後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「第二の故郷、山梨県の感動的な美術館と文学館」

2020年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム
人里離れた山林の中に自分の小屋を建てるという夢を長い間持っていました。それが実現したのは38歳の時でした。1974年です。山梨県の甲斐駒岳の麓の山林の中です。
この小屋に行き続けて、もう46年になりました。現在84歳の私にとっては我が人生で一番長続きした趣味になりました。写真をお見せいたします。

1番目の写真は小さな私の小屋です。6畳と4畳半の2部屋だけです。電気は引いてありますが水道やガスは来てません。小屋を建てるとき、大工さんが木造にするとすぐに腐って倒壊してしまうと言って、鉄筋コンクリートの小屋を作ってくれました。それは実に正解でした。木製の内装の部分はすぐに腐ってしまったのです。床の全面を防水コンクリートにしました。

2番目の写真は窓の外の大きな樹々の写真です。薪ストーブの煙突からの煙が薄く流れ、それに晩秋の日の光が斜めに射し込んでいます。遠方の森からケーンという雉の鳴き声が響いて来ます。
この小屋に行くには大月で山梨県に入り笹子峠を超え甲府盆地を横断しす。
行き続けて46年になると山梨県が私の第二の故郷のようになりました。
山梨県には魅力的でご紹介したい所が沢山あります。
今日は山梨県立の立派な美術館と文学館をご紹介したいと思います。特に山梨県立の美術館は倉敷の大原美術館ほどではありませんが地方では珍しく充実しているのです。ミレーに代表されるバルビゾン派の絵画を多数蒐集、展示しています。
そして同じ敷地に大きな文学館があり樋口一葉や太宰治や芥川龍之介や夏目漱石などの肉筆の原稿が展示してあります。樋口一葉の両親は甲州の出身だったのです。
2017年の11月に撮って来た山梨県立美術館の写真を示します。

3番目の写真は山梨県立美術館です。1978年の開館以来、「ミレーの美術館」として有名です。
所蔵品の総点数は現在約1万点で、常設展示は年4回展示替えを行っています。

4番目の写真は常設展示の絵画の例です。この写真は美術館のHPです。

5番目の写真は美術館の2階から見た西側の庭で岡本太郎の大きな彫刻が展示してあります。周囲に甲斐の山々が見えます。

6番目の写真は美術館の前の広場です。岡本太郎やザッキンやムーアの大きな彫刻が野外展示されています。この広場を挟んで文学館があります。

7番目の写真は美術館の南側の庭の紅葉です。ここは何時もは美しい水を湛えた池になっていますが、間もなく冬が来るので水を抜いています。
美術館の展示品をもう少し詳しく説明します。
まず美術館は広い第一の常設展示室から始まります。そこにはミレーの絵画が多数展示してあります。1975年の開館以来、毎年買い集めて来ただけあってミレーの絵画が数十枚展示してあるのです。ミレーの絵画の収集としては国内随一です。
題二展示室はバルビゾン派の風景画だけを集めて展示してあります。パリの近くのバルビゾンに住んでいたコロー、ミレー、テオドール・ルソー、ドービニー達のことをバルビゾン派と言います。これにクールベを加えてもよいと思います。写実的に描いた美しい自然の風景画です。1830年から50年位の絵画です。これの終わる頃、重なるようにして印象派が隆盛するのです。バルビゾン派の絵画は私たちにも分かり易く大変好まれます。
第二展示室の終りの部屋には静物画だけが展示してあります。静物画も深い精神性が感じられ、なかなか良いものです。
このように展示がミレーの農村風景、バルビゾン派の風景画、そして静物画と3つに分類して展示してあるところが良いのです。下手に印象派の絵が混じっていない点が学芸員の見識です。
西洋の絵画は中世の暗い宗教画から15世紀のルネッサンスで、モナリザを描いたレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロの絵画へと人間中心のものに変貌しました。
そして雑に言えば、バルビゾン派の絵画へ、そして印象派の絵画から近代抽象画へと発展していったと言えます。

この美術館では並行して、「狩野芳崖と四天王 ー近代日本画、もうひとつの水脈ー」という特別展を開催していまた。狩野芳崖の《悲母観音》(明治21年 東京藝術大学蔵)は是非見たかったのですが、展示期間が12月2日~17日なので見ることが出来ませんでした。

さて山梨県立文学館ですがこちらは平成元年十一月三日に開館いたしました。樋口一葉や芥川龍之介、飯田蛇笏等の資料を収集し保存し、展示しています。
2017年の11月に訪れた時は太宰治の妻だった津島佑子の特別展を開催していました。
津島佑子の母、石原美知子は井伏鱒二の媒酌で太宰治と結婚しました。家内は石原美知子に関心があります。
展示は甲斐出身の石原美知子の祖先の人々を描いた津島佑子の大作「火の山-山猿記」の全原稿です。ビデオによる講演の肉声もありました。家内はたいそう感動した様子でした。
展示では父の太宰治にはほとんど触れず、「津島佑子」を独立し卓越した作家としていました。父の有名さに頼らない学芸員の見識が立派です。尚、津島佑子は1947年生まれ、2016年没で本名は里子です。
この文学館には樋口一葉などの資料の他に、山梨の俳人、飯田蛇笏、飯田龍太の詳細な資料が常設展示してあります。

以上、今日は山梨県立美術館と文学館をご紹介しました。甲府は新宿からJR中央線の特急に乗ると2時間で行けます。秋の陽の輝く小さな旅に丁度良いと思います。是非お出掛けになっては如何でしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「慰安婦も徴用工も捏造だと暴いたソウル大学名誉教授の李栄薫さんのショッキングな話をお聞き下さい」

2020年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム
李栄薫さんの慰安婦も徴用工も捏造だと暴いた感動的な話、「2.嘘の国民、嘘の政治、嘘の裁判」はYou Tube の、https://www.youtube.com/watch?v=EmVzs4yNBtw にあります。是非、お聞き下さい。

「今日は年間第29主日で世界宣教の日です」

2020年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今日のミサの動画は、https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/38559/ です。
東京大司教のタルチシオ菊地功神父のお話をお送りいたします。
(1)はじめに
年間第29主日です。10月の終わりから二つ目の日曜日は、世界宣教の日と定められています。説教の中で詳しく触れました。福音を宣教することは教会の大切な使命です。カトリック教会のカテキズムには、こう記されています。

「洗礼が救いに必要なことは、主ご自身が断言しておられます。キリストは弟子たちに、すべての民に福音を告げ、洗礼を授けるようにお命じになりました。福音が伝えられてこの秘跡を願うことの出来る人々の救いのためには、洗礼が必要です」
同時にカテキズムは、「神は救いを洗礼の秘跡に結びつけられましたが、神ご自身は秘跡に拘束されることはありません」とも記され、望みの洗礼や、洗礼を受けずになくなった幼児の救いについて、神ご自身の御手の中にあるいつくしみによる救いの可能性にもふれ、詳しく解説されています。是非一度、カテキズムの1257番以降をご覧ください。
以下は、https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/ に続きます。

(2)今日の説教
教会は10月の終わりから二番目にあたるこの主日を、毎年、「世界宣教の日」と定めています。教会の最も大切な使命である福音宣教への理解を深め、その活動のために祈る日であり、また世界中の教会が、福音宣教にあって互いに助け合うための献金の日でもあります。

バチカンには福音宣教省という役所があり、日本のようにキリスト教国ではない地域の教会を管轄しています。その福音宣教省には教皇庁宣教事業と名付けられたセクションがあり、この世界宣教の日に集められた世界中の献金を集約し、宣教地における教会の活動を資金的に援助する事業を行っています。各国にはこの部門の担当者が司教団の推薦で聖座から任命されており、日本の教会では、立川教会の門間直輝神父様が、日本の代表として教皇庁宣教事業の活動をとりまとめておられます。昨年は日本の教会からの献金が、福音宣教省の指示に従い、インドの教会活動の援助などに使われたと聞いています。

さて、教会にとって福音宣教は最も大切な使命の一つであります。あらためて引用するまでもなく、例えば、マルコ福音書の終わりには「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という、復活されたイエスによる弟子たちへの宣教命令が記されています。

第二バチカン公会議の教会憲章は、その冒頭で、「諸民族の光はキリストであり、そのため聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての被造物に福音を告げ、教会の面に輝くキリストの光をもってすべての人を照らそうと切に望む(1)」と、教会に与えられた福音宣教の使命を再確認しています。

本日の第二朗読、テサロニケの教会への手紙でパウロは、「わたしたちの福音があなた方に伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信によったからです」と記しています。同じパウロは、コリントの教会への手紙に、次のように記していました。

「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空しくならないように、言葉の知恵を用いずに告げ知らせるためだからです(1コリント1章17節)。」

もちろんわたしたちは、何かを信じようとするとき、論理的に構築された事実を理解し、十分に納得した上で、その次の決断を下します。十分に納得するために、さまざまな知識を積み重ねていきます。もちろんそういった知識の積み重ねの重要さを否定することは出来ませんが、しかし、パウロは、そういった知識の積み重ねを、「言葉の知恵」と言い表します。
以下は、https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/ に続きます。

今日の挿絵代わりの写真は京都府の日本海側の宮津市にるカトリック宮津教会です。明治29年に建てられました。
国宝の大浦天主堂は明治12年に建てられたので、それに次いで日本で2番目に古い教会になります。そして現役の木造教会としては日本一古い教会なのです。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
出典は、http://pupa.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_f70a.html です。





「秋の陽射す石神井公園の写真と石神井城ものがたり」

2020年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム
 武蔵野には所々に泉がコンコンと湧いています。そこは昔から湿地帯になり幾つかの沼がつらなっています。そんな場所に石神井公園があります。私の家から車で40分くらいの所です。
昨日は好天気だったので午後に秋の陽射す石神井公園の写真を撮って来ました。
公園は練馬区石神井台にあります。二つの池を中心とした公園で武蔵野の自然がよく残されています。二つの池とは木々に囲まれた石神井池と三宝寺池とです。三宝寺池の隣に石神井城跡とその遺跡があります。
昨日撮って来た写真をお送りいたします。









写真の始めの3枚は東側につらなる石神井池です。4番目の写真は西にある三宝寺池です。
5番目の写真は三宝寺池に隣接した石神井城の遺跡の碑です。
さて鎌倉幕府が新田義貞によって倒されたのは1333年です。それ以後武蔵野は室町幕府が支配出来ず戦乱が続いたのです。現在の東京の地には数人の武装豪族が跋扈していました。しかし彼等は太田道灌よって滅ぼされ、その太田道灌は小田原の北条一族に滅ぼされたのです。関東はしばらく北条一族によって支配されていましたが、天正18年、1590年、豊臣秀吉に敗れます。そうして関東一円は豊臣の勢力に下ったのです。
こんな激動の中に石神井城の運命があったのです。
その石神井城は1400年ごろ豊島氏によって築城されました。しかしその命は短く、1477年に太田道灌によって攻められ城主の豊島泰経は敗走し、石神井城は廃城になってしまったのです。たった77年の間しか城として存続しなかった悲劇的な城でした。
城は現在の石神井公園の三宝池の南岸の高台にあり1956年以降の発掘調査と文献調査により1400年頃から1477年まで豊島氏の本拠の城であったことが確認されています。
数回の発掘で土塁や空堀も見つかり、館跡からは多数の陶磁器が出土しました。5番目の写真の石碑の上の台地に館があったことが判明しています。台地の上には現在、三宝寺になっています。

昨日の散歩は風もなく快適でした。散歩しながら太田道灌よって滅ぼされた豊島泰経とその家族の悲しい境遇を想いました。池の水面に秋の陽はあくまでも明るく射していました。屈託のない家内が小声で秋の童謡を歌っています。明日は豪徳寺の世田谷城阯公園へ行こうと思いながら帰って来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


===参考資料=========================
現在の東京都の西部を領有していた豊島氏の歴史と石神井城の歴史:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E4%BA%95%E5%9F%8E より。
石神井城は平安時代から室町時代まで石神井川流域に勢力を張った豊島氏の後期に本拠としていた城であり、長尾景春の乱で没落するまで使われた城でした。
歴史・沿革
石神井城の築城時期は定かではないが、一般的には室町中期頃であったと考えられている。鎌倉期以降宇多氏・宮城氏らの館が構えられていた場所に、彼らと婚姻関係を結びながら石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が築いた城で、以後この地は豊島一族の本拠地にもなった。
豊島氏は貞和5(1349)年に石神井郷の一円支配を開始したものの、応安元(1368)年の「平一揆の乱」に敗れて関東管領・上杉氏に所領を没収されており、その後応永2(1395)年になってようやく同郷を還補(げんぽ=所領返却)されている。石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、城内に創建された三宝寺のいずれもが「応永年間の建立」と伝えられていることから、城もこの還補直後(応永年間)に築かれたとする説が有力である。
平安期以来、武蔵の名族として名を馳せていた豊島氏は室町時代中期、新興勢力の扇谷上杉氏家宰太田氏と対立を深め、長尾景春の乱において太田道灌に攻められ没落した。文明9(1477)年のこの戦いにおいて、豊島氏は当主の泰経とその弟泰明(ただし、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)はそれぞれ石神井城と練馬城に拠り太田道灌と対峙したが、同年4月13日練馬城を攻撃された後の江古田原の戦い(『鎌倉大草紙』では「江古田原・沼袋」)で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に敗走している(なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は黒田基樹・齋藤慎一・則竹雄一・西股総生・伊禮正雄・葛城明彦・八巻孝夫・齋藤秀夫らの支持により「練馬城」が新たな通説となっている)。
その後、4月14日に道灌は石神井城近くの愛宕山(現:早稲田高等学院付近)に陣を張り石神井城と対峙、18日になって一旦和平交渉が結ばれた。しかし、豊島氏側が条件であった「城の破却」を実行しなかったことから、21日に道灌は攻撃を再開、外城が攻め落とされたため、泰経はその夜城を捨て逃亡した。泰経は翌年1月平塚城で再起を図るが、再び道灌が攻撃に向かったため、またしても戦わずして足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている(以前の通説では「丸子城(神奈川県川崎市)から更に小机城(神奈川県横浜市)へと落ち延びた」とされていたが、現在は多数の史家によりほぼこれは否定されている)。なお、「落城の際には、城主の娘の『照姫』が三宝寺池に身を投げた」とも伝えられているが、これは明治29(1896)年に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』のストーリーが流布されたもので、「照姫」は全くの架空の人物である。以下省略。

「展示方法が独創的な府中市郷土の森博物館」

2020年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム
「府中市郷土の森博物館」という広大な展示場があります。大きなケヤキの森があり中に博物館があるのです。博物館には石器時代から江戸時代、昭和時代の庶民の生活の様子が分る展示物が時代順に並んでいます。
「府中市郷土の森博物館」の展示方法が独創的だと感心している理由は森そのものの中に展示物が散在していることです。展示物は古民家や明治時代の商店、郵便局、役場などです。昔の小学校もあります。抹茶を楽しむ洒落た茶室もあります。
それだけではないのです。江戸時代の庚申塔を集めて展示してあります。一角にはロウバイの花が美しく咲く畑もあります。いろいろな品種を集めた梅林もあります。
ですから大きな森を散歩していくと明治時代に返ったような気分になり古民家やロウバイの花が楽しめるのです。
そこでは広い森そのものが博物展示場になっているのです。設計した人の独創性に感動します。
一昨日写して来た写真をお送りいたします。









写真にある場所の広い森の中央には茶店があります。
私は一休みして串ダンゴとコーヒーを注文しました。そのダンゴが砂糖無しの醤油だけの味です。成程、江戸時代はこんな味のダンゴだったと妙に感心しました。家内は甘い熱い葛湯をとりました。昔、受験勉強で夜遅くなると祖母が作ってくれたなどと懐かしんでいました。
そして梅干しを買いました。塩と酢だけで添加物の一切入っていない梅干しです。スーパーの梅干しには防腐剤や調味料が入っていて嫌らしい味がするのです。家の白梅に毎年百個以上も大きな実がなり塩だけの梅干しを作っていたのですが、今年は出来が悪く生りませんでしたので、ここで手に入れることができました。家内と純粋の梅干しを食べて幸せな気分になりました。
茶店そのものも古い物の展示場だと気が付きました。茶店を出て少し散歩して帰って来ました。
平凡な散歩ですが注意深く「府中市郷土の森博物館」を散歩すると展示方法の独創性に感動します。老境の静かな午後でした。

なお博物館の2階の博物展示場は天井改修のため令和4年3月迄休館です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


====参考資料======================
府中市郷土の森博物館、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E5%B8%82%E9%83%B7%E5%9C%9F%E3%81%AE%E6%A3%AE%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8

府中市郷土の森博物館は、東京都府中市にある、多くの建築物を含む森全体が一体となった野外博物館である。多摩川の是政緑地(府中市郷土の森公園)に隣接した自然の多い場所にあり、敷地面積は約14haである。
「府中の歴史と文化と人の調和に貢献すること」を館の使命とし、施設運営を行っている。
郷土資料の展示などをしている二階建ての本館を中核としてプラネタリウムを併設し、府中市域の江戸中期から昭和初期の建築物を移築復元して保存している。府中市は武蔵国の国府という中心地であったため遺跡が多く、それら市内遺跡からの出土品を展示している。昔の生活道具や農耕道具の展示と体験イベントを通じて当時の民俗を伝えている。

多摩川の砂利採掘跡を利用しており、はけ、小川、浅間山、梅園など、地形を再現し、それを生かした建物や田畑などと歴史と自然を楽しめるようになっている。
水平型関東最大級、ドーム径23mのプラネタリウムでも知られる(製造した五藤光学研究所は府中市内に本社を持つ)。自然の多い園内を活かし、天体観望会なども行われる。
常設展展示解説・復元建築物解説をはじめ、各種イベント等が活発に行われる。梅園では梅が収穫され、梅干・梅ジャム・梅羊羹・梅酢が製造販売されている。

「戦前の朝鮮における日本人の振る舞いと慰安婦問題の実態」

2020年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の記事、「日韓友好は日本の国益です」へ対して「むつさん」から以下のコメントを頂きました。
戦前の朝鮮における日本人の振る舞いと慰安婦問題の実態が分る内容なので特にお送りいたします。

===むつさんのコメント、 2020年10月15日 ===

私の父は朝鮮総督府の下級官吏をしていた父の実兄を頼り高等小学校を卒業後に朝鮮に移住しました。
そして京城高等専門学校、今のソウル大学に進学し卒業後日本の財閥系企業の現地企業に就職し終戦まで技師として働きます。
その過程で郷里から母を迎えて現地で私の姉を授かりました。

その父が生前話していたことです。
戦前朝鮮や満州に渉る日本人は日本では生活出来ない人達が多かったそうです。そんな日本人は差別意識丸出しで朝鮮の人達に当たったと言います。

父は朝鮮で日本式の高等教育を受けたのですが、同級生には現地の朝鮮人もいました。ですから日本では生活出来ないで移住した人々とは意識が違っていたと言います。

生活の為に朝鮮に来た日本人は露骨な差別意識を持ち理不尽な暴力を振るっていたのでした。終戦を迎えて立場が逆転します。今まで朝鮮人の労務管理として鉄拳を振るっていた会社の同僚は朝鮮人労働者から呼び出されて袋叩きに会い社宅の前に投げ捨てられていたそうです。

そしてある日父にも呼び出しが来ました。母は覚悟をしていたと言いますが、父は酒をご馳走になり、夜遅く千鳥足で帰って来たと言います。

父母は20年の11月に引き揚げました。
昭和50年の初頭だったと思いますが父の高専時代のクラスメートの朝鮮人が来日しました。私も同席しましたがそのクラスメートは引き揚げるまでの期間に何度か父母が住む社宅まで食料を持ってきてくれたと言います。

そしてここまでが前提なのですが韓国が主張する慰安婦の強制連行なのですが父も母もそして朝鮮総督府の官僚だった叔父も見た事も聞いた事もむ無かったと言います。

今の時代では有り得ない話なのですが日本でも娘の身売りはありました。親の借金や生活の為に娘を売る事が有った時代なのです。
そして日本国内でも生活の為に娘を売った事例がたくさんあったのです。そして当時の朝鮮でもそれは当たり前に有った事です。

人間としては決して有ってはならない事ですが、当時は人身売買が存在していたのです。これは恥ずべき事ですが。

然しながら現在の韓国側の主張では全てが日本側に依る慰安婦の強制連行にすり替わっています。そして韓国の慰安婦団体は世界各国に慰安婦像を設置ししようとしています。

そうして日韓関係に於いて韓国は慰安婦と言う外交カードは未来永劫使い続けるでしょう。

ついでに言えば、記事の表題「日韓友好は日本の国益です」にある国益と言う言葉は嫌いです。実態を伴わない言葉なので私は嫌いです。
この国益の為と言う言葉は古くから使われて来ましたが、この国益と言う言葉が使われる時、その時には国益の為には目を瞑れと言う暗黙の強制が伴うからです。(終わり)

以上のむつさんのコメントは戦前の朝鮮における日本人の振る舞いの実態を赤裸々に描いています。そして韓国が主張する慰安婦の強制連行を父も母もそして朝鮮総督府の官僚だった叔父も見た事も聞いた事もむ無かったと明言しています。
しかし日韓関係に於いて韓国は慰安婦と言う外交カードは未来永劫使い続けると予想しています。
日韓関係の難しさが分る重要なコメントなので改めて皆様へお送りいたします。

「桃源郷のような中国の西逓と宏村、世界文化遺産」

2020年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は日韓友好を進めたほうが良いという私の持論を掲載いたしました。そうしたら感情的になった方々から随分とお叱りのコメントを頂きました。そこで今日はお怒りを静めて頂くために桃源郷のような中国の古い村の写真をお送りいたします。
中国の南部にある黄山の麓に広がる安徽省の農村地帯の写真です。そこには山に囲まれた古い村落が散在し、昔から桃源郷と言わていました。
中でも西逓村と宏村の2つの村は世界文化遺産として認定され、世界的に大切にされているのです。そして明時代や清時代の暮らしが現在もそのまま伝えられているのです。
今日の写真と説明文は長谷川 大さんの『世界遺産ガイド」を参考にしました。(https://allabout.co.jp/gm/gc/325134/ )
西逓村と宏村は20Km離れていますが同じ地域です。この2つの村についてはいろいろ調べましたが、この長谷川 大さんの写真と紀行文がしみじみとしていて、とても感動的なものだったのでご紹介いたします。

この西逓村と宏村については中国人にさえほとんど知られていない辺境の村なのだそうです。
村には、かつての繁栄を物語る白壁の独特な住居が立ち並び周囲の美しい山々の景色とあいまって、まるで桃源郷のようなのです。

2005年、中国中央テレビが2万以上もある中国の村落(鎮)の中から、特に魅力的な「十大名鎮」を発表しました。ここでも見事選ばれたのが、安徽省の西逓と宏村だったのです。
4~5世紀の詩人・陶淵明は、『桃花源記』の中で、山に迷い込んだ漁師が桃の林に囲まれた美しい農村を発見する物語を描いています。
中国人はこの外界から隔絶した2つの美しい村を「桃源郷」と呼び理想郷として憧れて来たのです。
西逓と宏村は美しい自然に囲まれた盆地なので桃源郷のモデルではないかという噂が立ち、やがて「小桃源」の名を冠するようになったのです。特に西逓の異名は「桃花源里人家」と呼ばれています。

長谷川 大さんの紀行文によると、西逓・宏村の両村を歩いていると雰囲気が素朴で都会とまったく違うそうです。
田舎の村のやさしさがあります。たとえば何かを忘れていっても盗まれることはないのです。困って立っていたらきっと誰か助けてくれるそうです。そんな安心感があるのです。
街角で子供たちが駆けている。おばあさんが水路で野菜を洗っている。お母さんが籠にお茶を入れて道端で売っている。井戸端会議に花が咲いている。軒下で麻雀をしている。こんな何気ない日常の光景がたまらなく美しいそうです。
陶淵明が描いた桃源郷は天国でも黄金の国でもありません。人々が日々天地と会話しながら農地を耕す、ごくごく普通の農村 なのです。
前置きはこのくらいにして、それでは早速、写真で西逓村と宏村をご紹介致します。

1番目の写真は西逓の北20kmにある宏村の明・清時代の家並みと南湖です。白と青の淡い色彩がとても美しいです。

2番目の写真は宏村の街角風景です。西逓と宏村は家並み全体が世界文化遺産に認定されており、この中で人々は日々の生活を送っています。外には田園と山岳が広がっている農村なのです。

3番目の写真は宏村南湖の風景です。桃源郷と間違えられるだけある美しい景色です。

4番目の写真は西逓の街角です。長谷川 大さんによると、漆喰の白壁、灰褐色のレンガ、すがすがしい青空、水路を流れる清流……何気ない路地がたまらなく美しいそうです。

5番目の写真は外の畑から農産物を昔ながらの天秤棒で運んでいる光景です。のどかな風景です。

写真にある風景は皆様もいつか見たことのある懐かしい風景ではないでしょうか?何故か旧懐の情が胸を温かくします。それはしみじみとした人生のひと時です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===2村の歴史を詳しく知りたい方々の為に==============
西逓;;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%80%93%E6%9D%91
西逓村は中華人民共和国安徽省黄山市黟県西逓鎮にある村である。
11世紀、宋朝の元祐年間にある河川の西岸にできた。そのため、元の名を「西川」といった。物資輸送の駅として使用されたため西逓(「逓」は宿場)と呼ばれるようになり、また「桃花源裡人家」とも呼ばれた。
この村を支えていたのは胡氏である。10世紀、唐の昭宗の子が変乱から逃れてこの地に隠れ住み、胡姓を称した。胡氏は1465年に商売を始めて成功し、土木、建築、修祠、道路整備、架橋などを行った。17世紀中ごろ、胡氏から官僚が出たため、さらに発展した。18世紀から19世紀にかけて、西遞の繁栄は頂点を極め、600もの豪邸が作られた。
西遞村の中心には東西を貫く幹線道路があり、その両脇に並行する道路との間に沢山の路地がある。敬愛堂、履福堂、刺史牌樓の公共施設も設けられていた。現在でも明清建築の124棟が観光用に保全されており、そのほとんどが一般に公開されている。そのほかの主要建築物に、1578年に作られた青石牌坊、1691年に作られた大夫第(医師屋敷)などがある。
2000年11月30日、オーストラリア ケアンズで行われた第24回ユネスコ世界遺産委員会により、「安徽南部の古村落」として、宏村と共に世界遺産に登録された。

宏村;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8F%E6%9D%91
この村は中国安徽省黄山市黟県宏村鎮にある村。2000年に世界遺産に登録され、2001年に中国政府国務院により中華人民共和国全国重点文物保護単位に、2003年に中国歴史文化名村に指定されている。明清代の歴史建築が数多く残る村落で、家々をめぐる水路が完全な姿で残っており、「牛」の形に例えられる村の配置は徽州の村落の典型的な代表例である。
安徽省南部黄山市にある黄山の南西麓に位置する。黟県の県城からは東北へ11kmの位置にあり、現在は宏村鎮がこの集落に置かれている。集落は黃山の余脈である雷崗山を背後にし、西に邕溪河と羊棧河に面している。全村面積は約28万平方m。
11世紀、北宋時代の政和3年(1113年)に汪氏一族により、集落が結成された。汪氏一族は、村が作られる前から宏村に居住し、今では汪氏一族の住まいとなっている。明朝の万暦頃に、村内にある泉を掘り、そこに川の水を引き入れ、南湖を造った。
清朝中期になると、当時の村名「作弘」が6代皇帝乾隆帝の名に当たるとして、「宏村」に改名された。村内には、清の建物がおよそ140現存する。これらの建物は全て、徽州を基盤とする設計がされている。
村内には水を供給する整備がされている。村の全景がはっきりと牛に例えられ、村内向かって西の丘が首、出入り口が角、村の前後の橋が足となっている。
2000年11月30日、オーストラリアケアンズで行われた第24回ユネスコ世界遺産委員会により、「安徽南部の古村落」として、西逓村と共に世界遺産に登録されている。

「東京都最大の湖、多摩湖の写真を撮りに行った」

2020年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は秋晴れでした。東京都最大の湖、多摩湖の写真を撮りに行きました。
多摩湖は村山貯水池とも言い東京都の水道水の水源の一つです。そして都内にある湖としては最大の広さです。
昨日の多摩湖は水が碧色で美しい秋の風景でした。
湖の向こうに白いドームの西武球場の屋根が光っています。丸い屋根の右には西武遊園地の大きな森がまだ緑に輝いています。遠方にかすんでいる山並みは奥多摩の山々です。
ここ多摩湖は自宅から一番近い湖なので四季折々に行きます。そし広々した自然の風景を見て幸せな気分になります。昨日も幸せな老境のある日の午後でした。

昨日撮った5枚の写真をお送りします。5番目の写真のプラタナスの大木が黄葉すると感動的に美しくなります。それにしてもこの湖は都民の命を守る水なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










===参考資料====================
村山貯水池は、多摩湖の通称で呼ばれる、東京都東大和市の狭山丘陵の渓谷に造られました。1927年(昭和2年)完成の東京都水道局水源管理の人造湖です。西の村山上貯水池と東の村山下貯水池に分かれています。東京都内の他県にまたがらない湖の中では最大です。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E8%B2%AF%E6%B0%B4%E6%B1%A0 をご覧下さい。

建設背景です。
明治以降、人口増加及び水道改善目的で東京市は1898年(明治31年)12月1日に淀橋浄水場を竣工させ、1911年(明治44年)3月まで施設能力を増強させたが、それでも市民の増加及び一人当たりの使用量の増加に対応しきれなかった。そのため、東京市の人口増加に対応した水源確保のため、貯水池を新設することとなった。新設は中島鋭治の調査にて、西多摩郡大久野村(現:日の出町)と、北多摩郡の6村(清水村、狭山村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村)(現:東大和市)にまたがる狭山丘陵の二案が検討され、内部がすり鉢の窪地のため工費が安いという理由で、狭山丘陵に建設することが決定した。

着工・竣工の経緯です。
1916年(大正5年)から1927年(昭和2年)まで10年の歳月をかけ建設されました。工事にあたり、資材運搬と導水管(羽村村山線)工事のために羽村-横田間(7.8Km)に軽便鉄道を1918年(大正7年)に着工し1921年(大正10年)に完成します。この鉄道は完成後1924年(大正13年)に廃線となり線路撤去を行ったが、1928年(昭和3年)に山口貯水池建設工事の際に羽村-横田間の線路引き直しを行い、横田-山口貯水池堰堤間の延伸工事を行い、1929年(昭和4年)には資材運搬に利用されたのです。廃線跡の一部は武蔵村山市は野山北公園自転車道として、羽村市は神明緑地として整備されています。

竣工後の話です。
1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)にかけて、太平洋戦争中に爆撃対策として羽村山口軽便鉄道を復活させ砂利を運び、貯水池の堤体(堤防)の嵩上げ工事を行いコンクリートで強化しました。
1945年(昭和20年)、米軍により山口貯水池を含めて5回(4月4日、4月12日、5月25日、6月10日、6月11日)の爆撃を受けますが被害は軽微でした。戦争では都会の貯水池が攻撃目標になるのです。
戦後の1985年(昭和60年)に山口貯水池と合わせて近代水道百選(日本水道新聞社)に選ばれました。
以下省略します。

「はるか遠くに来たもんだ、見知らぬ町へ!」

2020年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム
私は見知らぬ町へ行ったことがあります。群馬県の山の中の淋しい下仁田町です。私は深く溜息をつき、「はるか遠くに来たもんだ!]と独りつぶやきました。当時は高速道路も無く、遠路はるばる群馬県の下仁田町に着いた時のことでした。そこは皆様も多分ご存知ない遠い、山に囲まれた町で名物は葱とこんにゃく、妙義山麓の小さな町です。

今日はこの下仁田町のご紹介をしたいと思います。
全国の村々では神社の祭りが途絶えているそうです。御神輿を担ぐ人や山車の準備をし、それを引く人が高齢化していないのです。秋の風物詩が一つ、また一つと消えて行くのは淋しいものです。
しかし下仁田町では現在でも秋祭りが盛大に行われています。諏訪神社の秋祭りでは7台の豪華な山車が勢揃いして華やかに行われるのです。天保年間(1830~1844)から続く昔のままの賑わいです。
下仁田町は上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。昔の日本そのままのような町のたたずまいです。
このような山あいの小さな町で京都や高山のような豪華な山車が7台もあることが不思議です。
そこで少々調べてみました。そうしたら諏訪神社の歴史が面白いのです。
昔からあった八幡神社が戦国時代に諏訪神社という神社に変わったのです。その頃、武田信玄が下仁田町を占領し、自分の領地だった諏訪盆地の由緒ある諏訪神社を勧進して名前を変えたのです。
その後、江戸時代になって、諏訪神社は天保8年(1837)に再建されます。その時の棟梁は信州諏訪の矢崎善四郎とその弟子たちでした。
拝殿・本殿の壁面や虹梁は彫刻でうめ埋められています。彫刻師の腕が偲ばれる諏訪の大隅流の技を伝える傑作なのです。彫刻は遠く飛騨の国の工匠の作とも言われています。従って豪華な山車は飛騨の高山から伝承さたものと考えられます。
この下仁田町の諏訪神社の見事な彫刻を2枚の写真で示します。



この下仁田町へ終戦の直前に家内は鎌倉から疎開しました。鎌倉はアメリカ軍の上陸用舟艇が来るというのです。
海から山の生活に変わった下仁田町での生活は家内にとって毎日楽しかったそうです。工作の粘土は店で買うのではなく山の崖で掘ってくる、ウサギの餌を毎朝刈りに行ったこと、河原の桑の実を食べて甘くてビックリし母へのお土産にしようと白いワンピースのポケットに入れて帰ったら服が赤紫に染まっていたこと、鏑川で溺れそうになったことなど具体的な話を何度も聞きました。
そして下仁田小学校の同級会へ何度も家内を車で送って行きました。そうしたら家内の同級生だった横山美知彦さんと知り合いになりました。
以下にこの横山美知彦さんの下仁田の思い出の記を送りいたします。

===山郷、群馬県下仁田町の遠い日の盂蘭盆会、祭り、運動会・・・横山美知彦著===

いずれも幼き日の思い出である(小学生から高校生の頃)
・・・盂蘭盆会・・・
あつい夏、入道雲が南の山の頂から湧き上がっている。
今日も夕立か、そんな予想は間違いなく当たる。新暦の盂蘭盆会も過ぎて、夕立の去った山の谷合から吹き降りてくる風に、秋の気配が感じられる。
田舎の夏休みは早い。再び学校でのきついクラブ活動が始まる。何故か勉強のことは、頭に浮かんでこない。
川に降りて見る。精霊が家で過ごした盆棚を橋の上から川に流すことで精霊を再び仏の世界にお送りする。そして普段の生活が始まる。
先祖の精霊は、野菜や、胡瓜や茄子で拵えた馬や牛に乗ってやって来て、盆の間は現実の家で静かに過ごす。そして盆が終わるとお帰りになる。質素であってもそれぞれの家の風習に従い恙なく語り合う、そこには現代の世の中の醜さは微塵も感じられない。
・・・祭り・・・
お祭礼の提灯の明かりが何となく気持ちを、幼かった頃に戻してくれる。
夜、暗闇の中にかすかに見ることの出来るその明かりは、いったい何を私に教えてくれたのか。そして遠くから静かに聞こえる、笛や小太鼓の独特の音は、特別な世界に私を引き入れてくれる。
町内を引き回す山車にはなかなか触れることさえ出来ず、気持ちとは裏腹に遠巻きに眺めるのがやっと、と云う希望の叶えられないもどかしさを胸に秘めていたこと、少子化の現在とは想像する事も出来ないことだった。
山車の上の笛、鐘、太鼓の音が乱れる様に祭りを盛り上げる。山車の周りに取り付けられた組の小田原提灯が左右にかすかに揺れる。正面の一段高い場所にそれぞれの町内で自慢の人形も山車の動きに合わせる様にかすかに動く。
深まりし秋の祭りの笛の音に遠き昔を思い起こさん





・・・運動会・・・
祭りの終わった翌日の学校は、朝から機械的な音に再び気持ちをふるい立たせてくれる。
町内最後のイベントの運動会だ。スピーカーから流れるスポーツ行進曲は、自分の力量に関係なく子供達の耳を賑わし、天候だけを気にしながら指導の先生の合図で体をほぐす為の準備運動に入って行く。
今と違い校庭の外の周りには露天の物売りが数軒必ず出店していた。
大きな混乱もなく、子供達は店を目を丸くして覗くことが出来た。
いもあめ、芋串し、ハッカパイプ等が粗末な台の上に並べられており、玩具類はなかったように記憶している。
運動場での生徒達は、靴を履いていない。はだしだ。今では考えられない光景だが、当時はそれが当たり前で、足が痛いなどの言葉は何処からも聞こえてこなかった。
昼飯も気の利いた家でも各家で作る稲荷すしが精々で、大方通学時に持ってくる弁当箱に、良く出来て玉子焼きが入る程度だった。でも少しもそれを、みじめと思ったことはない。むしろ胸はいつもより高鳴り、心は晴れやかだった。
そして運動会が終わると同時に始まる蒟蒻刺しのアルバイトに抵抗を感じる憂鬱さが大きく頭をよぎるようというになっていた。
遠い日の運動場に我れ立ちぬ     (平成25年9月15日記)
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さて皆様の故郷はどんな所でしたでしょうか。故郷ではどのような秋祭りが行われたのでしょうか?
昔の思い出は懐かしく楽しいものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「年間第28主日のミサと菊地功大司教のお話」

2020年10月11日 | インポート
今日の日曜日は年間第28主日です。主日のミサは動画配信で自宅で家内と一緒にあずかりました。

ミサの動画は、https://www.youtube.com/watch?v=yqUSn6PqNUg&fbclid=IwAR0KdQslsrIQ6PJte3H3Qhxdn7P5OBHs_uc6RbpGjAvnRrWXXDEspAsrOHM にあります。
そして今日の菊地功神父さまのお話と説教は以下にあります。

(1)菊地功神父さまからのお知らせ
東京は台風が近づいていることもあり、雨風の強い、寒い週末となりました。

先日相次いでいくつかの人事を公示しましたが、その中で、東京教区司祭の伊藤幸史師が、新潟教区へ移籍すると言う人事を発表しました。もともと東京教区と新潟教区は、同じ東京教会管区の仲間と言うこともあり、その中でも新潟教区が信徒数から言って一番小規模であることから、これまでも東京教区から司祭が出向の形で派遣されてきました。私が新潟の司教をしている間にも、東京教区の江部神父様が派遣され、新潟教会の主任司祭を務めてくださっておりました。伊藤幸史神父様は、やはり私がまだ新潟司教であった2013年に新潟教区へ派遣され、これまで糸魚川や新津などの教会で活躍されてきました。ご本人からはすでに数年前に教区移籍の打診がありましたが、このたび新潟に新しい司教が誕生したことから、早速両教区の司教同士で話し合い、移籍となりました。これからは伊藤幸史神父様は新潟教区司祭となります。新しく任命された成井司教様を助けて、新潟教区で活躍されることをお祈りします。

なお司祭は、教区とか属人区とか修道会や宣教会などと言った教会法上の独立した法人組織に所属していない限り、司祭としての職務を果たすことは出来ませんし、恒常的に使徒職を果たすためには、働こうとしている当該教区の司教から、司祭としての権能を文書で委任されていなければなりません。

さて、3月1日以来、コロナ禍で教会活動を制限せざるを得ない状況の中、主日ミサを日曜日または土曜日に、東京カテドラルから大司教司式ミサとしてネット配信してきました。お手伝いいただいている関口教会青年をはじめとするボランティアの皆さん、毎回聖歌隊を努めてくださっているイエスのカリタス会の志願者とシスター方には、本当に感謝しています。徐々に教会活動が再開してきており、諸行事も復活しつつありますし、またネット配信を始めている教会も増えています。そこで、カテドラルからの大司教ミサ配信は10月31日(土)をもって、いったん中断させていただきます。今後は状況を見極めて判断しますが、クリスマスなどの大きな行事や教区行事は配信をいたしますので、その際には、教区ホームページでお知らせいたします。なお、11月以降は、土曜日に大司教メッセージビデオを配信できるように、現在検討中です。

(2)年間第28主日A(公開配信ミサ)、東京カテドラル聖マリア大聖堂での菊地功神父さまの説教(2020年10月11日)
「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」

教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、そう始まっています。

あらためて言うまでもなく、10月はロザリオの月であります。10月7日にはロザリオの聖母の祝日があり、また教会は伝統的に10月にロザリオを祈ることを勧めてきたこともあり、教皇レオ十三世によって10月が「ロザリオの月」と定められました。

ロザリオの起源には諸説ありますが、十二世紀後半の聖人である聖ドミニコが、当時の異端と闘うときに、聖母からの啓示を受けて始まったと伝えられています。10月7日のロザリオの聖母の記念日も、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。そういったことだけを耳にすれば、ロザリオは戦いのための武器のようにも聞こえてしまいます。もちろん、ある意味、ロザリオは信仰における戦いのための道具とも言えるのかも知れませんから、歴史的背景が変わった現代社会にあっても、信仰を守り深めるために重要な存在であると思います。

とりわけ今年のように、感染症拡大の事態にあって、目に見える形で教会に集まることが出来なかったり、聖体祭儀に共にあずかることが適わないという非常事態においては、まさしく信仰自体が危機にさらされていると言っても過言ではありません。そういう信仰の危機にあるからこそ、祈りによる連帯と一致は重要ですし、その意味でロザリオは信仰の危機に立ち向かう武器であるとも言えるでしょう。
・・・以下は、https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/2020/10/post-a8f40d.html へ続きます。アーメン。

「ノルウェーの宗教改革以前の中世の木造教会の写真」

2020年10月11日 | 写真
今日は日曜日なのでキリスト教の木造教会の写真をお送りします。宗教改革以前の中世の木造教会は幾つか現存していますが、その一覧は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E9%80%A0%E6%95%99%E4%BC%9A にあります。
それによるとノルウェーにも以下のように多くあります。

ウルネスの木造教会
カウパンゲル・スターヴ教会 Kaupanger stave church
ホッペルシュタ・スターヴ教会 Hopperstad stave church
ボルグンド・スターヴ教会 Borgund stave church
レインリ・スターヴ教会
ヘッダール・スターヴ教会
ゴル・スターヴ教会
ファントフト・スターヴ教会、などなど。

上にあるスターヴ教会とは 教会の荷重を支える太い支柱をスターブと言い、そのまま建築技術の名前になっているのです。かつてはヨーロッパ北西部に多く存在していましたが、現在ではほとんどが石造りの近代的な教会に建替えられ、もっとも多く残っているノルウェー国内でも、わずかに28棟を残すのみとなっているだけです。
これらの中から今日は3つの教会の写真をお送りいたします。

1番目の写真はノルウェーにあるヘッダール・スターヴ教会です。13世紀前半から中頃に建築されました。

2番目の写真は世界遺産に登録されているノルウェーのウルネスの木造教会です。教会が建築されたのは1130年前後と推測されています。

3番目の写真はノルウェーのセール・アウダールにある「さらし台」のついたレインリ・スターヴ教会です。レインリに位置する木造教会で13世紀後半に建設されたものです。

これらの木造教会の写真を見ると、ルネッサンス以前の中世の暗い雰囲気が感じられます。当時のキリスト教も暗く神秘的だったのでしょぅ。ルネッサンスや宗教改革によって社会の雰囲気が明かるくなった様子が感じられます。

一般的にヨーロッパの木造教会は宗教改革の前に建てられたので、中世のキリスト教の雰囲気を表しています。その意味で歴史的価値が大きいので大部分は世界遺産になっています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「鎌倉、円覚寺の紅葉をお楽しみ下さい」

2020年10月09日 | 写真
鎌倉は比較的に暖かい所なので11月下旬にならないと紅葉しません。
2018年の11月25日に円覚寺の紅葉の写真を撮って来ました。
円覚寺は私が好きな禅宗のお寺です。鎌倉五山第二の大きなお寺で、境内には総門、山門、仏殿、選仏場、方丈、国宝の舎利殿、12の塔頭(たっちゅう)など多くの建物があります。
円覚寺の紅葉の写真をお楽しみ下さい。

1番目の写真は境内の紅葉の写真です。この写真の出典は、http://www.engakuji.or.jp/blog/ です。

2番目の写真は山門の内側の紅葉です。この写真の出典は、http://www.engakuji.or.jp/blog/ です。

3番目の写真は山門の脇の大銀杏の黄葉の写真です。これと次の写真は自分で撮ったものです。

4番目の写真は坐禅堂の選仏場の写真です。この坐禅堂は元禄12年(1699年)建立の茅葺き屋根の建物です。円覚寺では一般向けの座禅会や学生座禅会など毎日のように座禅会を開催していて誰でも気軽に座禅が組めます。
さて禅宗や座禅のことをごく簡単に書いて置きます。
禅宗はインドの大乗仏教の一つの宗派です。それを中国に来て伝承したのが達磨(ボーディダルマ478−528年)です。彼は、南インドの香至国(こうしこく)の国王の三男として生まれました。詳しいことは、https://true-buddhism.com/history/daruma/ をご覧下さい。
その後、中国でいろいろな禅宗の宗派が出来ましたが、日本に導入されたのは宋時代(鎌倉時代)の曹洞宗と臨済宗、そして江戸時代の黄檗宗の3つの宗派だけです。それぞれの開祖は、曹洞宗は道元さま、臨済宗は栄西さま、黄檗宗は隠元さまです。
禅宗の特徴はお釈迦さまの教えを理解するには経典を勉強することと座禅をすることの両方がもっとも重要だという教義にあります。
このように座禅を重要視する宗派は他にはありません。
しかし坐禅の持つ意味や目的の解釈は、曹洞宗と臨済宗では考え方が別れるようです。
曹洞宗は何かの目的のための手段として坐るのではなく、坐禅そのものが目的であり、坐ること自体に集中する禅の立場にとっています。
日本曹洞宗の祖の道元は、ただひたすら坐ることに打ち込む只管打座(しかんたざ)を唱えています。

只管打座が重要な理由が不立文字の故です。
不立文字とは、「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」の語句の始めの語句です。
その意味は、「経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する」という意味となり、禅宗の根本を示すものです。
禅は、インドで古くからある精神修行の方法で、それが仏教に取り入れられたものです。
「不立文字」は、中国の禅宗の開祖として知られるインドの達磨(ボーディダルマ)の言葉として伝わっており、「文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。したがって、悟りのためにはあえて文字を立てない」という戒めです。
何が何だか煙に巻かれたような説明ですね。
宗教とは何が何だか分からない事を信ずることです。ですから禅宗には深い宗教性があるのでしょう。

さて円覚寺は1282年 中国から招かれた無学祖元により鎌倉で創建されました。
円覚寺は、無学祖元から夢窓疎石へと受け継がれ日本の禅の中心となったのです。
明治以降に禅を西洋に紹介した鈴木大拙は在家の居士として参禅しました。
また夏目漱石も円覚寺の座禅に参じており、その経験は「門」という作品に描かれています。「夢十夜」の第二夜の夢にも座禅の体験が書かれています。

それはそれとして紅葉の写真を見ながら禅宗や座禅のこともお考え下さい。

「日本民族とは?(5)和を尊び団結して努力する民族」

2020年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
日本民族は昔から輝かしい文化を持っていました。しかし客観的に日本民族の良いことと悪い面を考えることは大変重要なことと信じています。
例えば日本の文化の特徴に和をもって貴しとなすというものがあります。この文化には良い面と悪い面があります。
良い面の一例を上げれば、日本の会社では社員が勝手なことを言わないで、会社の方針に従って一致団結して新製品の大量生産に努力し、品質の高い工業製品を製造して来たことです。その結果が戦後から1990年頃まで続いた日本の経済の高度成長なのです。
それだけではありません。和をもって貴しとなすという文化のおかげで、家庭には言い争いの無い静かな平和があるのです。職場にも和気藹々とした平和があるのです。
この家庭の平和や職場の平和こそかけがえのない大切なものです。
しかしこの文化には悪い効果もあるのです。それは恐ろしい一面です。
(1)和を強調し過ぎるあまり、協調性の無い人間を残酷にも排除しようとします。
(2)異なった意見を排除するので、日本では独創的な芸術や新しい科学技術が生まれ難い。

これらの「和をもって貴しとなすという文化」の欠点をもう少し掘り下げて考えてみましょう。
日本では和を強調し過ぎるあまり個性を尊重しません。学校でも会社でも他人と違う意見を言うことは悪いことだという風潮があります。協調性の無い人間はいじめられます。疎外されます。一人前の人格者とは見做されません。
その結果、個性の強い子供は学校で不登校になりがちになります。
協調性の無い人間は会社で偉くなれません。職場で正論を言う人は嫌われます。言っていることがどんなに会社の為になっていても無視されます。そうして、「そういうことは社長になってから言え!」と叱られます。
不愉快なので会社を辞めます。これが苦難の人生の始まりになります。
日本の会社は正しいことを言う自由がないのです。課長は部長の言いなりです。当然、身分の低い社員は上役に従順になります。個人の自由が無いのです。会社の、ある部分だけを見れば軍隊に入隊するような決心がいるのです。
和をもって貴しとなすという文化の弊害は学校や会社の人間関係に限ったことではありません。
地域社会でもその悲劇が起きるのです。
一つだけ実例をあげます。
近所に会津出身の人が変わったデザインの家を建て引っ越してきました。引っ越してから親しくなって話を聞きました。
すると郷里の会津の悪口を何度も何度も訴えるのです。結論を書けば、「自分が他人と違い過ぎると、さんざんいじめられた」と言うのです。
会津では個人を尊重しないで、傷つけられたと言うのです。そして会津には二度と帰らないと言います。

さて日本では独創的な芸術や新しい科学技術が生まれ難いという問題に移ります。
これは日本の学校教育に問題があるのです。
イギリスに長く在住して、あちらの大学を卒業した石山 望さんが書いていました。
・・・まず、大学の授業ですが、先生は、勿論、その教科に限り「全知の人」です。
しかし、余程専門的なことでない限り、先生は、学生に「皆で、一緒に学びましょう。私ももっと知りたいのです」という感じを抱かせる、。これは日本の大学と大きな違いと思います。
従って、生徒は、先生から「君たち、どう思う?」と問われることが、常です。
生徒に考えさせるのですね。従って、生徒は、事前にかなり予習をしていかなければなりません。
「論文」に関しても同じです。学生は最後に結論として、”自分はこう思う”とはっきり書くことが厳しく要求されるのです。他人からの受け売りではなく、自分独自の見解を書くことが必須条件なのです。・・・
上記は、「和をもって貴しとなす文化」の欠点です。
それでは良い側面は何でしょう?
それは天皇や権力者を中心に団結し皆で努力することです。これには甚大な効果が上がるのです。明治維新以来の日本民族の発展ぶりを見れば明らかです。

7世紀後半からの律令制によって天皇中心の社会が出来ました。
この天皇制の確立の結果、天皇を中心とした中央集権制が確立したのです。その後、時代が流れ、鎌倉幕府、室町幕府、そして江戸幕府が出来ました。しかし天皇制の重要性は変わりませんでした。
足利尊氏の南北朝の時代は例外ですが、全ての幕府は天皇を上に頂き、天皇の委託によって政治を行って来たのです。ですから日本民族の中心は歴代の天皇にあったとも言えます。
これは世界の歴史を見ると実にまれな民族です。
中国でも朝鮮でも王朝が目まぐるしく交代するのに対して、日本では同じ血筋の天皇が脈々と続いて来たのです。これこそが日本民族の特徴ではないでしょぅか。

明治維新後、78年目に日本は敗戦により全てを失ったのです。78年間、えいえいと培ってきたすべてが灰燼に帰したのです。
この悲劇の幕引きは昭和天皇の玉音放送でした。この事実こそが日本民族の心の中心に天皇があったという証拠ではないでしょうか。
そして「忍び難きことをしのび、堪え難きことをたえ」日本民族は団結して復興に努力したのです。それは民族の存亡をかける経済復興の戦いでした。
昭和天皇は国民を勇気づけるために全国の津々浦々を回り、街頭で帽子を振り国民を激励したのです。結果、戦後75年間の経済の高度成長が進行し、現在に至っているのです。

このありさまを素直に見ると「日本民族とは天皇を中心にして努力する民族である」という言い方もできるのです。
私は右翼でも国粋主義者もありません。
単に日本民族の歴史と他民族の歴史を比較し文化人類学的に観察してありていに書いたに過ぎません。

さて皆様は日本民族と天皇制に関して如何なご意見をお持ちでしょうか? コメントを沢山頂けたら嬉しく思います。
今日の挿絵代わりの写真は海の写真です。私が由比ヶ浜と茅ヶ崎海岸と色丹半島を撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)