後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「秋の気配ただよう河口湖の風景です」

2019年08月22日 | 写真
「秋の気配ただよう河口湖の風景です」
今週の月曜日に写した写真です。
湖の向こう側に大きな富士山が見える筈ですが秋霧がかかって見えません。湖面の様子に秋の気配を感じました。湖畔にツキミソウが一輪だけ咲いていました。





現在の都道府県の形を作った701年制定の律令国家

2019年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
古い人間の私は昔の律令国家が大好きです。ですから住んでいる所を「むさしのくに小金井村」と江戸時代までの呼び名で呼んでいます。
そして現在の都道府県と律令国家の国境との関係を調べては、成程、成程と独りで秘かに楽しんでいます。

今日は皆様へもこの楽しみをお送りしようと思います。あなたの住んでいる所は律令国家の何という邦でしょうか?それを口に出して呼んでみると何故か豊かな気分になりませんか?悠久の歴史を感じませんか?今日はそんな話です。
さて律令国家の制定は大化の改新(645年)に始まり確定したのは大宝律令(701年)と言われています。この律令国家は最近では「令制国」と書くのが普通です。
この令制国のそれぞれの国の名前は明治維新までの1166年間(1867年から701年を引いた年数)日本人が使って来た名前なのです。
日本人は何と1166年間もの長きにわたって、地方、地方の名前を変えずに使っていたのです。
律令国家の名前は日本人の心に無意識のうちに焼き付いていても不思議ではありません。
それでは律令国家の全国地図を見て楽しみたいと思います。

1番目の写真は全国の律令国家の地図です。出典は、https://www.sekainorekisi.com/%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%8C%BA です。
この地図こそ奈良時代から明治初期まで、1166年間も日本の地理的区分の基本的な地図だったのです。
江戸時代以前の歴史を少しでも考える場合には律令国の名前と場所を考える必要があるのです。
それだけではありません。現在の日本の地方文化の中にも生きた言葉としてよく使われているのです。
皆様は阿波踊りや讃岐ウドンという言葉をご存知でしょう。美濃紙や越後米、丹波栗などもあり、 出羽三山という山々や飛騨山脈もあります。伊予ミカンや伊賀忍者という名前もあります。古来の井戸掘り方法に上総(かずさ)掘りというものもあります。
このように1100年以上も続いた律令国家の名前と現在の地方文化との間には深い関係があるのです。
皆様が現在住んでいらっしゃる場所は律令国家は何という名でしょうか?
その首都の国府や役所(国衙)は何処にあるのでしょうか? 
その国府や国衙(こくが)跡をご覧になったことがありますでしょうか?
そんなことを考えていると、自分が「いにしえの世界」に帰って遊んでいるような気分になります。
私の住んでいる所は武蔵国です。武蔵国は現在の東京都と埼玉県でした。
ついでに言えば相模国は神奈川県です。
安房、上総、下総がまとまって千葉県です。常陸が茨城県で下野が栃木県で上野が群馬県です。
このように現在の都道府県は律令国家に密接な関係があるのです。

それでは武蔵国の国府と国衙は何処にあったのでしょうか?
奈良や京都から東山道(中山道)を東に歩き、現在の埼玉県で脇道の武蔵路に曲がり、南下した所の現在の東京都府中市に武蔵国の国府と国衙があったのです。以下は私が2年前に撮った写真です。

2番目の写真は府中市の国衙の再現展示物の説明板の写真です。広さ、200mX300mの広場に太い柱を持った立派な役所の建物(国衙)があったと説明してあります。場所は現在の大國魂神社の境内に隣接した東側です。

3番目の写真は発掘された国衙の建物の柱の基礎工事跡を復元し展示したもの写真です。

4番目の写真は国衙の建物に立っていた柱です。後ろに発掘品の展示館があります。
柱は朽ちてしまっていたので高さが分かりません。しかしその太さと本数から相当大きな役所の建物があったことが推定されています。
なお後ろの林は現在の大國魂神社の境内になっています。

5番目の写真は国衙に隣接した大國魂神社の写真です。
大國魂神社の写真を示したのはこの神社が古墳時代から関東地方の重要な神社だったからです。府中市には大熊神社古墳もあり古代から重要な集落だったのです。その理由で大和朝廷がここに国府を置き国衙を建てたのです。そして国分寺や国分尼寺も作ったのです。
江戸時代も甲州街道の重要な宿場として非常に繁栄していた所だったのです。
ところが明治時代に鉄道の中央線が府中を通らなかったので往時の隆盛ぶりが消えたのです。

今日は皆様へ私が棲んでいる武蔵国の国衙の場所とその様子を説明しました。
皆様も自分の住んでいる場所の律令国家の名前はご存知と思います。その国衙をいろいろ調べると興味が尽きないと思います。是非皆様の国衙の様子をコメントとしてお送り下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================================
令制国一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD%E4%B8%80%E8%A6%A7


明治初期の令制国の配置
令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。
令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。

この一覧では、五畿七道に従って配列し、廃止・消滅したものや一時的に存在した諸国はその中に字下げして付ける。この一覧が、すべての国を列挙するためのもので、多くの改廃を記していないことに注意されたい。それらの詳細は、各国の項目に記す。
日本全体を総称する際には、「日本六十余州」などと表現することもあった。

五畿

畿内
1、山城国 やましろ(山州、城州、雍州)
2、大和国 やまと(和州)
3、河内国 かわち/かはち(河州)
4、和泉国 いずみ/いづみ(泉州)
5、摂津国 せっつ(摂州)

七道

1、東海道

伊賀国 いが(伊州)
伊勢国 いせ(勢州)
志摩国 しま(志州) - 8世紀初めまでに伊勢国より分立。
尾張国 おわり/をはり(尾州)
三河国 みかわ/みかは(三州、参州)
遠江国 とおとうみ/とほたふみ(遠州)
駿河国 するが(駿州)
伊豆国 いず/いづ(豆州) - 680年に駿河国より分立。
甲斐国 かい/かひ(甲州)
相模国 さがみ(相州)
武蔵国 むさし(武州) - 771年、東山道から東海道に所属変更。
安房国 あわ/あは(房州、安州) - 718年に上総国より分立。741年に上総国に併合されるも757年再分立。
上総国 かずさ/かづさ(総州)
下総国 しもうさ/しもふさ(総州)
常陸国 ひたち(常州)

2、東山道

近江国 おうみ/あふみ(江州・近州)
美濃国 みの(濃州)
飛騨国 ひだ(飛州)
信濃国 しなの(信州)
諏方国 すわ/すは - 721年に信濃国より分立。731年に再統合。
上野国 こうずけ/かうづけ(上州)
下野国 しもつけ(野州)
陸奥国 みちのおく/みちのく/むつ(奥州/陸州) - 陸奥国は7世紀に常陸国より分立。
石背国 いわせ/いはせ - 718年に陸奥国より分立。数年後に再統合。
石城国 いわき/いはき - 718年に陸奥国より分立。数年後に再統合。
出羽国 でわ/では(羽州;山形県、秋田県の一部) - 712年(和銅5年)に越後国出羽郡を割いて出羽国を建てる。
陸奥国 (1869-) りくおう/むつ - 陸前・陸中等を分割後の部分。
陸前国 りくぜん - 1869年に陸奥国より分立。
陸中国 りくちゅう/りくちゆう - 1869年に陸奥国より分立。
岩代国 いわしろ/いはしろ(岩州) - 1869年に陸奥国より分立。
磐城国 いわき/いはき(磐州) - 1869年に陸奥国より分立。
羽前国 うぜん - 1869年に出羽国より分立、現山形県に相当。
羽後国 うご - 1869年に出羽国より分立、現秋田県に相当。

3、北陸道

若狭国 わかさ(若州)
越前国 えちぜん/ゑちぜん(越州)
加賀国 かが(加州) - 823年に越前国より分立。
能登国 のと(能州) - 718年に越前国より分立。741年に越中国に併合されるも、757年に再分立。
越中国 えっちゅう/ゑつちゆう(越州)
越後国 えちご/ゑちご(越州)
佐渡国 さど(佐州、渡州) - 743年に越後国に併合されるも、752年に再分立。

4、山陰道

丹波国 たんば(丹州)
丹後国 たんご(丹州) - 713年に丹波国より分立。
但馬国 たじま/たぢま(但州)
因幡国 いなば(因州)
伯耆国 ほうき/はうき(伯州)
出雲国 いずも/いづも(雲州)
石見国 いわみ/いはみ(石州)
隠岐国 おき(隠州)

5、山陽道

播磨国 はりま(播州)
美作国 みまさか(作州) - 713年に備前国より分立。
備前国 びぜん(備州)
備中国 びっちゅう/びつちゆう(備州)
備後国 びんご(備州)
安芸国 あき(芸州)
周防国 すおう/すはう(防州、周州)
長門国 ながと(長州)

6、南海道

紀伊国 きい(紀州)
淡路国 あわじ/あはぢ(淡州)
阿波国 あわ/あは(阿州)
讃岐国 さぬき(讃州)
伊予国 いよ(予州)
土佐国 とさ(土州)

7、西海道

筑前国 ちくぜん(筑州)
筑後国 ちくご(筑州)
豊前国 ぶぜん(豊州)
豊後国 ぶんご(豊州)
肥前国 ひぜん(肥州)
値嘉島 ちか - 876年に肥前国より分立。数年後に再編入。 現在の長崎県平戸島及び江島、平島を除く五島列島及び附属島嶼。
肥後国 ひご(肥州)
日向国 ひゅうが/ひうが(日州、向州)
大隅国 おおすみ/おほすみ(隅州) - 713年に日向国より分立。
多禰国 たね - 702年に日向国より分立。824年に大隅国に併合。
薩摩国 さつま(薩州) - 702年に日向国より分立。
壱岐国 いき(壱州) - 古代は「壱岐嶋」[1][2]。
対馬国 つしま(対州) - 古代は「対馬嶋」または「対馬国」

「赤、藍、白のサルビアの花の写真を撮ってきました」

2019年08月21日 | 写真
小金井公園に赤、藍、白のサルビアが咲いているというニュースがありましたので写真を撮りに行きました。
初めの4枚の写真がサルビアで最後の写真はメドウセージの花です。









湖の岸辺に別荘のような宿泊所を持つ方法

2019年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム
山中湖から見上げた富士山は絶景です。青い湖水の上に雪を戴き高く聳える山頂が美しいのです。そしてなだらかに下がっている稜線も悠然としています。
この山中湖の岸近くに何時も一隻のヨットが停泊しています。

1番目の写真がそのヨットです。何十年も時が止まったよう山中湖の同じ場所に停泊しています。
この位の大きさのヨットの船室には炊事道具と寝室が付いています。水洗トイレもあります。
自分で料理をして星空の下のデッキでビールを飲むことが出来ます。夜が更けたら小さい寝室に潜りこめます。つまり湖に浮かんだ別荘です。
ヨットは帆走の快適さとスリルを楽しむ趣味です。しかし同時に湖畔の小さな別荘のようにも使えるのです。

今日はヨットを小さな別荘のように使う方法をご紹介したいと思います。
霞ヶ浦の岸壁に全長26フィートのヨットを23年間係留して別荘のように使った体験記です。自分のヨットに泊る趣味の話です。

2番目の写真は私のヨットを後から撮った写真です。船尾が低く、湾曲した台になっています。
台の上面が水面すれすれに出来ていて水中へ飛び込んで泳いだ人が水中から船の上に簡単に上がれるような構造になっています。遊びの為の台ですのでプレイ・デッキといいます。
ヨットに泊まる時は乗り降りが容易なように後ろ向きに係留します。

さて次はヨットのキャビンの中について説明いたします。
ヨットの船体の中は全て空洞になっています。3ケ位の小さな部屋に区切ってあります。前甲板の下は寝室、中心がメイン・キャビンで炊事場と食堂、後甲板の下の左右は細長いカプセルホテルのような構造で左右に一人ずつ寝ることが出来ます。

さてヨットの楽しさの一つは料理を作りデッキの上に持ち出して食事したりビールが飲めることです。

3番目の写真は炊事用の2口コンロです。燃料はプロパンです。そのボンベはデッキの椅子の下に収納してあります。ガス漏れで起きるガス爆発を防ぐために船室にはボンベを収納しません。

4番目の写真は調理台(右)と流し(左)の写真です。
料理に使う水は下方に蛇口のついた水入れ(中央)を満杯にして自宅から持っていきます。
流しの排水は船底に付けてある排水パイプから水中へ排出します。
コンロと流しと料理台さえあればどんな肉料理も魚料理も出来ます。
料理台に面してガラス戸のついた戸棚があり食器が入れてあります。鍋やフライパンは別の戸棚です。包丁や切り板や料理道具、そしてナイフやフォークや箸などはガスコンロの下の引き出しに分類してしまってあります。
パーティなどをするときはビーフシチューやオデンの煮込みを作ります。それにオードブルの盛り合わせをつけて乾杯します。シャンパンがあれば上々です。このような炊事道具がヨットの中についているのです。

5番目の写真は作った料理とシャンパンの写真です。招いたお客さんがシャンパンを持って来てくれました。テーブルの周りには最大7人が座れます。
さてキャビンの中での生活を快適にするために欠かせないのが水洗トイレです。

6番目の写真の真ん中に縦に光っているステンレスの棒はマストの下部構造です。その右に見える入口と白い壁が水洗トイレのある小部屋です。小さい電動水洗トイレがついていました。白い壁の上の方には丸い小さなキャビン灯がついています。
マストの左奥は前甲板の下に広がっている寝室で、大人2人が寝ることが出来ます。

7番目の写真はデッキの上でビールを飲んでいたら遊びに来た白鳥一家の写真です。4羽の一家ですがこれには3羽だけ写っています。家内がパンを投げて遊んでいました。

このようにヨットの構造は寝泊まり出来るための最小の設備を完全に揃えています。
ですから湖の岸辺に係留していると別荘のように楽しめるのです。
23年間霞ヶ浦の湖畔に家内と一緒に何度も泊まりました。係留した岸壁は茨城健の県庁の港湾局が管理していました。幸運にも係留料が格安でした。茨城県に今でも感謝しています。
最後にヨットの楽しさをまとめておきます。
風を受けてセイリングする楽しさ、ジーゼルエンジンで霧の海をゆっくり走る低音のエンジン音の楽しさ、流線形の船体を美しく塗りあげる楽しさ、室内の木製の床や壁にニスを塗る楽しさ、キャビンの中で炊事をしてパーティをする楽しさ、ゆっくり流すように巡航し海鳥や冬鳥を観察する楽しさ。とにかく色々な楽しさがあります。
そして意外に多くの人々がヨットを別荘がわりに使っているのです。船を沖に出すのは危険な上に人数も揃えなければいけません。
そんな理由もあるでしょう。独りでキャビンの中で遊んでいる人が多いものです。
私は8年前の75歳でヨットの趣味を止めました。26年間ほど続けて来ました。
今振り返って考えてみるとどうも別荘がわりのように使って来たような気もします。
家内もよく一緒に泊ってくれたことを感謝しています。楽しい趣味でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘

高原の湖畔に咲いているオニユリとコスモス

2019年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
猛暑も峠を越したのでしょうか、昨日は曇り日で暑さも和らいでいました。
富士五湖の西湖の岸辺に咲いているオニユリとコスモスの写真を撮りに行きました。富士山は残念ながら雲が厚く全く見えませんでした。
標高900mの西湖には秋の気配です。夏のオニユリと秋のコスモスが一緒に咲いていました。昨日撮って来た写真をお送りします。









5枚の写真の2番目の写真だけは私が撮りました。残りの4枚は家内が撮りました。
家内が言う「良い写真」です。周囲の風景を入れて構図を水彩画のようにするのが上手な写真の写し方だと言います。私は反対しません。しかし花はクローズアップして花の美しさがよく楽しめるように写します。
それはさておき富士五湖は河口湖、山中湖、本栖湖、西湖、精進湖ですが、そのうち西湖、精進湖、本栖湖の標高はすべて900mで同じです。底で繋がっているのです。
この3つの湖は一つの広大な湖でしたが溶岩流が流れ込んで分断されたのです。
富士五湖という呼び方は富士急の創始者の堀内良平が昭和の初めころに作ったものだそうです。
江戸時代までは他の3つの湖沼を加えて富士八海と呼んでいました。
3つの湖は標高900mですが河口湖は830mで東端の山中湖は980mです。
この様に標高にこだわるのは標高が高いほど秋が早く来るからです。
昨日の西湖にはコスモスが咲き秋風のような心地よい風が吹いていました。
そんな秋の気配がある風景写真を2枚お送りします。



富士五湖と言えば山中湖や河口湖は有名です。西湖は人があまり行きません。人の少ないので自然がそのまま残っています。淋しい気配も高原の湖のようです。
今日はそんな西湖にこだわりご紹介いたしました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘


「私が好きなトルコキキョウの花の写真をお送りします」

2019年08月19日 | 写真
私が好きなトルコキキョウの花の写真をお送りします。

1番目の写真の出典は、
http://floatbridge.blog61.fc2.com/blog-entry-42.html です。

2,3,4番目の写真の出典は、
https://horti.jp/2287 です。

5番目の写真の出典は、
www.aoyamahanamohonten.jp/blog/2017/08/07/トルコキキョウの日本一の生産現場を訪れました/ です。









日本でイスラム過激派のテロが起きない決定的な理由

2019年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
2001年のアメリカ同時多発テロ事件はイスラム過激派テロ組織アルカイダによるものでした。
この事件をきっかけに国際テロ組織の脅威が世界的に広がります。
アメリカはアルカイダに支援を行った国への報復としてアフガニスタン紛争、イラク戦争を行ったのです。
こうして21世紀は新しいかたちの戦争の世紀になりました。この新しい戦争の特徴は欧米各地でテロ事件が次々に起きるということです。
アメリカやフランスでイスラム過激派の残忍なテロが数多く起きています。
しかし日本では一回も起きていません。日本はこの新型の戦争に一切巻き込まれず平和を守ってきたのです。
今日は日本でイスラム過激派のテロが起きなかった決定的な理由を書いてみます。
日本にも多くのイスラム教徒が住んでいます。多くは中東やパキスタンやインドネシアから来た人々です。
ですからイスラム過激派によるテロが起きても不思議ではありません。

しかし日本ではイスラム過激派によるテロが一切起きていません。
その理由は警察当局の厳しい取り締まりが考えられます。しかしもっと本質的で決定的な理由があると私は信じています。
その決定的な理由とは、中東のイスラム諸国は実は熱烈な親日国であることです。
イスラム教の諸国はキリスト教の国々を敵と思っています。同じ一神教同士の宿命的な対立です。
一方日本は仏教国です。多神教的な大乗仏教です。イスラム教の諸国は敵と感じないのです。
その上、日本は日露戦争や太平洋戦争でキリスト教国のロシアやアメリカと戦ったのです。
こんな背景があるのでエジプト、トルコ、イラン、サウジアラビア、ヨルダン、パキスタンなどの国々は驚くほど親日国なのです。
以下に簡単にご紹介したいと思います。

(1)ヨーロッパのキリスト教の国々は11世紀、12世紀に十字軍を中近東に送り込み、現在のベイルート、ヨルダン、シリア、イスラエル、などなどの土地に数多くの十字軍国家を作り残虐な統治をし続けたのです。
十字軍が築いた堅固な城が現在でも中近に残っています。
日本ははるか遠方に存在する国だったので勿論十字軍は送れませんでした。この件に関して、日本は完全無罪です。

(2)日本は仏教国なので一神教のキリスト教とイスラム教との間の戦争には完全に中立的な存在なのです。イスラム教の人々は多神教的な大乗仏教の日本を敵だと感じないのです。これは感情問題です。キリスト教の信者になって佛教をいろいろ研究すると理解出来ます。

(3)イギリスの18世紀の産業革命以後に、圧倒的な武力を持つようになったヨーロッパ諸国とロシアが、中近東のイスラム諸国を保護国や植民地にしました。
その憎いロシアを日本は日露戦争で破ったのです。ロシアに権益を奪われていたイランをはじめイスラム諸国が拍手喝采をしたのは当然です。
そして第二次世界大戦では日本は勇敢にもアメリア、イギリスに立ち向かい、大きな損害を与えたのです。
日本は敗けましたがこの大戦争のお蔭で、インド、パキスタン、エジプト、イラン、イラク、ヨルダン、サウジアラビアなどなどの諸国が独立国家になれたのです。当然のことながら、これらの国々は日本へ深く感謝しています。

以上のよう歴史的な事情は宮田 律著の「イスラムの人は何故日本人を尊敬するのか?」という本に詳しく書いてあります。その本の内容は岡井盛夫さんという方が要約して紹介しています。
(http://homepage3.nifty.com/morrio/back1/islam/miyataislam.html)
その概要は末尾の参考資料に書いてあります。

ここでは二つだけをご紹介します。
(1)19世紀以降、イスラム世界はヨーロッパの帝国主義に侵食されました。栄華を誇ったオスマン帝国も、イギリス、フランス、ロシア諸国に進出され、アラブ地域は、イギリス、フランスの帝国主義勢力に分割支配されたのです。 ところが、アジアの小国、日本がロシアとの戦争で勝利します。イスラム世界から、一斉に称賛の声が上り、日本は、ヨーロッパ帝国主義に抵抗する国々にとって希望の光となったのです。

(2)イラク戦争の際、自衛隊は「人道復興支援」のためイラク南部の都市サマーワを中心に活動して2006年7月に撤収します。現地誌「サマーワ新聞」は、自衛隊員のことを「高い倫理を保持した人々」と形容しました。他国の人々のことを尊重し、他国民の家庭や職業に敬意を払う立派な文明を伝統をもっている」、と絶賛したのです。

このようにイスラム諸国の人々は日本人を尊敬し非常に友好的なのです。
アラブ諸国と敵対するアメリカとの関係を気にするあまりこの事実を日本のマスコミはあまり報道しません。
報道しないもう一つの理由は日本人は明治維新以来、欧米から熱心に科学技術を学び、欧米の政治体制や資本主義を導入してきた事情にもよります。

イスラム諸国の多くは部族の首長が独裁的に統治し、中世さながらの国々なのです。民主主義も資本主義も随分と遅れている地域なのです。その理由で日本人が関心を持たないのでしょう。

もし日本政府が親日的なイランやアラブ諸国と協力すれば世界に平和をもたらすことが不可能ではありません。しかしそのような外交努力があまりなされていない様子です。
日本国内でテロさえ起きなければそれで良いという考えだけ良いのでしょうか?
日本人がもっとイスラム教の国々と交流を深めるように祈っています。それが世界の平和共存に大きな貢献をすると信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿し絵代わりの写真は3つのイランの世界文化遺産の写真です。イランには16件の世界文化遺産があります。

1番目の写真はペルセポリスの遺跡です。ダレイオス1世が建設に着手したのは紀元前520年と言われています。

2番目の写真はイランのエスファハーンにあるイマーム広場です。

3番目の写真はタブリーズの歴史的バザール施設 です。

上の3枚の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3です。
===参考資料================
以下は宮田 律著の「イスラムの人は何故日本人を尊敬するのか?」の要約の抜粋です。
「イスラム世界と日露戦争」
(1)19世紀以降、イスラム世界はヨーロッパの帝国主義に侵食された。栄華を誇ったオスマン帝国も、イギリス、フランス、ロシア諸国に進出され、帝国は弱体化した。帝国の支配下にあったアラブ地域は、イギリス、フランスの帝国主義勢力に分割支配された。
ところが、中東でヨーロッパ支配が強化される一方で、アジアでは、小国日本がロシアとの戦争で勝利した。イスラム世界から、一斉に称賛の声が上がった。日本は、ヨーロッパ帝国主義に抵抗する国々にとって希望の光となった。

(2)トルコのイスタンブールには、「乃木通り」や「東郷通り」がある。トルコは、オスマン帝国の中心であった。そのオスマン帝国の弱体化の一因は、北から進出してきたロシアであった。オスマン帝国は、露土戦争(1877-78)で惨敗した。オスマン帝国は長年ロシア帝国主義の進出に苦しめられたから、トルコ人はロシアに怨念を抱いている。そのロシアに、日本が勝利した(日露戦争)ことで、日本を称賛する感情が沸騰した。トルコ人は、日本人に対し、強い親愛の情を持った。

(3)日露戦争の影響で、トルコでは、「トーゴー」「ノギ」「ジャポン」という名前を子どもにつける人まで現れた。

(4)ムスタファー・カーミメル(1874-1908)は、エジプトの民族主義者である。彼は著書『昇る太陽』の中で、「日本の歴史こそ、東洋の諸国に最も有益な教訓を与えてくれるものと信じる」、と書いている。

(5)エジプトの詩人・ハーフェズ・イブラホヒーム(1872-1932)は、日露戦争の従軍看護婦のことを称賛し、「日本の乙女」(長文の詩)を発表した。

(6)ロンドン亡命を終えてスエズ運河を通過中の孫文は、「おなたは日本人か」と尋ねられた。「中国人だ」と答えると、「中国は日本に近い。日本がロシアに勝ったことを我が事のように喜んでいると、日本人に伝えてくれ」、と頼まれた。

(7)タタール人のアブデュルレシト・イブラヒム(1852-1944)は、『ジャポンヤ』(日本旅行記)の中で、「日本人は改宗すれば、完璧なムスリムになれる」、と記述している。・・・・・中略・・・・・・

「イスラムの人の、日本人へのプラトニックラブ」
イスラム世界には、遊牧民の伝統がある。ラクダ、ラバを使ったキャラバンの移動の歴史である。例えばイラン人は、人懐っこく、気さくで、外来の者に親切、他人を思いやり面倒見がよい。なぜなら、酷暑の気候に暮らしていくためには、お互いが助け合って、よそから来た者をもてなす。それが砂漠の民の生活習慣であるから。彼らは見知らぬ人に向かって「今晩うちに来て食事をしないか」、と声をかける。

(1)1945年、イスラムの人は、原爆被災者への同情を示した。その後、日本の経済復興は著しく、高性能の家電製品や自動車が彼らから高く評価されている。イスラムの人にとって、日本人は「頭のよい民族」であり、ビジネスマンの礼儀に敬意を示し、倫理道徳の高さ、マナーの良さを尊敬している。イスラムの善は誠実、禁欲、慈悲である。彼らは「日本人はムスリムでもないのにイスラムの教えを実現している」、と考えている。

(2)日本人はシスティマチツクに働いている。仕事を中途半端に終わらせない。アブダビのムハンマド皇太子は「日本の教育、しつけは優れている。その手法をアブダビの教育に反映させたい」、と評価し具体化している。

(3)エジプトも親日的国家。ジャーナリストのモハメッド・ヘイカルさんは、「日本とアラブ世界の間には、プラトニックラブとも言うべき感情がある」、と語った。

(4)イランの新年は、「ノールーズ」という。都会に出たイラン人は一斉に里帰り、家族の結びつきを大事にする。衣服を買ったり大掃除をしたりする。(何か昔の日本に似ている)

(5)イランは、かってアケメネス朝、ササン朝などの古代文明が栄えた。文明の中心であつた。古代には、日本、中国、イランに至るまで文化の交流があった。

(6)1984年のロサンゼルス・オリンピック、柔道無差別級の決勝で、エジプトのモハメド・ラシゥラン選手は山下泰裕選手と対戦した。山下選手は、右足に肉離れを起こしていたが、ラシゥラン選手はその右足を攻めることはなかった。優勝は山下選手であったが、ラシゥラン選手は「國際フェアープレイ賞」を受賞した。・・・・以下省略します。

「東日本大震災後の韓国人の支援を我々は絶対に忘れない!」

2019年08月18日 | 写真
ここでご紹介する写真は、東日本大震災が起きた後に韓国で撮られた写真です。
これらの写真は友人の中村 文政 さんから教えて頂いた写真集です。
写真は、http://cadot.jp/impression/1794.html?detail から転載いたしました。
2011年の3月11日の東日本大震災の後で、韓国人は我々を激励するメッセージを韓国の町中に掲示し、多額の義捐金や救援物資を送ってくれたのです。その上多数のボランティアの韓国人が被災地の復興に汗を流してくれたのです。
韓国の人々、本当に有難う御座いました。ご恩は絶対に忘れません!










秋の花々の写真を見て気分だけでも涼しくなろう!

2019年08月18日 | 写真
お盆も過ぎるのに毎日猛暑が続きますね。
気分だけでも涼しくなろうと秋の花々の写真を見て過ごしています。
皆様も涼しい気分になって頂きたいと思い写真をお送りいたします。
花の名前は順々に次の通りです。
1、シュウメイギク
2、ホトトギス
3、クジャクソウ
4、キキョウ
5、リンドウ
これらの写真の出典は、https://lovegreen.net/flower/p189438/#a7 です。









カトリック教会は現在でも東日本大震災の被害者の為に祈っています

2019年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
2011年でしたからもう8年たっています。
しかしカトリック教会は現在でも東日本大震災で亡くなった方の為に祈っています。
残されたご家族の為に祈っています。避難生活でいまだに苦しい生活をしている方々の為に祈っています。神様に祈っています。イエス様に祈っています。マリア様に祈っています。

2011年のブログ記事を見ていたら次のような記事がありました。

「韓国の大統領と中国の首相の大震災被災地訪問に心暖まる」
2011年05月23日 掲載、
韓国の大統領、李明博さんと中国の首相の温家宝さんが一昨日、東北地方のガレキの広がる被災地を訪問しました。ガレキの山の近くで、犠牲者のお墓へ花を供え、冥福を祈ってくれました。
そして避難所にいる人々と話をし、激励しました。
その後で、福島市へ行き、菅直人首相と合流し、3人で福島産のサクランボなどを食べて、放射能の風評被害が無くなるように宣伝したのです。
中国も韓国も大震災直後から救助隊を派遣してくれたり、ガソリンや食料を無償で送ってくれました。
その上、今回の韓国の李明博大統領と中国の温家宝首相の訪問が続いたのです。犠牲者の冥福を祈り、避難民と親しく話し、勇気づけようとする光景がテレビに出ていました。感動的な光景です。久しぶりに心が温かくなります。
今日の新聞には李明博大統領と温家宝首相と菅直人首相が並んだ記者会見の写真が大きく出て居ました。3人とも親しげに笑い顔で、打ち解けている様子です。
昨日、東京の迎賓館で3人が一緒に会い。原発事故や天災の時に情報を共有し、協力しあうという共同宣言を発表しました。日本の復興へも最大の支援をしてくれる事も発表しました。
3人の首脳が並んで、笑っている今日の新聞の写真を見て深い感慨をおぼえます。戦後、中国共産党は朝鮮動乱の後押しをし、韓国へ攻め込んで来たのです。そしてベトナム戦争で中国は韓国や日本と激しく対立し、厳しい冷戦を続けて来たのです。
その後も韓国と中国は靖国神社問題や日本の昔の侵略を激しく攻撃し続けていまた。
私はそのような時代の3国の関係を見て来たのです。そのような時代の中国や韓国を知っています。それだけに今日の3人が仲良く笑っている写真を見ると目頭が熱くなってきます。ああ、良い時代になったなあと感動するのです。そして日本は必ずや復興するという確信が湧いてきます。
福島原発の直後にフランスのサルコジ大統領が来ました。大震災の犠牲者へ哀悼の意を表してくれました。有難かったです。しかしサルコジ大統領の訪日には原発の核燃料を従来通りフランスから買って貰いたいという目的もあったのです。
今回の韓国や中国の首脳は東北地方のガレキの前で犠牲者の冥福を祈ってくれたのです。福島へ行って、微弱とはいえ放射能で汚染された可能性のある果物を食べてくれたのです。誠意がこもっています。
現場を直接見た韓国の李明博大統領と中国の温家宝首相はその光景から必ず考えが変わると思います。日本への同情と親近感が強くなると信じています。感謝の気持ちが日本中に広がっていると確信しています。有難う御座いました。

今日の挿し絵代わりの写真はマリア様の写真です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘






「涼しい秋よ早く来いと念じつつ・・・」

2019年08月17日 | 写真
涼しい秋よ早く来いと念じつつコスモスの花の写真をお送りします。
写真の出典は、https://lifleur.com/about-cosmos/ です。
コスモスは中米メキシコが原産国です。
コスモスという名前はギリシャ語のkosmos(秩序・調和)からきています。
コスモス全般の花言葉は調和・平和・真心・美麗などだそうです。
熱帯アメリカ原産のコスモスはメキシコからスペインに渡りマドリード王立植物園に送られ、コスモスと名づけられました。
日本には1879年(明治12年)に渡来します。これは美術学校の教師ラグザーがイタリアから持ち込んだものです。
その後日本では秋の季語となっています。









別荘を持つことの楽しさと厳しさ

2019年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム
このお盆休みに涼しい別荘に滞在して悠々と過ごしている方々もいると思います。
そんな別荘に憧れる人も多いと思います。
別荘を持っていると楽しいことは事実ですが、一方では湿気や害虫との戦いで苦労が絶えないのです。
今日は別荘の楽しさと厳しさを書いてみたいと思います。
まず私の小さな別荘の近くの風景写真をご覧下さい。

1番目の写真は私の別荘からよく遊びに行った白樺湖と蓼科山の写真です。長野県の諏訪湖から車山や霧ヶ峰の方へ登った所にあります。冬はスキーやスケートを楽しみました。

2番目の写真は甲斐駒岳の風景です。私の別荘はこの山の麓の山梨県の北杜市にあります。

3番目の写真は別荘へ登って行く雑木林の中の道路の風景です。夏は樹々の葉が繁って暗い道ですが冬には落葉して明るい道になります。

4番目の写真は山林の中にある別荘の写真です。1974年に完成した時、当時の武川村の役場から役人が調べに来てくれました。丁寧に見た上で「これは山林の中の小屋です。ですから不動産税は一切ありません」と言明したのです。最近は環境保全税とかいう名目で北杜市へ毎年払っています。
「これは山林の中の作業小屋です」ということなので私は別荘と言わずにいつも「山林の中の小屋」と言ってました。別荘と書いたのは今日が初めてです。

5番目の写真はこの別荘の庭を流れている小川です。以前やヤマメが棲んでいましたが最近は小さなカエルだけが棲んでいます。夏にはオハグロトンボが流に沿って飛び交います。

この小川のほとりで学生さんたちと夏の夜に一緒にビールを飲んだものです。当時は缶ビールが無く全て瓶に詰まっていました。そして生ビールは木の樽でしか配達しません。
小屋の下の方の村落にあった野本商店という酒屋さんの若い主人が生ビールの樽を担いで届けてくれました。それは個人向けの小さな樽でしたが、20リットルくらいは入っていました。十数人で長い夏の夜にゆっくり飲んでは雑木林の中を散歩したものです。
夜の雑木林と言えば犬と一緒に散歩していた若い奥さんのことを思い出します。私が、「犬が用心棒のような役目をするから怖くないのですね」と言いました。するとすかさず、「いえ、私が犬の用心棒なのです」という答えが返って来ました。彼女は絵を描くのが趣味で毎年展覧会に出展しています。
この小川のほとりではバーベキューをしました。夏には孫達が小川で水あそびをしていました。テントやハンモックを楽しんだり、小川の向こうの崖をイノチガケと言いながら登って、広い牧草地で野球をしました。
飲み水は車に積んで行きましたが生活用水は全てこの小川から汲んでいました。お風呂の水もこの小川から電動ポンプで汲み上げていました。

楽しかったことはもっと沢山ありましたが次に別荘を持つとどんな苦労があるか書きます。
山林の中に別荘を持ってみると現実の厳しさに辟易することも多いのです。
まず第一に泊まりに行く場合は自宅から布団や衣類を車に積んで持って行く必要があります。
夜具を別荘に置いておくと布団はジットリと湿ってしまいます。
カビも生えます。ですから別荘に着いたら早速カビを拭く掃除をしなければなりません。
その上いろいろな虫が棲みつきます。
別荘を持つとカビと湿気と虫との戦争を避けることが出来ません。

賢い奥様族はこの事態をあらかじめ、よく聞いて、知っています。
ですから別荘へは絶対に行かず、素敵なホテルに泊まります。
それでもロマンチストの夫が別荘を買うと言えば反対はしません。しかし自分は一緒に別荘に行きません。
別荘を持つと苦労するのは他にもあります。
小鳥が薪ストーブの煙突の中に巣を作っていました。取り除くのに苦労します。
イノシシが小川の岸辺を掘り返してミミズを食べます。

それにしても家内はよくついて来てくれました。
老境に至って別荘遊びによく付き合ってくれた家内に沁みじみ感謝しております。

結論を書けば別荘の良さは何と言っても気が向いた時フラリと行けることです。誰もいないので気がねなく遊べることです。大自然の中に溶け込めることです。別荘を持つことの苦労など些細なことです。小さいながらも別荘をもてた幸運に感謝します。

今日は別荘を持つことの楽しさと厳しさを体験にもとずいて書きました。
別荘を購入することをお考えの方々のご参考になれば嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

安重根の拳銃が伊藤博文めがけて火を噴いたハルピン駅

2019年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム
併合が起きる前年の1909年10月26日に伊藤博文が満州のハルピン駅頭で朝鮮人のトマス安重根の発射した銃弾3発で倒れたのです。
伊藤博文は明治38年(1905年)11月韓国統監府が設置されると初代統監に就任しました。以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握したのです。
ハルピン駅頭で襲ったのが朝鮮人だと聞いた伊藤は、「私を撃つとは馬鹿な奴だ」と言いながら30分後に絶命します。その態度は流石に偉大な政治家、伊藤博文らしい立派なものだったそうです。
トマス安重根はロシア蔵相ウラジミール・ココツエフと伊藤博文の会談を警護していたロシア兵に捕まり2日後に日本側へ引き渡されます。
安重根は当時日本領だった旅順の刑務所に収監され直ちに1910年2月14日に死刑判決を受け、3月26日に処刑されたのです。
それから5カ月後の1910年8月22日に朝鮮併合が完成し、大韓帝国が消滅したのです。
カトリックにとって暗殺は大罪です。当時の大韓帝国のカトリック司教団からはトマス安重根へサクラメント(聖餐)を施してはいけないという命令が出ました。しかし安重根に洗礼を授けたフランス人司祭のジョゼフ・ウイレム神父は刑務所にいる安重根を訪ね、サクラメントを与えています。
さてそれはそれとして幾つかの写真をご紹介しましょう。

1番目の写真はトマス安重根が韓国統監府初代統監の伊東博文を暗殺した当時のハルピン駅です。当時ハルピンはロシア領でロシア風の建物でした。そのロシア領のハルピンへロシア蔵相ココツエフとの交渉のため伊藤博文が行ったのです。

2番目の写真は現在のハルピン駅の一角にある安重根記念館です。日本の朝鮮併合に反対する立場にある中国の協力のもと韓国政府がお金を出して昔のものを改装して2004年に開館したものです。

3番目の写真は旅順刑務所で書いた最後の書です。この書は現在韓国の国宝になっています。

4番目の写真が旅順刑務所の安重根が収監されていた部屋です。現在は安重根を讃える看板が掲げてあります。当時旅順は日本の支配下にあり旅順刑務所も日本のものでした。

5番目の写真はソウルにある義士安重根の記念館です。
さて伊藤博文を殺すという大罪を犯した安重根は人間的には魅力があったようです。
旅順刑務所で監視をしていた日本人看守の千葉十七は何度か話をしているうちに安重根の考えに共感を覚えます。そして安重根は処刑前に墨で書いた見事な書を千葉看守へ贈っています。
その時、彼が千葉へ、「東洋に平和が訪れ、日韓の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったそうです。
千葉は終生、安重根の供養を欠かさなかったのです。千葉十七とその妻の墓は宮城県栗原市(旧若柳町)の大林寺にあり、そこには1981年に安重根の顕彰碑が建てられたそうです。
また旅順刑務所長、栗原貞吉も安重根へ好意を示しました。煙草などを差し入れ、裁判長に直接会って安重根の助命嘆願をしました。
しかし処刑は目前になります。栗原貞吉所長は安重根へ処刑の時着る絹の白装束を与えたのです。死刑執行後、栗原は安重根の死を悔やんで郷里の広島へ帰ってしまったのです。
現在の韓国ではトマス安重根は抗日闘争の英雄とされ、国民的英雄として非常に有名です。ソウル市には「安重根義士記念館」が1970年に建設されています。
また2008年に進水した韓国海軍の潜水艦に「安重根」という名前がついています。
また伊藤博文暗殺から100年目に当たる2009年10月26日に中国のハルビン市で記念式典が行われました。
カトリックの立場から見ると安重根は大罪を犯した罪人です。
しかし心ある日本人がもし日韓友好を考えるなら、現在の韓国人がトマス安重根をどのように評価しているいかを理解していることも重要と信じています。
安重根は日本人の立場から見れば極悪人です。弁護の余地がありません。
しかし伊藤博文のハルピン駅での暗殺は長い日韓の交流の歴史の中の悲しい一齣だったのです。現在の日韓関係にも暗い影を及ぼしている悲劇です。

ナチスの蛮行を謝罪したヴァイツゼッカー大統領は有名な『荒れ野の40年』の中で言っています。
・・・「過去に目を向けて誠実に見ない者は現在のことにも盲目になる」と。・・・
日韓の関係も歴史的な大きな視野で見るのが良いと私は信じています。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)

「奈良時代から栽培されていたムクゲの花」

2019年08月13日 | 写真
こんなに昔から栽培されていたとは知りませんでした。自宅の庭にも白や赤紫の花が沢山咲いています。
毎日咲いては散っています。夏の間咲いています。
今日はそんな槿(ムクゲ)の写真をお送り致します。
和歌の世界では、秋の季語とされ、松尾芭蕉や若山牧水など多くの歌人が詩の題材に使ってきました。
花の優美さと、儚く散る姿が多くの人の心をとらえています。
旧暦の秋は今では夏にあたるため現代では夏の代表的な花となっています。
写真の出典は、https://horti.jp/3929 です。