧院に3ケ月籠ったら、それは立派な宗教的訓練です。まずそれで合格でしょうと教えてくれました。そして間違っても無宗教と書いてはいけません。書くと共産主義者とみなされ一発で不合格になると教えてくれました。結局、私はアメリカで就職はせずに日本の大学へ帰って来ましたが。

しかし、それ以来、「宗教的訓練」は私の心に引っかかる生涯のキーワードになってしまいました。

座禅でもお寺の掃除でも宗教的訓練です。寒い日でも教会のミサへ行くのも訓練です。退屈なミサも我慢するのも訓練です。宗教のことを聞くのも訓練です。こうして書く事も訓練なのです。

訓練を続けると何か良い事があるのでしょうか?無いのです。愚かな私の行いは少しも良くなりません。しかし、ほんの少しだけ内面の考え方が変わって来たような気がいたします。ほんの少しだけ物事を客観的に考えられるようになって来ました。最近、親鸞の事を書いた私の記事へpochiさんという方が次の様なコメントを送って下さいました。

藤山杜人さん おはようございます。
私の住んでいる広島地域に「中国新聞」という地方紙がありますが、五木寛之さんの「親鸞」(激動編)がこの1月から連載されています。初編に続き、毎日愛読しております。
五木寛之さんは以前から仏教に関する本も書かれていますが、大変興味深く読ませていただきました。
私は行者の修行を続けていますが、最近になって少しずつ自分自身の内面が変わってきているような気がしています。=====                                         アメリカの職場では職業倫理が重視され、内部告発がよくあります。その原因は宗教的訓練を重視しているからなのです。
話は急に変わりますが、私の宗教的訓練はまだまだ足りません。しかしそれを続けて行けば何時かは殉教という試練に耐えられるようにないるのかも知れません。(ムリムリ)そんな儚い思いもあるので長崎の26聖人の写真をお送りいたします。
ご縁があって、この記事をお読み下さった皆様のご健康と平和を今日もお祈り申し上げます。藤山杜人

Pic71 写真の出典は、http://www.wakaran-club.com/pic7.htmlです。


新潟県阿賀野市、瓢湖の6000羽の白鳥を写した写真

2011年02月11日 | 写真

新潟県阿賀野市の瓢湖には毎年、冬になると6000羽以上の白鳥が市bシベリア大陸から日本海の上を飛んで渡ってきます。その他に数万羽の鴨類も飛んできあす。私は毎年冬になると霞ヶ浦へ来る数十羽の白鳥の写真を撮りに行きます。

しかし瓢湖の6000羽の白鳥の写真を熱心に掲載ているHPを見て、すっかり圧倒されてしまいました。そこでそのHPの中から4枚を選んで下に示します。HPのURLは、白鳥の写真集:http://kadoyasan.com/swan_gallery19.html です。

上の3枚の写真は朝に目覚めつつある白鳥の様子、明るくなり一斉に飛び立つ様子、そして朝もやの上空を何処かへ飛んで行く様子を撮影した写真です。

こして飛び上がった白鳥達は越後平野の水田へ行きます。最後の4枚目の写真のように舞い降りて一日中稲の落ち穂を食べているのです。白鳥は魚を食べません。穀類だけです。近所の農家は水田に水を流していて、そこだけ雪が解けるように配慮しています。夕方になると白鳥達はまた飛び上がって瓢湖に帰って来ます。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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下に水田で落ち穂拾いをしている白鳥の写真を示します。

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天国と極楽浄土は同じ所・・・入口が違うだけです

2011年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム

死んだ祖父母や両親が仏教徒で、子供がキリスト教という場合があります。その逆の場合もあります。例えばキリスト教徒の子供が死んで天国へ行ったとき、浄土にいる祖父母、両親に会えないのでしょうか?あるいは先に死んでしまったペットの愛犬や猫には会えないのでしょうか?

このような疑問は多くの人々が持っています。しかし口に出して他人に聞く訳にもいきません。神父さんやお坊さんへ聞くのも憚られます。あまりにもばかばかしい質問です。しかし真剣に考えれば考えるほど切実な問題です。

その質問に対しての私の答えは年齢と共に変化してきました。

若い頃は、「そうです。浄土と天国は違いますから多分会えないのでしょう」と答えていました。

中年になってからは、「そうですね。難しいかも知れませんね。でも一生懸命会おうとすれば会えるかも知れませんね」と答えるようになりました。

老境に至ってからは、「天国と極楽浄土は同じ所・・・入口が違うだけですよ。必ずすぐに会えます。」と、確信を持って答えます。明るい声で答えます。すると多くの人は納得します。

そんな答えを何度もしていると自分もそのように信じるようになります。

宗教は人を幸せにする為にあるのです。浄土と天国は違うと言って不幸な人を作ってはいけません。ときどき狭い狂信的なキリスト教徒や仏教徒に会うことがあります。

宗教の信者が一番注意すべきことは狭量と狂信です。自分の信仰を他人へ押しつける事です。そのような事をすれば、無宗教の人々が増えるのです。

無宗教でも良いし、信仰を持っていてもどちらでも良いのです。

それはそれとして、ご縁があってこの文章を読んで下さった、

皆様のご健康と平和を今日もお祈り申し上げます。藤山杜人

浄土や天国には花がいっぱい咲いていると思いますので私が夢の島公園で昨年撮った花園の写真を下にお送りいたします。

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 美しい雑木林の下に埋まっている博物館・・・独創的な建築

2011年02月10日 | 写真

くにたち郷土博物館は谷保地区の美しい雑木林の下に展示室や事務室や講堂が埋まっています。地上に出ているのは全てガラス張りの玄関と階段へ続く長い廊下だけです。藝術的な建造物です。周りの林の風景の中に溶け込んでいます。

写真を以下にお送りいたします。建築にご興味のある方々は是非御出掛け下さい。

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寿命といってもやはり長生きしたい・・・私の本音ですが、しかし、、、

2011年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム

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老人になって、病気がちでも、本音では、誰でも一日でも長生きしたいと思います。人それぞれ生きる事への執着は違います。強弱の違いはあっても人間が生物である限り長生きしたいと思うのが当然です。

しかし、「長生きしたい」という時の気持ちが年とともにドンドン変わって行きます。私は中年の頃は必死に生きる事に執着していました。ところが一切の仕事を止めて、毎日遊び暮らしていると次第に「必死に生きる」ことが間違いのような気分になって来ました。やりたい事はあらかたしてしまったという満足感も少しずつ湧いて来ます。

そんな状態で5年も遊んでいると、「自分の寿命」というものが客観的に見えるような気分になります。自分が死ぬことが他人ごとのように感じられます。例えば、上の写真の左には2羽の親白鳥と右に2羽の子白鳥が写っています。そのうち子白鳥は親のそばを離れてしまいます。親は満足して死んで行きます。それが自然界です。私も白鳥を見ながら、自分も間もなく死ぬことを慰め、平穏な気持ちになります。

遊んでいる間にそんな気持ちが次第、次第に強くなって行くのです。その事実に自分自分が大変驚いています。生きる事への執着はありますが、何か切実でなくなっています。

ですから、「もう死ぬよ」とか、「もっと、もっと長生きしたい」とかいう冗談が気楽に言えるようになります。こんな事を書いているのも自分がもっと、もっと肩の力を抜いて旅立って行く準備をしているのです。個人的な準備にお付き合い頂き、この文章を読んで頂いていることに感謝しています。

自分の経験だけで書くのは間違っているかも知れません。しかし出来る事なら仕事を一切止めて何年間か遊び暮らすほうが良いと信じています。

今日は、仕事半ばで不運にも亡くなった全ての人々に神様の温かい慈しみが限り無く注がれるようにお祈り致します。勿論、国の為に若くして戦死した人々の為にも。藤山杜人


今日の散歩道・・・国立、谷保の南養寺から滝乃川学園まで

2011年02月09日 | インポート

午前中はみぞれがハラハラと降っていましたが、昼からすっかり晴れ上がり、青空が広がりました。午後から「くにたち郷土博物館」へ再度行き、そこから歩き出しました。

鎌倉時代に創建された建長寺派・臨済宗(禅宗)の南養寺の墓地から本堂、山門と抜け、滝乃川学園の礼拝堂(聖公会)の写真を撮って、矢川沿いに田園地帯を歩きました。ぐるっと一回りして車の所に帰って来ました。夏ミカンがたわわに実っている家の前で、その家の方に会いました。イトウタカシ木工房のご主人で、木工作家でした。芸術家の雰囲気があり、少しだけですが会話を楽しみました。家内が彼の写真を撮りました。この木工房のことは別記事でご紹介します。

下に今日の散歩の風景写真をお送り致します。

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美しい宝石の原石の写真をお送りいたします

2011年02月09日 | 写真

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先日ある店で上に示した水晶の写真を撮りました。何故かとても美しいので暫く見詰めていました。水晶にはいろいろな色がついていて紫水晶、紅水晶、黒水晶という宝石になります。

家に帰って来て宝石の原石を調べました。そうしたら磨かなくても美しい原石の写真集のHPを見つけました。そのHPは「それはそれだけですごく美しい原石や鉱石」:http://matome.naver.jp/odai/2127477137687587201 です。

非常に多くの美しい原石の写真が掲載されています。下にその例として5枚の写真だけをご紹介致します。宝石のお好きな方々は是非「それはそれだけですごく美しい原石」をご覧下さい。

写真は上から右へと順に、ダイヤモンド原石、ラピスラズリ原石、スギライト原石、クリスタルオパール原石、ブルーカルセドニー原石です。

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このような原石をダイヤモンドカッターで小さく切り、磨いて、貴金属に嵌め込んだものが、下の写真のように売られているのです。

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私は縄文人、家内は弥生時代の人・・・時代が違うとうまくゆく

2011年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム

つまらない笑い話です。よく相性さえ良ければ国際結婚は最高に幸せと言います。

同様に時代の違った人間が結婚したら最高に幸せです。と思います。空想の世界の話ですが。ただし国際結婚と同じで相性が良いことが大切です。時代が違いますから、ものの考え方や感じ方が違います。それがお互いに何時までも新鮮に感じ、夫婦の話し合いが絶えません。老境でも新婚のように毎日真剣に話し合い、笑いあっています。時代が違いますから同じ結論になりません。仕方がないので笑って誤魔化してお終いになります。

先日も「くにたち郷土博物館」へ行ったら立派な縄文土器が飾ってあります。血が騒ぎ、熱心に写真を撮りました。博物館の傍の南養寺遺跡から出土したそうです。土器だけでなく石器多数や住居跡も出て来ました。縄文時代は15000年も続いたのです。日本人が文字を使うよになってから1500年位です。文明開化から約150年です。時の流れが10倍、10倍と早くなっています。しかし日本人の根底には15000年もの縄文時代の血が脈々と流れているのです。私はそのように信じています。そんな話をすると家内は笑って取り合いません。縄文時代の文化を認めていませんから。下に国立市の南養寺遺跡から出た土器の一部の写真を示します。

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写真の右側にあるのは鎌倉時代の石の板碑なので縄文文化ではありません。

ここからが本当に書きたい事実です。縄文時代の竪穴式小屋は平安時代末期、地方によっては鎌倉時代の初期まで全国の農民の住居として広く使用されていたのです。側面の掘っ立て柱を少し高くして小屋の側面を直立させた小屋もありますが基本的な構造は縄文時代と同じです。床には藁をしいて居ました。木の板は高価だったので裕福な農民しか床に使用しなかったのです。学校の歴史の教科書では平安時代の華麗なお寺や貴族の邸宅の挿絵がよく出てきますが、一般農民の家の挿絵は出て来ません。そのせいで平安時代も江戸時代の農家のような家が全国にあったと誤解します。竪穴式掘っ立小屋は縄文時代が終わっても1000年近く使われていたのです。生活文化は時代が変わっても重層的に重なり合っているのです。学校で教える歴史は中央政権の変遷と政権を持っている上層の人々の生活だけ教えます。一般農民の生活ぶりを教えません。

まあ、その事は別にして、縄文時代の生活の実態はどのようなものだったのでしょうか。いろいろ探していましたら静岡県の富士市立博物館のHPに縄文時代の家の断面のイラストと集落の様子を描いた絵がありました。お借りして下に示します。(出典は、富士市博物館HP:http://museum.city.fuji.shizuoka.jp/index.php?id=79です)

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さて、縄文時代のことはこれで終りです。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人