後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「年老いて振り返る我が人生(1)出生と幼児の頃」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
私の邯鄲の夢も終わりに近づきました。そこで我が人生を振り返っていろいろなことを総括した連載記事を書くことにしました。
私は昭和11年1月18日に父の秀弘と母のタエの子として仙台で生まれました。男だけの3人兄弟の長男でした。
当時の父は東北帝国大学の教授で母は宮城県立女子専門学校の教師でした。父の実家は兵庫県の山里の曹洞宗のお寺で母の父は宮城県の宮戸島の小学校の校長をしていました。両親は仕事が忙しかったのか幼い頃遊んでもらった記憶があまりありません。
家には2人の女中がいて私と2人の弟は女中に育てられました。女中に動物園に連れていかれたことが幼児の頃の楽しい思い出です。
幼児の頃に住んでいたところは郊外の向山でした。広瀬川の南側の高台でした。
ここで戦前の仙台の駅前広場や育った向山地区にある経ケ峰や愛宕山の写真をお送り致します。写真とともに幼児の頃のいろいろを書きました。

1番目の写真は戦前の仙台駅の風景です。右の方に客待ちの人力車が並んでいます。女中に抱かれて人力車に乗った記憶があります。タクシーには滅多に乗りませんでした。
2番目の写真は戦前の仙台の繁華街の東一番丁の風景です。子供の頃は用もないのにブラブラ歩いたものです。
3番目の写真は高台の青葉城跡から見た経ケ峰です。伊達政宗の霊廟の瑞鳳殿と瑞鳳寺があります。経ケ峰の手前の広場に昔は仙台動物園がありました。
4番目の写真は瑞鳳寺から霊廟の瑞鳳殿に登って行く石の階段です。
5番目の写真は瑞鳳寺です。昔は幼稚園も経営していました。私が通った幼稚園です。しかし3日目に辞めた幼稚園でした。2人の女中に甘やかされて育った私には厳し過ぎたのです。人生最初の挫折でした。
6番目の写真は愛宕山です。手前は広瀬川で愛宕山の向こう側に住んでいました。山頂の愛宕神社の祭礼は楽しい思い出です。
7番目の写真は仙台の広瀬川と 評定河原から見た経ケ峰(左)と青葉城跡(右)です。

さて今日は「年老いて振り返る我が人生」の(1)として出生と幼児の頃のいろいろを書きました。戦前の仙台の写真や育った向山地区にある経ケ峰や愛宕山の写真をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「カトリック幟町教会の今日のミサの動画配信」

2024年11月24日 | 日記
カトリック幟町教会の今日のミサの動画配信です。

今日は年間第34日の主日です。今日のミサの動画配信は下記です。

第1朗読 ダニエル書 7章13~14節 
第2朗読 ヨハネの黙示録 1章5~8節 
福音朗読 ヨハネによる福音書 18章33b~37節

カトリック幟町教会
広島県広島市中区幟町4-42 

写真は長崎の大浦天主堂です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「蔵王山の美しい樹氷の写真」

2024年11月23日 | 写真
仙台で生まれ育った私は何度も蔵王山の樹氷の間でスキーをしたことがあります。
当時は仙山線で山形駅に行き、そこからバスで高湯温泉(現在の蔵王温泉)に上がりました。高湯温泉からはスキーを履いてドッコ沼の山小屋に逗留するのです。
ドッコ沼の上の懺悔坂から地蔵岳までが樹氷地帯なのです。地蔵からの帰りは急坂の懺悔坂は怖いので、なだらかな大平コースを下ります。夕日を浴びた茜色の樹氷の光景が今でも私の網膜に焼き付いています。
あれから茫々60年以上も経ちました。
毎年、今頃になると懺悔坂の怖さと夕日の樹氷の姿を思い出します。
今日は皆様に蔵王山の美しい樹氷の写真をお楽しみ頂きたいと思います。
お送りする写真は「 山形蔵王の樹氷写真集」、http://www.asahi-net.or.jp/~EH5W-KRD/zao/photo.htm からお借りしました。
これらの写真のはじめの2枚が樹氷の写真で3番目の写真は霧氷と言い出来る過程がまったく違います。
霧氷は文字通り霧が枝に氷りついたもので寒い場所なら何処でも出来ます。
4枚目は蔵王の頂上にある噴火口、「お釜」と這い松に出来た一種の樹氷です。這い松に出来たものは樹氷とは言わず、当時は「しゅかぶら」と呼んでいました。
樹氷は蔵王山と八幡平にしか見ることが出来ません。特殊な気象条件が必要なのです。

今日の樹氷の写真では樹氷が雪をかぶっています。雪をかぶった樹氷は不思議な恰好をしています。

蔵王山の美しい樹氷の写真をお楽しみ頂きたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「昔の日本の冬は貧しくて寒かった」

2024年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、東京も寒さが一段と厳しくなって来ました。毎年2月になると私が住んでいる小金井にも雪が降ります。
私は北国の仙台に生まれ育ったので雪の坂道で橇遊びや竹スキーをしました。雪が懐かしいです。そこで小金井公園の雪景色の以前の写真をお送り致します。小金井公園が雪で埋もれています。
1番目の写真は雪で覆われた「みんなの広場」の風景です。
2番目の写真は3人の若者が雪達磨を作って遊んでいる風景です。写真を撮っている家内へ自分達はカナダから来てスノウマン造りのプロだと言ったそうです。
3番目の写真は家内がジョギングしている風景です。
毎年寒くなると戦前、戦後のころに過ごした仙台の冬の日々を思い出します。
当時は日本中が貧しくて、ひもじくて冬の寒さが一層厳しく感じられたのものです。家の暖房といえば火鉢の小さな炭火と練炭コタツしか無いのです。その上、外と家の中を仕切るガラス戸の立て付けが悪くて隙間風が入って来ました。
吹雪の夜に寝ていると枕もとまで雪片が入ってきたものです。
現在の日本の家はガスストーブや電気ストーブやエアコン暖房で温められていて冬の寒さなど怖くありません。
しかし時々は昔の冬の寒さを思い出した方が良いのではないでしょうか?
その冬の寒さを考えると春の有難味が一層深くなります。四季のあることに感謝したくなります。日本に生まれた幸せをしみじみと感謝します。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「遥かな秘境のチベットの紅葉の風景」

2024年11月22日 | 写真
チベットは遥かな憧れの地です。その紅葉の風景はどうでしょう。インターネット上の写真から選んでチベットの紅葉の風景の写真をお送り致します。写真の出典は、https://jp.trip.com/travel-guide/attraction/lhasa/norbulingka-75937?rankingId=10070100003151&curr=JPY&locale=ja-JP&tagId=254015 です。




「会津磐梯山と猪苗代湖の紅葉の写真」

2024年11月22日 | 写真
磐梯山は1888年(明治21年)7月15日に水蒸気爆発しました。山体崩壊を起こし発生した爆風と岩屑なだれにより北麓の5つの村の11集落が埋没する被害が出ました。そして477人の死者を出しました。
この噴火は明治になってからの近代日本初の大災害です。
現在は会津磐梯山と猪苗代湖はすっかり静かになり明治21年の大災害も忘れられています。
私の大学時代の友人の星野君が大きなキャビン付きのヨットを猪苗代湖に係留していました。そのお陰で何度か猪苗代湖でセイリングを楽しみました。磐梯山が碧く輝いていました。懐かしい風景です。
写真の出典は、https://imagenavi.jp/search/detail.asp?id=70273505 です。

「我が故郷の山、蔵王山の紅葉の写真」

2024年11月22日 | 写真
今日ははじめに室生犀星の詩をお送り致します。 
「故郷」
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの

よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや

こんな詩を思いながら我が故郷の山、蔵王山の宮城県側の紅葉の写真をお送りいたします。「蔵王山の紅葉の写真」を検索して選んだ写真です。



「年老いて懐かしく想う鎌倉の海とヨットのある風景」

2024年11月21日 | 写真
昔は鎌倉や葉山の海によく遊びに行ったものです。時々葉山マリーナからヨットに乗って海へ出ました。年老いて懐かしく想うのは鎌倉の海とヨットのある風景です。
そんな懐かしい風景を撮った昔の写真です。2番目の写真は鎌倉の海辺を家内が走っている光景です。


「懐かしい湘南の海の風景」

2024年11月21日 | 写真
小生の住んでいる所は海からかなり内陸に入った場所にあります。
50歳くらいから25年間、趣味にしていたヨットを随分前に止めましたが、時々、湘南の海やヨットの姿が懐かしく思い出します。
そこである時三浦半島への小さな旅をしました。
東名を横浜で出て、16号線を南下し、横横道路で三浦半島に入ります。
佐島の手前で三崎のマグロを売っていたので、三崎港まで行かないで佐島湾に入りました。地魚料理の店で昼食を食べ、佐島マリーナに寄ってヨットの美しい姿の写真を撮りました。
マリーナの中に整然と舫っている光景は良いものです。しかし漁港の沖に係留している姿も、何とも言えない風情があり美しいものです。
そんな写真をお送りたします。
なお佐島には地魚料理の専門店が3軒あり、その他に朝取れた地魚を売っている店が3軒あります。車載冷蔵庫を積んで行くと珍しい地魚が買えます。

「仙台の近くの荒浜、菖蒲田浜、桂島や宮戸島の思い出」

2024年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
昔はテレビも無く娯楽と言えばハイキングや海水浴だけでした。そこで海水浴の思い出を書いてみようと思います。
戦前戦後の貧しかった時代の夏の楽しみは近くの浜で海水浴をすることだったのです。
私の幼い頃は仙台でしたので海水浴と言えば仙台から近い荒浜か菖蒲田浜でした。とにかく夏になると何度も行きました。少し遠方では松島湾の桂島や宮古島へ行ったこともあります。
足が焼けるような砂浜を歩いて波打ち際に立つと冷たい透明な海水が足を洗い、心地良いものでした。
そんな話を朝食の時にしましたら、家内は自宅から歩いて何度も海水浴に行ったと云います。鎌倉の加賀様の別荘の下に家があったので松林を抜けて由比ヶ浜に出たそうです。
夏の日の楽しい思い出は人それぞれ沢山あると思います。
裏の林に入って蝉を取ったり、近所の小川で魚を追ったりした思い出がある方も多いと思います。
あるいは夜に怪談を聞き、暗い墓地へ行く「肝試し」を懐かしく思う人もいます。
そして花火です。昔は線香花火を丁寧に持って、パチパチと火花を咲かせたものです。以前は街灯が無くて夜が暗かったので線香花火でも大きく美しく見えたのです。
そして夏の果物と言えばスイカとマクワウリです。
スイカを網に入れ、深い井戸に吊るして沈めるのです。夜になって家族がそろったらスイカを引き上げて、切り分けて食べるのです。甘い淡い香りとあのみずみずしさが忘れられません。ところで最近はマクワウリという果物がなくなってしまいました。小さい枕のようにひょろ長いウリです。これも井戸水で冷やして食べます。中心の種の部分にある綿がほのかに甘くて美味しいのです。味は現在よく売っているアンデスメロンに似ていますが甘味はもっと薄かったです。
夏は子供にとっては天国です。夏休みが長いうえに、親たちもお盆のころ休暇をとり、よく家族旅行に行きます。家族旅行といっても海外旅行ではありません。近くの山に登ったり、温泉地へのせいぜいに一泊の旅です。それが滅法楽しかったのです。田舎の祖父母の家へ帰省するのが嬉しかったものです。
夜になると、現在は無くなりましたが蚊帳というものを吊ります。蚊帳に入ったり出たりして遊んだものでした。
そして家には網戸などありませんから蚊は出入り自由です。キンチョーの渦巻き形の蚊取り線香の煙の匂いが懐かしいです。
それにしても昔は冷房装置など無かったのです。しかし暑苦しくで困ったという記憶がないのです。夏になると楽しかった子供のころをいろいろ思い出します。
しかし楽しい思い出だけではありません。夏の大空襲で仙台市が一面の火の海になった光景を思い出します。そして、じりじり照りつける太陽の下で玉音放送を聞いたことも忘れません。

年老いた現在は楽しいことを思い出します。そして想います。家庭の事情で夏も働かなければならなかった人々を。

今日の挿絵の写真は以前に海水浴に行った所の現在の写真です。みな昔海水浴に通った場所です。

さて皆様はどうのような楽しい夏の思い出をお持ちでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は宮城県宮戸島の遠景です。
2番目の写真は宮城県菖蒲田浜です。

3番目の写真は松島湾の桂島の海水浴場です。
4番目の写真はは宮城県宮戸島の月浜の写真です。