表題の和歌は岡本かの子の有名な作品です。彼女は1989年生まれ、1939年、50歳の若さで亡くなりました。夫の岡本一平との放蕩で夫婦仲が悪く、苦労を重ねますが、晩年には深く仏教に帰依し、安らぎを得ます。ご存知のように岡本太郎は彼女の息子です。
私は年を取るに従って文学作品が少し理解出来るようになりました。若い時には意味の分からない詩や和歌が沢山ありましたが、老齢になってから始めて共感を覚えるものもあります。
この和歌も老境に至って沁みじみと共感を覚えます。年々歳々、体力が衰え、親しかった恩人・知人や友人が旅立って行きます。寂寥感と空虚感が日常生活を覆い、年々にわが 悲しみは深くなって行きます。
そして自分の旅立ちの日も近くに見えるような気分になります。と、その時です。不思議な高揚感に毎日が華やいで来るのです。まさしく、「いよよ華やぐ命なりけり」なのです。こんな体験をするとは想像もしませんでした。自分の肉体がエチルアルコールのように蒸発して碧い空に登って行くような気分です。
毎日が何故か途方もなく楽しいのです。何を見ても、何を食べても楽しいのです。一緒に住んでいる老妻が有難く見えるのです。勿論、私はカトリックの信者のつもりなので、神父様やシスター様達、皆が素晴らしい存在のように感じられます。
このように高尚な感じ方を書いていて、いきなり急転直下、実につまらない実例を一つ示します。下の写真は小平ふるさと村にある「赤い丸ポスト」の写真です。昔のままのポストを見て嬉しくなります。尋常な嬉しさではなくなにか高揚した気分です。赤い丸ポストから若かった頃の思い出が次から次へと走馬灯のように連想します。そして何故か華やいだ気分になります。
現役の赤い丸ポストは東京都内に250もあると看板に書いてあります。帰宅後、「赤丸ポスト」を検索しました。好きな人が多いようで、いろいろな写真や情報があります。若い人がこんなポストを見て「いよよ華やぐいのちなりけり」という気分にならないと思います。
詰まらない話は止めます。それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人
敗戦後の日本でいち早く活気を取り戻したのはデパートでした。華やかな商品が美しい売り場に溢れる様に輝いていたものです。販売員もデパートガールと言い、特別美人で気だても頭も良い子が選ばれて働いていたのです。当時の若い女性の一番の憧れの職場でもあったのです。家族連れにとってはデパートの食堂はたまに行く贅沢な食事所だったのです。美術展もあり、劇場もあります。それは時代を先取りした文化的な空間でした。文化の殿堂でした。そんな時代が経済の高度成長期の始め頃まで続きました。
しかし高度成長期の中ごろになると規模の大きなスーパーや服飾専門の大型店舗が増え、そのうちスケールの大きいアウトレットも出て来ます。デパートだけが文化の殿堂として独占的に繁盛した時代は次第に過ぎて行きました。そのデパートの固有の商品より、テナントのブティックの方に人気が出てきます。
特に1990年以降、長く続く経済不況がさらに追い打ちをかけ、閉店するデパートも出て来ました。しかし昔の栄光を知っている高齢者にとっては、やはりデパートは憧れの場所なのです。出掛けるときは現在でもお洒落な服装をして行きます。
私共が1964年からよく行っていたデパートは「高島屋」です。日本橋、銀座や新宿のデパートへもよく行きましたが最近はもっぱら立川の高島屋です。地下駐車場が広く、売り場が上品で、しかも中央のエスカレーターが上下4台も動いていて便利なのです。今日はその高島屋の写真を撮って来ました。往年の豪華絢爛な商品は少なくなり手頃な値段の商品が増えています。デパートガールも居なくなりました。中年の普通の女性が相手をします。お客もカジュアルな服装です。時代が変わってしまったのです。
こうして時は流れ、全てのものが変化して行くのです。しかしデパートには何か伝統が残っているようです。撮って来た写真を見ると往年の華やかさが確かにあるのです。違う事は街にある専門店やアウトレットにも華やかな店が多数増加した事です。デパートの華やかさが相対的に霞んで来ただけです。少し安堵しました。そんな安堵の気持ちで皆様に写真をいろいろお送り出来ることを嬉しく思います。
今日は立川の国際製菓専門学校の学園祭の一環としていろいろなケーキを美しく作りあげ、展示していました。若い学生さんがニコニコ説明していました。そんな写真も含めて種々の商品の陳列風景もお送りいたします。
九州の太宰府の天満宮のそばに住んで居る山下和紀さんはブログを通してお付き合いをしている私の若い友人です。彼のブログは写真が無くて文章だけのブログです。そして深く考えさせるような内容のものもあります。愛国心に溢れた文章もあります。悲しくて、美しい文章もあります。季節の移り変わりの折々に、彼は私へ心温まるお手紙を送ってくれます。私のブログを読んで下さっている有難い読者です。最近、彼のブログに「雪の神様だね」という文章が掲載してありました。人生の悲しさと美しさを描いています。感動したので昨日、彼にメールを送り、転載の許しを貰いました。以下にご紹介いたします。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人
======「雪の神様だね」山下和紀=================
(http://fanblogs.jp:80/dryuki/archive/699/0)
俺は離婚しているが、俺には娘が二人居る。上の娘は小学校4年迄は、俺と一緒に住んでいたから今でも、俺の事を父と思っている。
しかし次女は4歳までしか一緒に過ごしていない。この子は母親に抱かれた事がない。母親が子供を抱けない病気だったから長期入院いていた。娘の生後2ヶ月に母親が入院したので俺が母親の役をした。4歳になってからこの次女とは別れて住んでいる。
しかし、その次女も小学生になり、もういろいろと判断出来る歳になった。
最近は俺と会っても避ける。悲しそうな顔をしている。
ある時、俺は歩いていて、狭い道路で次女とすれ違った。秋も深まる頃。
その時、俺の娘は同級生の列の一番後ろで、一人で悲しそうに歩いている。俺の知っている次女は活発なヤンチャ子供だった。
この子は生まれた時から辛い運命を背負ってると思った。生後三ヶ月から乳児院・・・二歳で保育園。それに対して、上の子は至れりつくせりだったけど。
偶然ながら私も次女も同じ神社の氏子になっていた。博多の守り櫛田神社。
何故、姉妹でこうも育つ環境が違うものかと心が痛む。
時々、道で会って声をかける。娘は微笑むが、悲しい目をしている。毎度、俺と会うと悲しい顔をする・・・。何故か解る。自分も昔、そうだったから。俺は昔の俺の姿、俺の目を、そこに見たんだ。
しかし12月に、クリスマスプレゼントとして欲しいものを聞く事が出来たのだ。勿論、娘にプレゼント買った。だけど、俺は4歳から父親らしい事は何もしていない。
もう会っても俺は一生他人のふりをすると覚悟を決めていた。
俺も次女と同じような境遇の子供時代を過ごしたのだ。
子供の時は俺が家庭を持ったら絶対暖かい家庭を作ると誓っていたが。俺は子供の話し相手にもならなかった。成長も見ていない。いくら親同志の事情があり、会えなくても。
俺はひどい父親だ!そんな奴に父と呼ばれる資格があるか。
そんな事を考えながら歩いていると、滅多に会わない娘と偶然会った。
俺は何も言わず通り過ぎた、辛いさ!自分の娘に知らぬ顔をしたのだ。
しかし、俺は自分の心を押さえる事が出来なかった。毎度毎度、情けない。
俺は娘の所に走って戻っていった。
[俺は近所のおじさんだよ?(そうしかい言えないんだ。パパとか言える資格はない)
おうちゃんパパいるかい?オジサンはおうちゃんが友達と遊ぶ時も、あの人誰と?言われているねぇ?おうちゃんはパパはいるかい?]・・・俺は覚悟を決めていたさ。
そしたら俺を人さし指で指す!パパは、この人だって。
俺はコレほど強烈な感覚は味わった事はない。
俺はこんな感動した日が無い。悲しい日も、嬉しい日も沢山あったけど。今日が一番だった!何も力も無い少女の微笑み!澄んだ目!
俺を指さして、パパだよと言ったのだ。何も遊んであげていないのに。何もしていないのに。娘が俺の事を父と呼んでくれた時、急に雪が降って来た。九州に珍しく暗い空からハラハラと雪が舞い降りて来たのだ。
もう昔の話だけど、大宰府に鹿を飼っている神社があった。この娘と二人で毎年お参りに行っていた。この季節に。すると何時も必ず、空から美しい雪が舞って来た。ゆっくりと、ヒラヒラと。
その時、娘が言ったのだ。「パパ、雪の神様だね・・・雪の神様が居るよ・・・」
今日も美しい雪が舞い降りて来た。筑紫野の空からヒラヒラと。
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今日も快晴で少し暖かいので午後から村山貯水池の周辺を3.2kmくらい歩いて来ました。多摩川から水を引き、狭山湖と村山貯水池に貯めて東京の西地区の水道水に使っています。水道水なので厳重な柵が2重になっていて立ち入り禁止です。しかし周囲には自転車道があり散歩の人が歩いています。ランニングにも快適だそうです。堤防の南入口には広い無料駐車場もあります。
村山貯水池の堤防の上からは奥多摩の山々が見えます。西武ドームや西武遊園地も見えます。反対側を見ると遥かに新宿の高層ビル群も光っています。写真には写りにくいですが、富士山もうっすらと見えました。家から車で40分。ここまで来ると空気も新鮮で、散歩が一段と楽しくなります。
写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
白鵬の人間的偉さ、穏やかさ、優しさに感心しています。相撲の事はなんでも知っている家内が勝負の技や手を傍で解説していますが、私はあまり聞いていません。彼の勝負中の顔や勝ったあとの仕草や表情を見ています。インタビューの答えを聞いて感心しています。兎に角、穏やかなのです。横綱ですから相撲が上手です。強いです。しかしそれ以上に人間として立派なのです。理想的な日本人なのです。昔良く見た日本人らしい人間なのです。モンゴル出身で日本の国籍を取っていると聞きますが人種や民族を超越した人間的魅力に溢れています。
それにしても日本人は前の横綱に対してもっと寛大であったほうが良かったと思っています。暴力は悪いです。しかし相撲界から追放してはやり過ぎです。
さて日本のサッカーチームが勝って帰ってきました。李選手の、パスを止めないで直接ゴールへ撃ち込んだ見事なプレイは何度みても「素晴らしい!」の一語に尽きます。
帰国後のインタビューでザッケローニさんが言っています。「他の選手が調子が良いので、李の出番はないと思っているようだったがモチベーションを維持させたのです。ベンチで言葉を懸けていました。期待通り李はやってくれました。監督は選手一人一人の性格や考え方を徹底して知ることが重要です」。
ザッケローニ監督は命令でチームと統率しません。きめ細かな配慮でチームを統率するのです。団結させ、絶対に勝つという気持ちを持たせるのです。
その深い統率力に脱帽です。賛美を送ります。ザックさんも人種や民族を超越した人間の素晴らしさを教えてくれました。
時事的な話題で、しかもスポーツの事が何も分からない者のが書いて済みません、間違いがあったらお許し下さい。ルールも技も知らないで書くのは可笑しいと隣りに居る人が言いますのでこれで終りにします。 「ザック 白鵬 ハンバーガー」(終り)
この写真は戦艦、大和です。アメリカ空軍の攻撃で簡単に沈んでしまいました。私は戦後教育のお陰で日本軍の愚かさ、戦争の悲惨さを徹底的に教わりました。ですから航空攻撃に無力な5万トンもある船を作った愚かさを嗤っていました。日本の軍隊の頭の悪さの象徴のように思って見ていました。
戦後は進駐軍の検閲が厳しくて日本軍の写真は、みじめな内容のものしか報道されません。日本軍が勇ましく戦っている場面は軍国主義の復活につながるという理由で進駐軍は徹底的に禁止していたのです。この考えはそのまま日本人に引き継がれ日本軍が活躍している写真は何十年も報道されて来ませんでした。
その上、共産党の影響を受けた日教組の先生が学校を支配し、天皇制や再軍備に反対する教育を徹底的にして来たのです。余談ながら私には共産党員だった友人もいます。決して共産党の全てが悪いとは思っていません。しかし自衛隊や天皇を蔑むような言動は許せません。自衛隊や天皇制があったお陰で戦後の日本は平和に経済復興出来たのです。
世の中の事は全て総合的に、そして客観的に考えないととんでもない間違いをします。しかし客観的に考えることは難しいものです。一番良い方法は外国と比較しながら考えると少し出来ます。又、歴史的に起きた事をいろいろな角度から比較しながら考えると出来ると信じています。比較こそが客観的見方への近道です。
そう思っていましたら、最近ユーキャン社が半藤一利監修で「太平洋戦争」というDVD5枚一組のものを作り、大々的に宣伝しています。内容の一部の映像をテレビに流しています。写真を何枚も大きなスペースの紙に印刷して新聞に入れて配達しています。それらの映像や写真を見ると戦争というものを実に公平に客観的に見ています。勇ましい写真、人情に訴える写真、悲惨な写真などがバランス良く編集してあるのです。編集方針が客観性に徹っしている事が明快に分かるのです。
それを見て深い感慨に襲われました。「66年たってやっと太平洋戦争が客観的に見ることが出来るようになった」という感動です。見る人は戦争で苦しんだ日本人です。その子供たちです。しかし66年経ってやっと客観的に見る事が出来るようになったのです。太平洋戦争を一度、恩讐の彼方へ置いて考え直すという編集方針のようです。半藤一利氏の書いた「昭和史」を読んだ人々は彼の客観的ものの見方に感動すると思います。それがこの写真集に生きているようです。
よく軍隊や自衛隊の事を悪しざまに言う人が居ます。酷い言葉で天皇を批判する人も見ます。そういう人を見るとア然とします。軍隊のお陰で外国が攻めてこないのです。天皇は日本の文化の一部なのです。天皇が愚かな訳ではないのです。
下に示した平和な美しい風景が何時までも存在出来るのは自衛隊の存在と深い所で繋がっているのです。そんな思いをさせる「写真集」の宣伝を見ましたので拙文を書いて見ました。それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人