後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「カトリックのミサとはどういうものでしょうか?」

2020年10月04日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教では日曜日に教会に集まり神に祈ります。イエス・キリストへも祈ります。
プロテスタントでは礼拝と言いカトリックではミサと言います。
カトリックのミサは全世界の教会で同じ式次第で内容も同じです。
皆さまキリスト教をご存知と思います。
しかし礼拝やミサの式次第や内容はあまりご存知ないかも知れません。
そこで今日はカトリックのミサの様子をお送りいたします。
今日の年間第27主日のミサは、https://www.youtube.com/watch?v=0WGoev4Fhow にあります。是非一部でもご覧下さい。ミサの雰囲気が分ります。
写真はミサの始めの場面です。

そして以下はタルチシオ菊地功大司教の話です。
(1)大司教からのお知らせ
10月はロザリオの月です。
10月7日にはロザリオの聖母の祝日があり、伝統的に10月にロザリオを祈ることが勧められてきたこともあり、教皇レオ十三世によって10月が「ロザリオの月」と定められました。

ロザリオの起源には諸説ありますが、十二世紀後半の聖人である聖ドミニコが、当時の異端と闘うときに、聖母からの啓示を受けて始まったと言われています。10月7日のロザリオの聖母の記念日も、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることにちなむものですので、そういったことだけを耳にすれば、ロザリオは戦いのための武器のようにも聞こえてしまいます。もちろん、ある意味、ロザリオは信仰における戦いのために道具とも言えるのかも知れませんから、歴史的背景が変わった現代社会にあっても、信仰を守るために重要な存在であると思います。とりわけ、現在のように、家に留まって個人的に祈る機会がふえていますから、ロザリオの祈りを持って、霊的共同体の絆を深めることは意味があることだと思います。

先日、ご案内の通り、ミサにおける年齢制限を解除しました。まだまだ慎重な行動が必要だと思いますので、健康に不安がある方はご自宅でお祈りくださって構いませんが、状況を見ながら、少しずつ、なるべく多くの方にミサに参加していただけるように、条件を見直していきたいと思います。それでも、原則としている三つの密を避けることや、マスクの着用を含めた咳エチケット、手指の消毒に関しては、大原則としてお忘れにならないようにお願いします。またミサにあずかる際には、それぞれの小教区独自の方法で、参加者の記録を残すようにしています。これは、クラスターなどが発生したと見なされた場合、その場にいた方々への連絡などをする必要性があるためです。ご協力をお願いいたします。

本日10月3日午後、東京教区には新しい司祭が誕生しました。夕方6時から行われた主日ミサの説教でも、そのことに触れています。以下、その主日ミサの説教原稿です。

(2)年間第27主日(公開配信ミサ)の大司教の説教
東京カテドラル聖マリア大聖堂、2020年10月3日

先ほど、10月3日の午後、この大聖堂で新しい司祭と助祭が誕生しました。東京教区は、喜びのうちに、ホルヘ・ラミレス神父と古市助祭を迎えます。
年間第27主日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=0WGoev4Fhow です。

教会において司祭になるとことは、就職とは全く違います。司祭への道は神からの呼びかけに応える道であり、その呼びかけに対して、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)と応えたことに基づいて歩み続ける人生の旅路です。

さらにその召命は個人の問題ではありません。「召命を育てる義務は、キリスト教共同体全体にある」と、第二バチカン公会議の司祭の養成に関する教令は指摘しています。司祭は、自分たちと関係のないところで養成され、自動的に誕生して、小教区に与えられるような存在ではなくて、教会共同体が自ら生み出し育てていく存在です。そのために、同教令は、「共同体はとくにキリスト教的生活を十全に生きることによってその義務を果たさなければならない」と指摘しています。

ですから、今回新司祭が誕生したことも、それに続く助祭が誕生したことも、どこかで勝手に起こっている無関係な事柄なのではなく、教区共同体にとって、また小教区共同体にとって、自らの責任において関わっている大切な務めの結果であります。

もちろん教区には一粒会という存在があり、祈りと献金を通じて、神学生の養成を支えてきました。みなさまの寛大なご支援に、心から感謝いたします。同時に教区の全員が、一粒会の会員であり、神学生養成に責任を持って関わっていることも思い起こしていただければと思います。

さて、司祭への道は、冒頭で申し上げたように、会社への就職活動とは全く異なりますから、まさしく十人十色、一人ひとりに独自の物語が存在します。そして多くの場合、召命の道程は、人間が考え計画した通りには進まないことが多いのです。
以下は省略します。続きは、https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/?fbclid=IwAR3c11UmgCa6Bcdppo9Hq3D2yJpxy2y0UdP8OLpklznP-4zxywOVkHXnb4E にあります。

キリスト教のカトリックでは日曜日だけでなく毎日、朝か夕にミサがあります。
プロテスタント諸派の礼拝は日曜日だけの宗派が多いです。
皆さまは教養としてキリスト教をお存知と思います。しかし信仰の実態を知るには礼拝やミサの内容を理解するのが良いと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本民族とは?(4)排他的な本質は敗戦でも変わらない民族」

2020年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム
誤解の無いように始めに強調いたしますが、私は排他的な文化が悪いと非難する意図が毛頭ありません。
日本人はその排他性のお陰で日本古来の輝かしい伝統文化を守り、平和に暮らして来られたのです。ですから排他性は良い側面も有していることを始めに強調したいのです。
しかし島国に住む日本民族は大陸に住む中国人や朝鮮半島の民族と考え方が違います。ユーラシア大陸に住むモンゴル人とも違います。
この日本民族に強くみられる排他性は、その住んでいる所が孤立した島国であるということに由来するのは明らかです。日本は絶海に浮かぶ列島からなっているのです。
ですから古くから他民族の大規模な移住もありませんでした。明治維新によって政治構造は近代国家になった後も、かたくなに他国からの移民を受け入れませんでいた。少数のアイヌ民族を除けば、日本民族は単一な民族からなる国になっているのです。
私が日本人の排他性を体験的に深く理解したのは1962年のアメリカ留学の時でした。
留学先のオハイオに落ち着いてまずアメリカの豊かさに驚愕しました。これではアメリカとの戦争で日本が勝てる訳がないと何度もしみじみと思ったのです。
それからしばらく下宿先の近所や大学の構内を見回すと、そこには実に様々な人種の人々がいたのです。
オハイオで見たのは白人と黒人の他にもインド人、メキシコ人、南米系の原住民、南太平洋系の人々など実に多くの人種が混在していて、仲良く平和に暮らしているのです。
アメリカの強みは世界中の全ての国々から移民を受け入れて来たことなのです。アメリカ人は排他的ではないのです私はつくづく日本民族は排他的な民族だと思い知ったのです。
一方、ヨーロッパの国々も排他的でないのです。ドイツに住んだことがありますが、驚いたことに、ドイツはトルコやギリシャやルーマニアなどの東欧圏から多数の移民を受け入れているのです。
中国でも多民族国家であることを宣伝材料にしているのです。共産党政権に従順な限り、イスラム教もキリスト教もチベット仏教も平等に大切にしているのです。北京に行ってみるとイスラム教徒の多数の回族徒が白い帽子をかぶり悠々と闊歩しているのです。
イスラム教のお寺も多数あります。大学には豚肉抜きの回族のための学生食堂が必ず別に作ってありました。
これで日本民族が特別に排他的な民族だとお分かりになったと思います。

この排他的な日本が太平洋戦争でアメリカに徹底的に負けてしまったのです。それは1945年のことでした。
敗けただけではなくその終戦後の6年間、全国の津々浦々をアメリカ軍が占領していたことです。
そしてさらにサンフランシスコ講和によって日本が独立した後もアメリカ軍の軍事基地が全国にあり続けているのです。戦後の75年間、日本には圧倒的な軍事力を持ったアメリカ軍を受け入れざるを得ない状態だったのです。

この状態は旧石器時代や縄文時代から始まる日本民族の歴史上、初めての大きな出来事でした。
この結果、アメリカ文化が日本に怒涛の如く流れ込んで来たのです。
アメリカ占領軍は自由と平等の民主主義に従って日本の軍国主義を徹底的に絶滅させ、アメリカ流の国にしようとしました。
日本へ男女平等の選挙権を与えました。旧制の学校制度を廃止し、6・3・3・4年の新制の学校制度に変えました。だれでも平等に教育にあずかれるようにしたのです。これらはヨーロッパのエリート教育とは違います。
さらに共産主義の影響もあって日本の地主・小作制度を廃止し農地解放を実施したのです。
人間の平等と自由を日本に行きわたらせました。人権の重要性と個人の尊厳を日本民族へ押し付けるようにして教えました。
明治維新を第一の開国で1945年の終戦を第二の開国と考えることが出来ます。これで日本民族は排他的でなくなったでしょうか?
答えは「否」です。
学校制度は大きく変わりましたが、学校では相変わらず知識を暗記させる江戸時代の寺子屋の教育を続行しています。創造性を伸ばす教育は非常に少ないのです。
そして日本は現在でも他民族の移民を厳しく禁じているのです。
日本民族の物質文化は変わりましたが、排他的な精神文化は変わらないのです。
しかし詳しく見ると、日本のなかで人間は平等だという精神はかなり普及しました。自由に自分らしい人生を送るという考え方も定着しました。そして障害者や弱者を差別しなという文化もある程度育ちました。これらはすべてアメリカ文化の影響なのです。ですから日本の精神文化もある部分は敗戦によって大きく変貌したのです。
このように日本の敗戦によってその民族文化の変わった部分もあるのです。
しかし日本民族の排他的な本質は変わらないのです。私は排他的な文化が悪いと非難する意図が毛頭ありません。しかし何故か淋しい感じがします。

今日の挿し絵がわりの写真は秋の富士山の風景です。出典は、「これぞ日本の秋」、https://yamahack.com/2825 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「昨日は美しい中秋の名月、そして韓国の秋夕のこと」

2020年10月02日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は旧暦の8月15日で美しい満月が暗い空に輝いていました。何度も満月を眺め願い事を祈りました。そばの火星も大きく見えます。
この中秋の満月を韓国では秋夕(チョソク)と呼び家族や親類が集まり満月と先祖の霊を祀り祈るのです。人々は故郷に帰るため大移動をしまます。秋夕は韓国の重要な伝統行事なのです。
それは盛大な行事で日本のお正月や中国の春節のようなものです。
今日は韓国の秋夕(チョソク)の様子をご紹介したいと思います。

1番目の写真はの写真は旧暦の8月15日(今年は新暦の10月1日)の秋夕に韓国人が満月と先祖の霊に供えるご馳走です。ご馳走の向こうに飾ってある小さい位牌のようなものが先祖の霊です。
写真の出典は、http://lifeisreallybeautiful.com/tag/south-korea/ です。
韓国では旧暦8月15日を秋夕として、その前日と翌日が公休日(祝日)となるそうです。このため、多くの企業、施設も休みとなり、帰省する者も多く交通機関が混みあいます。
先祖の墓参りをし、新米で「松片(ソンピョン)」という餅を作り、上の写真のように祖先に感謝を捧げてお供えをするのです。また知り合いと贈り物を交換します。このため英語では、コリアン・サンクスギビングデーと言うそうです。

2番目の写真は家族や親類が正装をして集まっている様子です。この後で秋夕の宴を楽しみます。
日本では月が見える場所などに、薄(すすき)を飾って月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛り、御酒を供えて月を眺めるだけです。韓国のように先祖の墓参りをしたり、家族が集まってお酒を飲みながら月見の宴をするのと比較すると随分と簡素な月見です。
尚、中国や台湾では中秋節として日本よりは盛大に祝います。中秋節は祝日となっています。月見の月餅が風物詩になっていますが先祖の供養はあまりしないようです。
月見の習慣は中国で始まりましたが、韓国や日本へ伝承されるにしたがって内容が違ってきたのです。

3番目の写真は家族や親類が一緒に墓参りをしている様子です。

4番目の写真は秋夕を祝う踊りです。日本の盆踊のような踊りです。韓国では月見の日を随分と派手に祝うのですね。出典は1番目の写真と同じです。

5番目の写真は秋夕の茶礼(チャレ)です。部屋は普通の居間です。
写真の出典は、https://www.seoulnavi.com/special/5002664 です。
秋夕当日の早朝、立派な家では先祖の霊を祀る本家に集まり、父親から高祖父まで4代の祭祀を行います。最近は先祖を祀る祠堂がない家も多く、5番目の写真のように居間や板の間で茶礼を行います。しかし終了後は供物で盛大な宴会を楽しみます。

韓国では秋夕は日本のお正月と同様に一番重要な伝統行事なのです。この様に中秋の満月の祝い方は日本と韓国は大きく違うのです。今日はそんな韓国の秋夕(チョソク)の様子をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ある聖職者から貰った個人的な手紙」

2020年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム
これはある聖職者から貰った個人的な手紙です。個人的な手紙を公表して良いものか随分迷いましたが公表することにしました。キリスト教の聖職者が偶然知り合った他人をどのように愛しているかが語られているのです。それは神とイエス・キリストの人間に対する愛です。
個人的な手紙ですが普遍的な内容の手紙です。そこで公表することにいたしました。

ある聖職者とは現在ウクライナ正教の高位の聖職者として活躍している金田一豊さんです。神田のニコライ堂で2度だけお会いした方です。この8月28日に私は金田一豊さんへ以下のような手紙を送りました。

金田一豊さま、
ご無沙汰しております。お元気でしょうか?
金田一豊さまは忘れ得ぬ方です。
それで最近、以下のような記事をブログに掲載いたしました。(記事のコピーは末尾にあります)  ご笑覧頂ければ幸せです。
主の平和が金田一豊さまと共にありますように祈っています。  シルベスター後藤和弘

この手紙に対して9月30日に金田一豊さんから以下のようなお手紙を頂きました。
====金田一豊さんからのお手紙=================

キリスト我らのうちにあり
ご無沙汰しております。お変わりはありませんか。
時折こうやって頂けるメールをうれしく思っています。
後藤さんも、僕にとってとても印象深く、忘れがたいお方です。
いつも恐縮してしまうほどの素晴らしい扱いをしていただいているので、感謝の言葉だけでは足りないと感じてしまっているほどです。
こちらこそ、いつもありがとうございます。
よく覚えていただいて、本当に有り難く思います。
いま、世の中は、政治、経済、信仰、宗教、様々なことが変わらざるを得ない状況になってしまいました。
コロナウイルスという得体の知れない魔物か怪物かが多くの場所で猛威を振るっています。
後藤さんは体調などは大丈夫でしたでしょうか。 非力ながらお祈りしています。

僕が親しくしていますユダヤ教やイスラム教の方からも、シナゴーグやモスクが閉鎖、家庭での個人祈祷、オンラインでの礼拝、となったと伺いました。
どのような宗教でも、信仰をもち祈りの生活をしている方々が追いやられてしまうような状況が現実に起こっているというのは、本当に悲しい思いです。
親しくしていますギリシャの修道師からも、知恵と祈りを本当に用いなければならないときになっている、とアドバイスを頂いています。

人生、そして信仰の大先輩であるシルベスター後藤さんからも、いろいろ教えていただければ有難いなと思っています。
どうぞ、心の片隅に僕のことを思い出すことがあれば、一言でもお祈りいただけたら嬉しく思います。
まだまだ、ウイルス、世の中、どのようになっていくかわかりませんが、御身体に気を付けてお過ごしください。
返事が遅くなり、失礼しました。
キリストにありて
主の愚弟、輔祭fr,John Kaneda
===================================
金田一豊さんとはニコライ堂で2度お会いしただけです。
しかしその偶然知り合った私をこんなにも大切にしてくれるのです。それはイエスが私を愛しているからです。宗教を信じる人々は聖職者を通して神の愛を実感する場合があります。
私は金田さんを通して神の愛を実感するのです。
その上この手紙には次のように書かれています。
「僕が親しくしていますユダヤ教やイスラム教の方からも、シナゴーグやモスクが閉鎖、家庭での個人祈祷、オンラインでの礼拝、となったと伺いました。」
金田さんはユダヤ教やイスラム教の方々ともお付き合いのある心の広い方なのです。私にも心を広く持ちなさいというメッセージのように感じます。

このように偶然お会いした人から大きな影響を受けることがあるのです。これも人生の不思議さなのです。皆様にもそんな経験があるでしょぅか?

今日の挿絵代わりの写真は尾瀬の草紅葉と、岡山県の恩原ダム湖と、志賀草津道路の渋峠の紅葉風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===========================
「偶然知り合った人が私に新しい世界を広げた」 (2020年08月25日 掲載記事)
今日は偶然知り合った人が私に新しい世界を広げた不思議な体験をご紹介いたします。
偶然知り合った人は金田一豊さんという人でした。新しい世界とはロシア正教の世界です。
それは10年くらい前に神田のニコライ堂で起きたことでした。金田一豊さんという聖職者に偶然お会いしたのです。
ニコライ堂の事務所に寄り、教義書を買おうとしたら偶然お会いしたのです。
彼は、「一度ニコライ堂の礼拝式に出席してみませんか」と私をと誘ってくれたのです。
次の日曜日、ニコライ堂へ再度行きました。当時、伝教師だった金田一豊師は実に親切に礼拝式の内容を説明してくれました。
儀式は驚くほど長時間で、10時に始まり約3時間、午後1時近くに終りました。
荘厳な合唱で進める儀式で、その合唱の芸術性には感動しましたが、堅苦しい儀式なのでカトリックの私には
疎外感と違和感があり、出席したことを多少後悔もしていました。
見上げると聖堂のあちこちにマリア様のイコンが沢山飾ってあります。そこで気楽に母の居る実家に帰った心算で居ることに決めました。
金田さんは華やか法衣を着て、主教の行列や祭壇での祈祷に聖職者として参列しています。
しかし驚いたこと金田さんが、ニコニコしながら祭壇から降りてきて私のそばに立ち親切に説明してくれました。
驚いたことに祈祷の合間に、3回も私のそばに来てくれたのです。カトリックではミサの最中に聖職者が祭壇を降りて
一般信者のそばに来ることは絶対にありません。ロシア正教の人間一人一人を大切にする雰囲気に感動しました。
そして礼拝式の後、彼は私にウクライナ出身の美しい奥さんやそのお母さんにも紹介してくださって私を
本当の友人のように受け入れてくれたのです。
帰りの電車の中で私は俄然ロシア正教に興味を持ち始めました。帰宅後いろいろ調べました。
(以下省略します)

1番目の写真は日本最大の山岳湿地を染め上げる尾瀬の草紅葉の風景です。出典は、https://www.onestory-media.jp/post/?id=2281 です。
1949年に発表された唱歌「夏の思い出」によって一躍有名となった『尾瀬』は秋の「草紅葉」も他の季節とは異なった風情があります。

2番目の写真はのどかな高原に紅葉に染まる恩原ダム湖です。出典は、https://www.onestory-media.jp/post/?id=2281 です。
岡山県と鳥取県の境、標高約700mの『恩原(おんばら)高原』に位置する『恩原ダム』がせき止められてできた『恩原湖』です。鏡面のような湖に映し出される紅葉もさることながら、足元にはカラマツの落ち葉が敷き詰められ、まるで黄金色の絨毯のようです。

3番目の写真は紅葉の平原を縫うように流れる沢や池塘が煌めく渋峠からの風景です。、
出典は、https://www.onestory-media.jp/post/?id=2281 です。
『草津白根山』と『横手山』を通過する国道292号(志賀草津道路)に位置する『渋峠』は、標高2,172mと、国道の標高では日本一の高さを誇ります。