おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

汐見坂。江戸見坂。霊南坂。菊池寛実記念 智美術館。・・・(虎ノ門~麻布台の坂。その1。)

2015-06-14 17:54:43 | 都内の坂めぐり

 5月18日(月)午後。約2時間の探索。最寄り駅では「溜池山王」~「六本木一丁目」~「麻布十番」。地域では、首都高都心環状線が頭上を覆う「国道1号線」の東側、「桜田通り」との間。
 この地域は「アメリカ大使館」、「ロシア大使館」、「スペイン大使館」などの大使館や「ホテルオークラ東京」、「アークヒルズ」、「サントリーホール」など文化施設の立ち並ぶ区域。その建物群の間を縫いながらの坂道探訪です。

 ちょっと遅くなりましたが、その報告。

 なお、坂道探訪には、

 

 」HPを参考にしています。

 この辺り、よくよく考えてみたら、頭上は「首都高」で、いつも通る道筋。「谷町Jct」、「一の橋Jct」・・・、下の街を見る余裕もないが、たしかに見覚えのあるビルが建ち並ぶ景色。そのところを歩いたわけです。

 「溜池山王」駅から「六本木通り」に出て、「榎坂」を上がり、「汐見坂」に向かいましたが、その付近から物々しい雰囲気。防護柵(バリケード)が道の半分近くをふさぎ、歩道も通行不可。機動隊員ががっちりガード。右手に「アメリカ大使館」。そのため、周囲は厳重な警戒態勢。まさに現代の「見附」。

反対側の歩道を上って行くと、「汐見坂」。

汐見坂
 江戸時代中期以前には海が眺望できた坂である。南側に松平大和守(幕末に川越藩)邸があって、大和坂ともいった。

 右手が「ホテルオークラ」左手が「国立印刷局」。

東側から坂を見る。

「ホテルオークラ」を過ぎて、右に折れると「江戸見坂」。



江戸見坂
 江戸の中心部に市街が開けて以来、その大半を眺望することできたために名づけられた坂である。

    
             「ホテルオークラ」の敷地をぐるりと取り囲むように進む、けっこう急な坂道。

     
              坂を上り詰めた左手にあるのが、「菊池寛実記念 智美術館」。



 菊池寛実記念 智美術館(きくちかんじつきねん ともびじゅつかん)は、現代陶芸のコレクターである菊池智(とも)が長年にわたり蒐集してきた現代陶芸のコレクションの一般公開、関連事業による現代陶芸の普及、および陶芸作家や研究者の育成を目的とし、2003年4月に東京・虎ノ門に開館いたしました。
 美術館はホテル・オークラのすぐ近くの虎ノ門の高台に立つライム・ストーンの外壁をもつ西久保ビルの地下1階にあります。西久保ビルという名称は中世の時代に西久保城があったことに由来しています。敷地内には、西久保ビル(2003年竣工)と大正時代に建てられた西洋館(国の登録文化財)、智の父でありこの地を拠点として活動した実業家・菊池寛実(かんじつ)のための持仏堂と和風の蔵が、百年ほどの歴史のある庭を囲んで都心の中に独特な空間を構成し、隠れ家的な雰囲気を醸しだしています。
 当館は設立者である菊池智の美意識を一貫して反映させた個性的な空間としてもお楽しみいただけます。1階の受付から螺旋階段をくだりながら空間はいつしか日常から非日常へとうつり変わり、地下1階の展示室では暗がりのなかから作品が1点ずつスポットライトを浴びて姿をあらわします。それはまるで、作品を見ながら自分と作品とが対話を交わすようであり、それこそが彼女がこれまで考えてきた、美しい作品と出会い、作家の思いを受けとめるための理想の場と言えるのかもしれません。
 智美術館は、開館以来、「藤本能道(ふじもとよしみち)展」「十五代樂吉左衞門展」「小池頌子展」をはじめ、さまざまな企画展を開催してまいりました。隔年ごとに開催予定の「菊池ビエンナーレ」や「智美術館大賞 現代の茶陶―造形の自由・見立ての美」も、展覧会事業の一環を担う企画として育ちつつあります。陶芸の枠にとどまらず、現代工芸の発信地となるべく活動を続けていきますが、どうぞ皆様におかれましては当館をご愛顧いただきますようお願い申し上げます。

        螺旋階段
 1階の玄関ホールと地下の展示室を結ぶ螺旋階段室は菊池智のアイデアがもっとも生きている空間です。壁面には銀の和紙がはられ、その上に書家の篠田桃紅氏の「いろは歌」の料紙が「真・行・草」の漢字をかたどったコラージュ作品としてほどこされています。ガラスの手摺りはガラス作家の横山尚人氏によるものです。天井からの光を受けて宝石のように輝き、美しい曲線を描いています。

(「菊池寛実記念 智見術館」HPより)

 ぜひ入ってみたいところですが、あいにく休館日(月曜日)でした。

右手角に「大蔵集古館」。

 明治から大正期にかけて大きな財をなした実業家大倉喜八郎が、長年に亘って収集した古美術・典籍類を収蔵・展示するため、1917年(大正6年)に財団法人大倉集古館として大倉邸の敷地の一角に開館したもので、日本最初の私立美術館である。開館からまもない1923年(大正12年)、関東大震災によって当時の展示館と一部の展示品を失い、一時休館を余儀なくされた。
 1928年(昭和2年)、建築家伊東忠太の設計による耐震耐火の中国風の展示館が完成し、翌年再開館した。その後昭和30年代にホテルオークラ東京の建設のため一部の建物が解体された。解体前の建築は現存する展示館から長い回廊が伸び六角堂を経て表門に至る壮大な建築であった。喜八郎の子大倉喜七郎も近代日本画などの収集品を館に寄贈している。
 日本・東洋の絵画、書跡、彫刻、陶磁器、漆工、金工、刀剣、能面、能装束、考古遺物など約2,500点と中国の古典籍(漢籍)約1,000部を所蔵し、年間5回ほどの企画展を開催している。
 2015年(平成27年)9月より開始されるホテルオークラ東京本館の建て替えに伴う施設改修工事のため、2014年(平成26年)4月より長期休館している。再開は2018年(平成30年)の予定。(以上「Wikipedia」参照)

 その角を右に曲がると、「霊南坂」。左手が「アメリカ大使館」のため、坂道の両側は機動隊員が警戒中。キョロキョロ歩き、写真でも撮っていると、すぐ尋問を受けそうな雰囲気。
 ところが、「霊南坂」の標示は「アメリカ大使館」側の歩道に。そこはバリケードがあって立ち入り禁止。
 道路越しに「大使館」側で警備に当たる若い機動隊員に大声でわけを話す。
 バリケードをずらし、通してもらって撮った写真がこれ。

「そういう目的ならばいいですよ」
「ただし、大使館側は撮さないで下さい」
「他のお固い人だとダメだったかもしれませんよ」・・・。

    

霊南坂
 江戸時代のはじめ高輪の東禅寺が嶺南庵としてここにあり、開山嶺南和尚の名をとったが、いつしか「嶺」が「霊」となった。 

    
 坂の途中から坂上を望む。                    坂上から坂下。

 坂の途中、左手に「ホテルオークラ」正面玄関に通じる広い出入口。現在の純日本調の建物は、今年8月いっぱいで営業を終え、19年春に地上38階建てとして生まれ変わることになるらしい。
 坂を上りきって右に折れると、左手には「霊南坂教会」。1980年に山口百恵と三浦友和が結婚式を挙げたことで知られる。

その向かい側は「陽泉寺」などいくつかお寺が昔のままに。



     1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 ←が「江戸見坂」。南側一帯に江戸の街が広がっている。→が「霊南坂」。○が「ホテルオークラ」の現敷地。中央・北付近が現「アメリカ大使館」にあたる。
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「三丁目坂」。「鉄砲坂」。「鳥尾坂」。「七丁目坂」。・・・(関口・目白台の坂。その4。)

2015-04-20 20:38:00 | 都内の坂めぐり

 「護国寺」前からまっすぐ南に伸びる、広い道が「音羽通り」。かつては長くて賑やかな門前町を形成していました。今も、「講談社」をはじめ、活気のある道筋になっています。
 さて、その「音羽通り」(音羽谷)から目白台へ向けて、東から西への坂道が並行していくつかあります。

 「三丁目坂」、「鉄砲坂」、「鳥尾坂」、「七丁目坂」、「目白新坂」、「目白坂」(北から南の順)。それらの探訪です。
 



 1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 「三丁目坂」、「鉄砲坂」、「七丁目坂」、「目白坂」等が表示されています。まっすぐの広い道が「音羽通り」。その西側の直線道路も現在もそのまま存在しています。通りの東、西(目白台、小日向台)の台地沿いにそれぞれ「弦巻川」、「音羽川」がありましたが、現存しません(「弦巻川」は、首都高、「音羽川」は道路となっています)。

 「音羽通り」の北から南へ進んでいきます。「音羽通り」は、将軍が伴揃え1000名以上を引き連れて護国寺へ参詣する御成道でした。1丁目から9丁目までありました。
 どっしりとした大きな「講談社」を右手に見て、「大塚警察署前」の信号で右折すると「三丁目坂」。「大塚警察署」そのものは改築中。

    

三丁目坂

 旧音羽三丁目から、西の方目白台に上る坂ということで三丁目坂とよばれた。
 坂下の高速道路5号線の下には、かつて弦巻川が流れていて、三丁目橋(雑三橋)がかかっていた。
 音羽町は江戸時代の奥女中音羽の屋敷地で、『新撰東京名所図会』は、「元禄12年護国寺の領となり町家を起せしに、享保8年之を廃し、又徳川氏より町家を再建し、その家作を奥女中音羽といへるものに与へしより町名となれり。」と記している。

 文京区教育委員会  昭和53年3月

 坂下を望む。正面は首都高の橋脚。
                          急坂で、首都高をくぐると、右に上っていく。

 坂下に戻り、首都高をくぐり、最初の道(音羽通りの一本西側にある通り)を左折します。江戸時代からの脇道で、当時のまま南北に通じています。
 


 しばらく進み、2本目を右折すると、「鉄砲坂」の上り。

    

鉄砲坂(てっぽうざか)

 この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。坂下の東京音楽学校学生寮のあたりは、江戸時代には崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。その近くの坂をいうことで「鉄砲坂」とよばれるようになった。

 文京区教育委員会  平成8年3月

    
                           石垣沿いの急坂。

坂上から東を望む。

 けっこう昔風の趣のある坂道。女子大生がさっさと下って行きました。

    
       「音羽通り」西側の脇道。左の写真は北方向、右は南方向。 



鳥尾坂(とりおざか)

 この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は独協学園、右側は東京カテドラル聖マリア大聖堂である。
 明治になって、旧関口町92番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。北側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。
 地元の人々は鳥尾家に感謝をして「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。

 文京区教育委員会  平成9年3月


「鳥尾坂」と刻まれた石柱。

     

 けっこう長い上り坂である「鳥尾坂」を進み、「獨協高校・中学校」のところを左折します。中学生らしい明るい声が響いてきます。坂道を駆け下る元気な子供達。
 住宅街に入り、2本目を右折すると、「佐藤春夫旧居跡」。

    

 佐藤春夫(1892~1964)詩人、小説家。昭和2年から、終焉の昭和39年5月6日まで住み、詩作、創作に励んだ異国風の住居のあった地。旧居は、昭和60年、生地和歌山県新宮市に移築、保存されている。
 春夫は、明治43年上京、団子坂上の森鴎外の観潮楼向かいに下宿して、慶應義塾大学に学ぶ。与謝野鉄幹、永井荷風らに師事し、詩、小説に多くの名作を残した。文芸時評、文芸史論の評価も高い。代表作は「純情詩集」(大正10年)「田園の憂鬱」(大正8年)「晶子曼荼羅」(昭和29年)など。昭和23年、芸術院会員、昭和35年、文化勲章受章。
 上京以来、2度ほど区外にでたほかは、47年間、千駄木、向丘、本駒込などに住み、部y文京区歌の作詞者(昭和26年制定)としても親しまれてきた。
 京都府知恩院が本墓であるが、電通院にも分骨され、夫人ととも眠る。
 
 文京区教育委員会  昭和63年3月

 現在地にある建物(「佐藤・・」の表札)も外壁がユニークで、異国情緒のある建物です。

 元の道に戻り、右折してしばらく進み、左に曲がって行くと、急な下りの石段になります。ここが「七丁目坂」。一気に「音羽通り」に下って行きます。

    
    上から。                            下から。
   
    
                            坂下から望む。

 「七丁目坂」の説明板はありませんが、旧音羽7丁目と8丁目との間に出る坂なので、そのように呼ばれたようです。この坂にも急な石段。
 石段がある坂道がけっこう多い地域。台地から谷筋への坂はそれだけ急なのでしょう。

 「音羽通り」に出たら、右折します。「目白坂下」の交差点から右折して西方へ上る、広い道路が現在の「目白通り」。その坂が「目白新坂」。

    

 この坂より南にある「目白坂」に対して、明治20年代の半ば頃に新しくつくられた新道の坂なので「目白新坂」というようです。
 この道は「椿坂」ともいわれました。坂の名は「椿山」という旧跡に因んでいますが、地元の人は「新坂」とも呼んでいたようです。坂を上った左側に「椿山荘」(山縣有朋別邸跡地)があり、その先で、「目白坂」(清戸道)と合流します。

この付近の案内図。

 改めて「音羽通り」を振り返る(北の方向)。

 今回の坂道探訪。緑濃き地域あり、女子大あり、高校あり、賑やかな繁華街あり、落ち着いた住宅街あり、と変化に富んだ道筋でした。
 かなりの急坂を自転車を押して上がる人、下る人。坂道に車を駐めて工事にいそしむ人達。講義を終えて軽やかな足取りの女子大生。校庭から華やかな歓声が聞こえてくる男子中学生・・・、日々の生活に密着した雰囲気も感じました。

 「坂道」はますます奥が深いところです。歴史と文化と生活と、・・・。
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清戸坂。幽霊坂②。薬罐坂。小篠坂。・・・(関口・目白台の坂。その3。)

2015-04-19 12:59:42 | 都内の坂めぐり

 「目白通り」から「不忍通り」に向かいます。「護国寺」方面への緩やかな下り坂。この付近の「不忍通り」は「清戸坂」と呼ばれていました。

           

【標識(東京都設置)】

 目白台上の目白通りは、江戸清戸(きよと)道といった。中清戸(現清瀬市内)に御鷹場御殿があり、将軍が鷹狩に通う道が造られた。これが清戸道である。
 この清戸道から護国寺に下るわき道が清戸坂で、清戸道へ上る坂ということで坂名がつけられた。
 坂道の北側に、雑司谷清土村があったので、清土(せいど)坂とも呼ばれた。

【標識(文京区教育委員会設置)】

 延宝4年(1676年)、 御三家 尾張徳川家の御鷹場が中清戸(現清瀬市) につくられた。 将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。 これが現在の目白通りである。
 首都高速道路(5号線)護国寺出入口(護国寺側)から 目白通りに向っての広い道は、昔から“清戸道に登る坂”ということで『清戸坂』といわれた。
 江戸時代、 この坂の北側一帯は、雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地)で、坂の道に沿って雑司ヶ谷清土村百姓町があった。
 明治10年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、平田牧場と言った。 牛乳を売る小売店があり、人々が休憩した。 旗竿には、『官許の牛の乳』と假名と、ローマ字で書かれていたという。

(以上、HP参照)

 日本女子大の敷地の西側にある坂が「幽霊坂」。

 日本女子大脇の歩行者専用の道路で、目白通りに向かう坂。「幽霊坂」などというイメージは想像もつかない印象ですが、
  1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 ←Aが「幽霊坂」、↓が「本住寺」、Bが「清戸道」。

 かつては、坂道の西側にお寺の墓地があり、東側には茶畑が広がっていて、周囲が物寂しい、坂道だったことが想像されます。

右手が「日本女子大」。

    
         「幽霊坂」と「不忍通り」との角にある古風な建物。日本女子大の敷地内?

 「不忍通り」を進み、「聖ドミニコ修道院」の手前をを右折して、正面の石段を上がると、「窪田空穂終焉の地」の碑。


 窪田空穂(くぼたうつぼ)
 明治10年~昭和42年(1877~1967)。本名は通治。空穂は号。明治、大正、昭和の歌人、国文学者。
 その文筆活動は、短歌、小説、随筆、評訳と多彩であった。多数の歌集のほか、万葉集、古今集、新古今集の評訳、源氏物語の現代語訳などを著した。一方、早稲田大学教授として多くの人材を育てた。昭和16年、日本芸術院会員。昭和33年、文化功労者。
 明治45年(1912)竹早町(現・小石川5丁目)に居住して以来、文京区とのゆかりが深く、この地に46年間住み、昭和42年4月12日ここで没した。享年89歳。

 文京区教育委員会   平成7年3月

 おうちの東側にあった古木の切り株。2本ほど途中でバッサリと。

 そこから左に曲がり、突き当たりを左折すると、「薬罐坂」。

    
    南(「目白通り」方向)を望む。               北(「不忍通り」方向)を望む。 

       

薬罐坂(夜寒坂)

 江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
 やかん坂のやかんとは、野豻とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。
 この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869~1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
 この道を行きつつみやる谷こえて蒼くけぶる護国寺の屋根 (窪田空穂)

 文京区教育委員会  平成13年3月

 「薬罐坂」は、「音羽通り」をはさんで東側の小日向台にもありました。同じように物寂しいところだったようです。

「夜寒坂ムーンリッツ」。
 地図上では「夜寒桜ムーンリッツ」とあります。賃貸住宅のようです。

「不忍通り」から望む。

 「不忍通り」を「護国寺」方向に下って行きます。この辺りは「旧雑司ヶ谷町」。「雑司ヶ谷」は豊島区、文京区にまたがった広い地域でした。



 「不忍通り」の北側にある「トヨタ東京カローラ」の方に渡って、首都高速池袋線の下をくぐって護国寺方向に出ます。

    
                                   高速道路の下、池袋へ向かう道が「小篠坂」。
 

             

小篠坂(小笹坂)

 豊島区と境を接する坂である。この坂道は、江戸のころ、護国寺の北西に隣りあってあった幕府の御鷹部屋御用屋敷から、坂下の本浄寺(豊島区雑司が谷)に下る坂として新しく開かれた。往時は笹が生い繁っていたことから、この名がついたものであろう。
 坂下一帯は、文京の区域を含めて、住居表示改正まで、雑司が谷町とよばれていた。近くの目白台に長く住んだ『窪田空穂』は、次のようによんでいる。
  雑司が谷 繁き木立に降る雨の
        降りつのりきて 音の重しも

 文京区教育委員会  平成元年3月 

    
  池袋方向(豊島区側)「を望む。               南側(文京区側)を望む。

 「不忍通り」に戻ってさせしてしばらく行くと、「護国寺」前に出ます。


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幽霊坂①。豊坂。小布施坂。日無坂。・・・(関口・目白台の坂。その2。)

2015-04-18 20:25:23 | 都内の坂めぐり

 「目白通り」を左折し、「和敬塾」と「目白台運動公園」の間の坂を下ります。「目白通り」をはさんで、この付近をかつては「高田老松町」といいました。
 
「旧町名案内」。

 旧高田老松町 (昭和41年までの町名)

 明治5年、高田四ッ谷町の内と高田四ッ谷下町を併せ、さらに旧土井能登守(越前大野藩・6万石)、小笠原信濃守(播磨安志藩・1万石)、細川越中守(肥後熊本藩・54万石)の下屋敷と武家地を合併した。そして、町名を高田老松町とした。
 旧高田老松町76番地の細川邸の門前に、昔、2株のの老松があり、鶴亀松といった。左手の松は見上げるように高くて鶴の松といい、右手の松はやや低く平なのを亀の松と呼んだ。
 町名は、この縁起のよい老松からとったといわれる。鶴の方は明治38年頃枯れ、亀の松は昭和8年に枯れた。

 両側を高い壁で囲まれた坂道。「幽霊坂」。

    
 細い坂道。                            坂下から見上げる。

 「幽霊坂」はこの地域には2つありますが、そのうちの一つ。「目白台運動公園」と「和敬塾」との間にあります。昼でも暗く、おそらく幽霊でも出そうだということで付けられたのでしょう。(「和敬塾」の寮生達が名付けたのかも知れません。)
 この坂は、戦後、細川家で整備した私道だそうで、「新江戸川公園」(旧細川邸・庭園)へ通じる坂。

新江戸川公園。

 公園は回遊式泉水庭園で、園内にある湧水や背後の台地の起伏を生かしたつくりで、都会の喧噪を忘れさせる情緒があります。

門から入ると、目の前に大泉水への視界が開ける。広がりのある池と背後の高台の森を山並みに見立てている。

 公園の角を右折して、文京区と豊島区の区界になっている通りを西に向かいます。

    
 左手が文京区、右手が豊島区。この付近では、豊島区が切っ先のように入り込んでいる地域。

 「目白台保育園」の二つ先の道を右に入ると、「豊坂」への道。

坂の途中から振り返って望む。

    
 
 豊坂(とよさか)

 坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳正の下屋敷で、明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。
 目白台に住んだ大町桂月は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、次のように述べている。
「目白台に上がれば、女子大学校」程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
 坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を合わせて流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素掘りで通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。

 文京区教育委員会  平成12年3月

「旧町名案内・高田豊川町」。

 急角度で左に曲がり、すぐ右に折れながら上って行きます。 

    
 坂の上から望む。この急坂をタクシーなどが下ってくるので、要注意。上がると、右手に日本女子大附属幼稚園。

 「目白通り」に出て、左折し、「日本女子大附属豊明小学校」の先を左折すると、「小布施坂」にさしかかります。

       

小布施坂(こぶせざか)

 江戸時代、鳥羽藩主稲垣摂津守の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主大岡主膳正の下屋敷の境の野良道を、宝暦11年(1761)に新道として開いた。その道がこの坂である。
 坂の名は、明治時代に株式の仲買で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたり一帯にあったので、この人の名がとられた。古い坂であるが、その名は明治のものである。

 文京区教育委員会  昭和63年3月

                  

途中、石段になって下って行く。

 けっこう長い坂を下りきって突き当たりを右折、さらに一本目の細い道を右折して、住宅の間を上って行くと、「日無坂」。
 この細い道が文京区と豊島区との区界となっています。

右が「文京区」、左が「豊島区」。

 道はますます細くなって、上りの石段になります。

    
                                   坂上から望む。右が「豊島区」、左が「文京区」。

 明治時代には、この道を境にして、西が豊多摩郡(東京市外)でした。この付近の「不忍通り」の北側地域で、豊島区と文京区の区界がかなり入り組んでいるのも、その時の名残り(市内と市外の区分け)です。

 坂上で、「富士見坂」と合流します。

左が「日無坂」、右が「富士見坂」。

「富士見坂」(豊島区)。

 「富士見坂」との合流地点から見るとなかなか趣のある風情の和風つくりの家と遠くまで直線で下る坂の向こうには、新宿の高層ビル街。なかなか見事な景観をつくりだしています。「富士見坂」からは富士山は見えないそうですが。

          
           上からA「富士見坂」、B「日無坂」、C「小布施坂」、D「豊坂」、E「幽霊坂」、F「胸突坂」。
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目白坂。胸突坂。・・・(関口・目白台の坂。その1。)

2015-04-17 20:12:31 | 都内の坂めぐり

 久々の晴れ間。地下鉄「江戸川橋」駅スタートで、ぐるっと回って再び「江戸川橋」駅へ。約2時間、そして約15,000歩の上り下りでした。
 「神田川」沿いの桜もすっかり葉桜になってしまった4月16日。

 「目白坂」から「胸突坂」、「豊坂」・・・。
 前回訪れた「小日向の坂」と「音羽通り」をはさんで西側の坂めぐり。「小日向台」に対して、「関口台」「目白台」ということになります。

 なお、今回は、山野勝さん著『江戸と東京の坂』(2011年発刊・日本文芸社)をもとにしての探索です。




 1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓Aが「目白坂」、←Bが「音羽通り」。中央の流れが「神田川(江戸川)」。「神田川」の北側沿いは現在は「江戸川公園」になっている。

    


目白坂

 西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道路を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急に下るようになる。
 この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。
 そもそも三代将軍家光が特に「目白」の号を授けことに由来するとある。坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
 かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。

   目白台の空を真北に渡る雁 稀に見る雁の四五十かも 窪田空穂(1877―1967)

 文京区教育委員会 昭和63年3月

    けっこう急な上り坂。

              

清戸道

 神田川に架かる江戸川橋(現東京都文京区関口付近)を江戸側の起点とし、そこから北西へ約5~6里(約20~24km)の武蔵国多摩郡清戸(上清戸村、中清戸村、下清戸村、清戸下宿。現東京都清瀬市上清戸、中清戸、下清戸、下宿付近)との間を結んでいたとされる。
 成立の経緯は明らかではない。江戸時代に尾張藩の鷹場が清戸にあり、そこへ鷹狩に向かう尾張藩主が通ったといわれているが、それよりも、農村であった清戸から、市場である江戸への農産物の輸送路としての役割が大きかった。5~6里という距離は当時徒歩で1日で往復できる範囲であり、清戸の農民は早暁、野菜等の農産物を背にかついだり荷車に積んだりして出発。江戸に着いたらそれらを市場や町家で売りさばき、また野菜栽培に欠かせない下肥を町家で汲み取り、それらを持って夕方には村へ帰ってこれたものと推測される。これに沿道の豊島郡練馬村(現東京都練馬区)などから練馬大根をはじめとする農産物の輸送も加わり、そうした往来から自然発生的に道が成立したものと考えられている。
 1918年(大正7年)度に行われた1時間平均交通量の調査で、清戸道は中山道に次ぎ、川越街道(国道254号)よりも多かった。

 清戸道の経路
 神田川・江戸川橋(東京都文京区関口)-(東京都道8号千代田練馬田無線)-(目白坂下南交差点)-目白坂-(椿山荘前付近)-(「目白通り」)-(目白台二丁目交差点)-(豊島区南長崎3丁目付近・南長崎交番)-(南長崎郵便局)-(豊島区南長崎6丁目付近)-千川上水沿い(「千川通り」)-(練馬区・豊玉北六丁目交差点)-(「目白通り」)-(練馬区向山4丁目付近)-(練馬中入口交差点)-石神井川・道楽橋-(練馬福祉会館前交差点)-(「目白通り」)-(谷原交差点・富士街道(ふじ大山道)と交差)-(東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線)-(練馬区西大泉・四面塔稲荷前交差点)

 なお、目白台二丁目交差点で「目白通り」に接続する「不忍通り」の坂道は「清戸坂」と呼ばれ、「清戸道へ上がる坂」がその由来となっている。

(以上、「Wikipedia」参照)

 「目白坂」をそのまま上り詰めると、「椿山荘」の前を通り、「目白通り」に合流します。が、「関口台町小学校」の手前で左折して道なりに進むと、「江戸川公園」の上に出ます。

    

 江戸時代には大洗堰が築かれ、「神田上水」との分岐点になっていた「大滝橋」付近の公園。このあたりは、すでに掲載済み。


 以下、一部再掲。



 神田上水取水口大洗堰跡

 徳川家康の江戸入り(天正18年―1590)の直後、井の頭池から発する流れに、善福寺池、妙正寺池の流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。
 大洗堰で水は二分されて分水は江戸川に落とし、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。一つは内堀内の大名屋敷に給水し、他の一つは本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。
 大正末年には水質、水量とも悪くなり、昭和8年に取水口はふさがれた。
 上水道として最も古い神田上水の、取水口である大洗堰の跡は永く歴史に残したいものである。

 文京区教育委員会 昭和62年3月

「大滝橋」より「江戸川(神田川)」上流を望む。

    
   「堰」の遺構の一部。

 神田上水取水口の石柱

 ・・・関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下の水道で、神田、日本橋方面に給水した。
 この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落」と呼ばれた板をはめこむための石柱が設けられた。ここにある石柱は、当時のもので、昭和8年大洗堰の廃止に寄り撤去されたものを移した。なお、上水にとり入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川へ流された。 昭和58年3月 文京区役所

    

 かつて、この地には神田上水の堰があり、古来より風光明媚な江戸名所として知られていました。上水の工事には俳人松尾芭蕉も関与し、その旧居(芭蕉庵)は400㍍程上流に復元されています。
 大正8年、東京市はこの地を江戸川公園として整備し、史跡(大洗堰)の保存に努めましたが、昭和12年になり江戸川(神田川)の改修により失われたので、翌年、堰の部材を再利用して、由来碑を建てました。
 左の碑文はその文面です。由来碑はすでに失われましたが、近年、この碑文のみが見つかりましたので、ここに設置しました。平成3年3月 文京区役所

(以上、2013/10掲載文より)

 公園を出て、神田川沿いの遊歩道を上流に進みます。右手が「椿山荘」。



    
                    「関口芭蕉庵」(「椿山荘」と一緒に紹介済。2014・6・11。)。

こじんまりと、風情のある「芭蕉庵」の庭。


 「関口芭蕉庵」のすぐ西側にある急坂が「胸突坂」。

    

胸突坂
 
 目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永清文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる、東は関口芭蕉庵である。
 坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
 ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人びとの苦労がしのばれる。

 文京区教育委員会 平成10年3月

 但し、1880年頃は、「胸突坂」(→A)と「駒塚橋」(←B)との位置関係は異なっています。「駒塚橋」は、「江戸川橋」以外では数少ない「神田川」の架かる橋でした。


 (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 また、この辺りは文京区、豊島区、新宿区の区界が複雑に入り組んでいますが、「神田川」の旧河川時代の流れに沿って区界が成立しているためです。

かなりの急坂。胸突き八丁。

  
          自転車を押して下る青年の姿がたちまち視界から消える。

 坂道は「目白通り」まで続きます。その途中の左には、「永青文庫」、右手には「蕉雨園」。その先の右手は「和敬塾」本館。

    

 「永青文庫」
 日本・東洋の古美術を中心とした美術館で、旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の収集品などを収蔵し、展示、研究を行っている。

 「蕉雨園」
 田中光顕邸(1897年築)。1919年、田中光顕はこの邸宅を渡辺治右衛門(渡辺銀行総裁)に譲り、その後、1932年に講談社創業者の野間清治が購入。現在は講談社の所有。

「和敬塾」。


1880年代のようす(「同」より)。
 西側の○が「細川邸」(現 新江戸川公園・永青文庫・和敬塾)、東側の○が「山縣邸」(現 椿山荘)、↑が「芭蕉庵」。「胸突坂」がその西側。
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藤坂。釈迦坂。茗荷坂。環三通り桜並木。・・・(小日向の坂。その4。)

2015-04-06 19:12:18 | 都内の坂めぐり

 「蛙坂」を下ると、十字路。丸の内線のガードが2ヶ所ある。右折してガードをくぐると、伝明寺。その手前の坂道が、「藤坂」。「富士坂」とも「禿坂」とも呼ばれる。

    
    右手が「藤寺」。                         坂上から。

 藤坂 (ふじざか)

【標識(文京区教育委員会)】

 「藤坂は箪笥町より茗荷谷へ下るの坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり、」(『改撰江戸志』)藤寺とは坂下の曹洞宗伝明寺である。
 『東京名所図会』には、寺伝として「慶安3年寅年(1650)閏10月27日、三代将軍徳川家光は、牛込高田田辺御放鷹(鷹狩りのこと)御成の時、帰りの道筋、この寺に立ち寄り、庭一面に藤のあるのを見て、これこそ藤寺なりと上意があり」との記事があり、藤寺と呼ぶようになった。
 昔は、この坂から富士山が望まれたので、富士坂ともいわれた。
 『続江戸砂子』に、「清水谷は小日向の谷なり。むかしここに清水が湧き出した」とある。また、ここの伝明寺には銘木の藤あり。一帯は湿地で、禿(河童)がいて、禿坂ともいわれた。
    藤寺のみさかをゆけば清水谷
      清水ながれて蕗の苔もゆ (太田水穂)

 「伝明寺」にそれほど大きくない藤棚はあったが、まだ季節外れで新芽もでていなかった(当時の藤棚は枯れてしまったのだろう)。坂上は、春日通り。上がってみると、ちょうど「文京区桜まつり」の真っ最中。「播磨坂」の桜が満開。親子連れや昼休みのサラリーマンたちで賑わっていた。ちょっと寄り道。
    

 この通りの桜並木は見事。

 環三通り桜並木の由来

 かつてこのあたりは常陸府中藩松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ、「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後できたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り、「播磨田圃」へ下る坂ということで、「播磨坂」とよぶようになった。
 坂の桜並木は戦後間もない昭和22年、地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和28年には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備が進み、平成7年には装いを新たにした桜並木が完成した。
 昭和43年には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所として区民に親しまれている。
 
 文京区教育委員会 平成8年3月    

     

 「環状三号線」については、「www.miwachiri.com › 東京発展裏話「東京発展裏話 #6東京放射環状道路網の夢 ~文京区小石川の環3通り~」HPに詳しく掲載されている。(一度、このblogで取り上げたことがある)



 それによると、この「播磨坂」以外の文京区内を中心に事業凍結されて全線開通にはいたっていない。言問橋付近で水戸街道から分岐する「三つ目通り」が「環三」の一部だということを初めて知った。今度の「東京オリンピック」関連で事業計画が復活するとなると、沿線住民との間で一大騒動になるのは必至だが、そういう計画はありやなしや。

 元の道を引き返し、もう一つのガードをくぐって行くと、屈折した上り坂になる。石垣にはさまれたこの坂が「釈迦坂」。

    

 釈迦坂(しゃかざか)

【標識(文京区教育委員会)】

 春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷に下る坂である。
 『御府内備考』によれば、「坂の高さ、およそ一丈五尺(約4m50cm)ほど、幅6尺(約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここより見ゆるに因り、坂名とするなり。」
 徳雲寺は臨済宗円覚寺派で、寛永7年(1630)に開山された。『新撰江戸志』に寺伝に関する記事がある。
 境内に、大木の椎の木があった。元禄年間(1688~1704)五代将軍綱吉が、このあたりへ御成の時、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て、大木に成長した。明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失ったことは惜しいことである。
 徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石川七福神の一寺となっている。

    
                                  坂上から。

 「釈迦坂」を下り、右折する。拓殖大学東門に突き当たり、大学の敷地を迂回しながら進む。緩やかな上り。右手の高台は「林泉寺」の境内。さらに細い道が「茗荷谷駅」まで続く。この坂が「茗荷坂」。

    
                                   今回、回った坂が掲載されている。

 茗荷坂(みょうがざか)

【標識(文京区)】 

「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。
 茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。
 さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とある。
 自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。

地下鉄茗荷谷駅方面。狭い路地の雰囲気。

駅入口付近から「茗荷坂」を望む。人通りが激しい。



 1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 A→が「茗荷坂」、B←が「釈迦坂」、C←が「蛙坂」、D↑が「藤坂」と思われる。赤丸が「千川」。

 静かな住宅街から寺町、そして学生が行きかう街角、・・・今回も変化に富んだ坂道でした。満開の桜も見逃さずにすみました。日曜日を待たずして、強風であわただしく散っていく風情です。

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荒木坂。庚申坂。切支丹坂。蛙坂。・・・(小日向の坂。その3。)

2015-04-05 20:53:50 | 都内の坂めぐり



1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
赤い←が、「荒木坂」(道の西側に「称名寺」)。したがって、今回歩いた坂の上部分は、後に新しく付け替えられた道筋と思われる(本来は、「称名寺」の裏手を通って北に向かい、「切支丹屋敷」方向へ通じていたようだ。現在もその道は残っている)。
 赤丸は「キリシタン屋敷跡」付近、上部の赤丸には「蛙坂」とある。現在の「庚申坂」(→)は、「切支丹坂」と表示されている(このことについては、後述)。
 中央部は、現在、「東京地下鉄小石川工場」の大きな敷地となっていて、「切支丹坂」などかつての道筋は寸断されている。

 「称名寺」の先を左折すると、「荒木坂」。

    

 荒木坂(あらきざか)

【標識(文京区教育委員会)】

 称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。
 『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡そ五丈程(約15m)、幅弐軒弐尺程(約4m)(『御府内備考』)と記されている。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを”水道通り”とか”巻石通り”と呼んでいる。
 神田上水は、井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋をかけた。その石蓋を”巻石蓋”と呼んだ。その後、神田上水は鉄管に変わり、飲料水としての使用は明治34年(1901)までで、以後は、水戸屋敷跡地に設けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。


坂上から。ここから左に入る道が「荒木坂」。

 けっこう急なところもあり、下る人の頭がすぐ見えなくなった。

 途中から右側に「東京地下鉄小石川工場」の高い塀が続く道を下って行く(この坂は「荒木坂」ではない)。突き当たりの右手ガードの向こうにある石段が、「庚申坂」。

地下鉄ガード内から見た庚申坂。

    
                                       坂上から。左手は「茗台中」。

 庚申坂(こうしんざか)

【標識(文京区教育委員会)】

「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり・・・・・・略・・・・・・この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名“庚申坂”昔、坂下に庚申の碑あり・・・・・・」『東京名所図会』
 庚申信仰は庚申の日(60日ごと)人が眠ると三尸の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人びとは一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。
 したがって、キリシタン坂はこの坂の地下鉄ガードの向側の坂のことである。
 「・・・・・・両側の藪の間を上る坂あり・・・・・・これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』
    とぼとぼと老宣教師ののぼりくる
     春の暮れがたの切支丹坂  (金子薫園)


 「庚申坂」と「切支丹坂」とが丁度ガードをはさんで互いに対している形になる。

    
                          ガード方向を振り返る。

 「切支丹坂」は、切支丹屋敷の表門に通じる坂道(東から西への緩い上り坂)だったことに因む。

    

 坂上を右折すると、右手の建物のところには、 

 東京都指定史跡 切支丹屋敷跡

 キリシタン屋敷は正保3年(1646)に宗門改役井上筑後守政重下屋敷に建てられた転びバテレンの収容所です。江戸幕府はキリスト教を禁止し、多くのキリシタンを処刑していましたが、島原の乱をへて、転ばせたバテレンを収容し閉じ込める施設として新しく造ったものです。牢屋と長屋があり、この中では一応無事な生活が許されていました。幕府がバテレンの知識を吸収する場にも利用されました。
 最後の潜入バテレンとなるシドッティ(シドッチ)もここに収容され新井白石の訊問を受けています。シドッティ語は収監者も無く、享保9年(1724)焼失し、以降再建されず、寛政4年(1792)に屋敷は廃止されました。

 平成24年3月  東京都教育委員会

 上の記述では、「一応無事な生活が許されてい」た、とあるが、そうであったのだろうか? 「切支丹屋敷」では、多くのキリシタンが幽閉され苦難を強いられた場所だった、と見る方が正しいのではないか。
 また、解説文ではシドッティの名が挙げられているが、もう一人。

ジョゼフ・カウロ(1601~1685)。

 イタリア人でイエズス会の宣教師。寛永20年(1643)、筑前国大島で捕えられ、長崎から江戸へと送られて、切支丹屋敷最初の入牢者となった。拷問によって転宗、岡本三右衛門の名と妻を与えられ貞享2年、84歳で没するまで切支丹屋敷に監禁された。遠藤周作『沈黙』の主人公、司祭ロドリゴのモデルとなった人物である。

 また、1880年頃の地図では、「切支丹屋敷跡」に直接通じる「切支丹坂」は、存在していない。現在の「切支丹坂」は後になって付けられた名称ではないかと思われる。

 このことについて、

『切支丹きりしたん坂考 松本 崇男』(www.sakagakkai.org/contri/Kirisitan.html)が詳しく考察している。

 現在、切支丹坂と呼ばれている坂は、文京区小日向1丁目14と24の間を東から西へ上がる坂で、東京メトロ丸ノ内線を間にはさんで庚申坂の急坂と向かい合っている。
この坂が切支丹屋敷の跡地を通っていることから、江戸時代から存在した切支丹坂であるかのように思われている。しかし、江戸期を通じてこの道は地図に見当たらない。さらに明治初期に刊行された地図にも描かれていない。明治19~20年にかけて刊行された参謀本部陸軍部測量局作成による『五千分の一東京図』にも現在切支丹坂と呼ばれている坂はみあたらない。
 庚申坂(地図には切支丹坂と書かれている)を西に下った道はいったん南へ直角に曲りアサリ坂を通って坂上の南北に伸びる道に通じている。つまり、切支丹坂はこの頃、まだひらかれていなかった。
現在、切支丹坂と呼ばれているこの坂は明治になって新たにひらかれた道の坂であって、江戸の切支丹坂でありえない。
・・・
 新道(別名 七軒屋敷新道)の坂、庚申坂、現・切支丹坂が切支丹坂と呼ばれた坂であった。
切支丹坂と呼ばれた三ヶ所の坂は、そう呼ばれた時代がそれぞれの坂で異なっていたようにも思える。
 現・切支丹坂は、明治20年代に新たにひらかれた道で、この坂が切支丹坂と呼ばれるようになったのは、『新撰東京名所図会』が現・切支丹坂を真の切支丹坂だと唱えた明治39年以降のことであった。それまで切支丹坂と呼ばれた坂が庚申坂であった。
 問題は、庚申坂と新道(別名 七軒屋敷新道)の坂の関係である。両坂のいずれが切支丹坂であったかについて江戸時代すでに混乱をきたしていた。
 庚申坂は現在も利用されている坂だが、坂のひらかれた年代は明確ではない。しかし、遅くとも延宝年間に(庚申)坂があったことが確認できる。一方、新道の坂は、元禄14年(1701)にひらかれ明治初年に廃道となったことがわかっている。庚申坂は新道の坂より古くにひらかれた坂であったといえる。
 年代は不明だが、まず庚申坂が切支丹坂とよばれるようになり、元禄14年(1701)に新道がひらかれると、切支丹屋敷に沿った坂であることからいつのまにか新道が切支丹坂と呼ばれようになっていった。やがて、切支丹屋敷が火事で焼失し、再建されないまま寛政4年(1792)に屋敷が廃止され、跡地が武家屋敷に変って切支丹屋敷の記憶が薄れていくと、新道の坂にかわって再び庚申坂が切支丹坂と呼ばれるようになったと考えることはできないだろうか。(以上、概要)

 「切支丹屋敷跡」の碑を過ぎて、しばらく行くと下り坂になり、直角に右折したらすぐ左折する急な下りになる。そこが「蛙坂(復坂)」。
                                         
     

 蛙坂[復坂](かえるざか)

【標識(文京区教育委員会)】

「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)
 『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。
 なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂に通じている。

    
                       振り返って坂上を望む。

 「蛙の合戦」という話は、全国にあるようだ。低気圧が近づくと、蛙の大合唱が聞こえて来る、という話も。

 そこで、「蛙の合戦」を紹介。

 葛西音彌が明治39年(1906年)に編さんした「青森市沿革史」という本があります。その本の天保13年(1842年)6月の項に、「蓮華寺に蛙の合戦あり」という記事があり、本文は難解な文語で書かれているので、口語に直し少し潤色して紹介します。

「このころ、蓮華寺の境内にたくさんの蛙が集まって鳴きたてるのでとても騒がしい。その声は町中に響きわたる程で、それをわざわざ見物にやってくる人もたくさんいた。(たぶん暮六つの鐘(午後6時ころ)がなるころに、)まず番神堂の池からひと一倍大きな蛙がのっそり上がってきて、まるで宣戦布告するかのように、高らかにギャーロギャーロと鳴いた。一方、山門の外の蓮池からも、これまたひときわ図体の大きな蛙が一匹這い出て境内までのこのこ歩き、敵方大将蛙と十分な間合いを取り、やおらにらみ合い、ギャローギャローとどすの効いた太い声で一声上げた。
 この一声を合図に、両方の池から次から次へと、ぞろぞろぞろぞろ、おびただしい数の兵隊蛙が出てきて、互いに負けてはならずと盛んに鳴きたてはじめた。
 緒戦は鳴き合いであったが、次第に両軍の戦意は高まり、ついに、激しいつかみ合いや壮絶なかみ合いへと戦況は展開した。そのうちにリタイヤした兵隊蛙、また奮戦力闘の末、討ち死にする兵隊蛙も少なからず出てきた。
 (やがて一時(およそ2時間)もたったろうか。)二匹の大将蛙は一声大きく鳴いて、ここでいったん休戦の宣言をした。すると兵隊蛙たちはそれぞれ負傷したり死んだりした戦友をくわえ、味方の池へ引き帰った。このような大合戦はおよそ一週間ほど続いたが、やがて境内は何事もなかったように元の静けさを取り戻した。」この話は、かつて鍛冶町かじまち(現在の橋本一丁目あたり)で米や塩を商っていた京屋の記録とされる「柏原筆記」などをもとに、「青森市沿革史」に収録され、現在に伝えられているものです。ちなみに、番神堂は現在も稲荷様といっしょに境内の一角に祭られています。
 明治のころまで、蓮華寺のまわりにはまだ田んぼがありました。したがって毎年その時期になると、近くの人たちはいやでも蛙の大合唱を聞かされていたはずです。
 ちなみに、「蛙合戦」の話は全国あちこちにあり、生物学ではこれを「蛙の群婚」と説明しているようです(敬称略)。

                      【近世部会調査協力員 木村愼一】

(※『広報あおもり』2002年1月1日号に掲載したものを引用。)

 「蛙の合戦」も、実は産卵に集まった「蛙の群婚」のこと。雄は鳴くことで雌を呼び、雌は雄の鳴声で相手を選ぶ。時には間違えて雄が雄に飛びつくこともある、らしい。産卵時期の水辺は大騒ぎになるという次第。
 明治の頃は、この「蛙坂」の下には水田があったようだ。さぞかし蛙の鳴き声もにぎやかだっただろう。とっくの昔に蛙の声は途絶えたに違いない。その意味で、末永く残したい坂の名の一つ。

 そういえば、井上ひさしさんの戯曲で「表裏源内蛙合戦(おもてうらげんないかえるがっせん)」というのがあった。
 1970年に発表された作品で、「エレキテル」の発明や「土用丑の日」などキャッチコピーを生んだ「江戸の天才」平賀源内の一代記。次々と才能を開花させながら、当時の社会からは「奇人」「変人」とされた源内。
 その才能やそれ故の葛藤を“表”と“裏”のキャラクターによる合戦にのせて展開。歌、踊り、そして言葉遊びなど、当時、意気軒昂な井上ひさしさんならではの「エレキテル」笑劇だった。
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大日坂。服部坂。薬罐坂。漱石。・・・(小日向の坂。その2。)

2015-04-04 17:31:42 | 都内の坂めぐり

 いったん下った「鼠坂」の急坂を上り(けっこうきつい!)直進して、少し広くなった道を右折する。かつての「御賄組屋敷」の一角の東側の通りとなる。少し左にカーブする道をそのまま南下していくと、下り坂になる。「大日坂」。

    

 大日坂 (だいにちざか)

【標識(文京区土木部)】

 この坂は昔、坂の上にあった田中八幡宮にちなんで八幡坂と呼ばれていました。後に八幡宮が音羽町8丁目の裏通りに移転してからは、坂下の妙足院の大日堂にちなみ、大日坂と呼ばれるようになりました。
 大日堂は、大日如来を祭り江戸時代から小日向の名所として知られてきました。明治時代に入ると、毎月八の日の縁日には、水道通りにたくさんの露店が並び賑わっていました。また、坂下の神田川(旧称江戸川)は、明治末まで土手に植えられた桜並木が有名でした。

【別の標識(文京区教育委員会)】(坂の途中にあるもの)

 「・・・坂のなかばに大日の堂あればかくよべり。」(改撰江戸志)
 この「大日堂」とは寛文年中(1661~73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。
 坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。
 この一円は寺町の感のする所である。

    この町に遊びくらして三年居き
      寺の墓やぶ深くなりたり      折口信夫(筆名・釈迢空1887~1953)


「水道通り」に緩やかに下っていく。

    
 坂の途中から。                              「水道通り」から望む。




1880年(明治13年)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 Aが「大日坂」、Bが「服部坂」、Cが「薬罐坂」。いずれも長い坂道。
 赤い↑が、「水道通り(巻石通り)」=旧神田上水、青い↓が「神田川」。「大日坂」の西側が「久世山」(この当時は、「陸軍病院」敷地)

 「水道通り」=「巻石通り」を東に向かう。この通り(旧神田上水)については、「江戸川公園」から水道橋の「後楽園」まで探索して、このblogにUPしたことがある(2013年10月2日~4日)。

                

 しばらく行くと、左手に、同窓生が建てた「旧黒田小学校」の碑がある。

 

 黒田小学校縁起

 われらの母校黒田小学校は明治11年2月ここ小日向水道町に創建された。その校名は当時水道端2丁目居を卜せられた侯爵黒田長知氏が維新の勲功による政府賜米2千石を東京府に献納しもって学校設立の資に充てんことを請願せられたによるものである。尓来、校運、日に隆盛に赴き、昭和11年7月には旧木造校舎を改築して鉄筋コンクリート造り3階建てとなし、形式内容共に充実した小学校となり校名ますます隆々たるものがあった。たまたま大東亜戦争の勃発に会い、学童を宮城県松島に疎開せしむることとなったが、昭和20年5月25日帝都空襲の戦火に包まれて、校舎は遂に荒廃に帰したために翌21年3月廃校となり、ここに春風秋雨70年の歴史を閉じたのである。校舎はその後修復せられて現に文京区立第五中学校となっているが・・・ 

 その「第五中学校」も平成21年(2009年)3月、統廃合によってなくなり、現在はその場所に「文京総合福祉センター」が建っている。そこを左に上がっていく坂が、「服部坂」。

    

服部坂 (はっとりざか)

【標識(文京区教育委員会)】

 坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が移された。
 永井荷風は眺望のよいところとして、『日和下駄』に「金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。・・・」と書いている。
 坂下にある文京区第五中学校はもと黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。

上から望む。右手が「文京総合福祉センター」。

 上って行くと、左手に「小日向神社」、右手に「福勝寺」。「福勝寺」の南、東に延びる坂が「横町坂」。

「横町坂」にある昔ながらのおうち。


 現在の小日向台町は、お寺と民家・マンションなどが混在する地域。細い路地や坂道、参道などもあって、思ったよりも複雑な地形となっている。
「福勝寺」の先、路地風の道。

    
 東側を望む。                                 閑静な住宅街。

 しばらく進むと、左手に「新渡戸稲造旧居跡」の碑。

 新渡戸稲造 文久2年(1862)~昭和8年(1933) 教育者・農学博士・法学博士
 南部藩士の子として盛岡で生まれ、明治4年(1871)に上京した。明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。同校卒業後、東京帝国大学専科に学び、さらにアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。
 ・・・(東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長などを歴任)
 国際的にも広く活躍し、大正9年(1920)には国際連盟事務局次長となり、「連盟の良心」といわれた。昭和2年(1927)帰国の後、太平洋問題調査会理事長となった。きびしい国際情勢のもと、平和を求めて各地の国際開銀に出席するなか昭和8年にカナダで亡くなった。
 当地は、明治37年(1904年)から昭和8年(1933年)まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。

 文京区教育委員会   平成25年2月

 「小日向台町小学校」の角を右折。ところどころに案内板があるのが、親切。

来た道を振り返る。

 しばらく進んで、最初の十字路を右折。急な下り坂になる。右手に「生西寺」境内前の小さな公園。その先からも急な下り。 

振り返る。左手が「生西寺」境内。

 しばらく行くと、ほぼ直角で右に折れ、またすぐ左に折れる(江戸の頃と同じ)。この坂が、「薬罐坂」(やかんざか)。特に「標識」は見当たらなかった。
    
                        振り返ってみたところ。

 この「薬罐坂」。ネーミングの面白さがあるので、いわれを記した「標識」があってもよさそうなものだったが。
 そこで、山野勝さんの書から一部、孫引きのかたちになるが、紹介。

 薬罐坂は野豻(干)坂・ヤカン坂とも書く。野豻とは野犬や狐のことをいう。横関英一著「江戸の坂 東京の坂」によると「ヤカン坂」の説明には次の4つがあるという。
①雨後の坂道が銅製の薬罐のように、ピカピカに赤光りしていた。②坂下に薬罐を作る職人が住んでいた。③雨の夜などに薬罐の化け物がころがり出た。それは野干、すなわち狐などが化けたものであろう。④暗くて気味の悪い、狐や狸でも出そうな坂のことをいった。
 ・・・切絵図の中で、生西寺のところに「山中ト云う」と書かれている。江戸時代、この坂の両側には樹木がうっそうと茂っていて、まるで「山中」にいるような、気味の悪い場所だったと想像される。(P163)

 今では、「生西寺」付近を除き、まったくそういう面影もない道筋になっている。そのまま下って、「水道通り」に戻る。
 
振り返って望む。

 「水道通り」の左には、お寺が続いている。「本法寺」門前には、夏目漱石に因んだ碑がある。
                   
 
 ・・・夏目家は、代々江戸の名主をつとめた。明治14年に母、20年3月に長兄、6月に次兄が本法寺に葬られた。それ以来、漱石はしばしば小日向を訪れた。亡き母を詠んだ句もある。兄の死を悼んだ英文のスピーチを旧制一高で弁じたこともある。蓮如の「御ふみ」の言葉を友人子規に書き送りもした。作家となってからは「坊つちゃん」の清の墓をここに設けるなど、漱石の心の中に本法寺の幻はゆらめきつづけた。
 境内には早稲田大学第14代総長奥島孝康が揮毫した漱石の句がある。

 早稲田大学創立125周年記念 「早稲田大学で教鞭をとった文豪シリーズ」

 漱石の句碑 「梅の花 不肖なれども 梅の花」
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鷺坂。八幡坂。鼠坂。御賄組。・・・(小日向の坂。その1。)

2015-04-03 22:27:50 | 都内の坂めぐり

 満開になった都内の桜。お天気もよし、そこで、「坂道探索」というしだい。

 4月2日(木)。

 山野勝さんの『古地図で歩く 江戸と東京の坂』(日本文芸社)、今回はその「小日向の坂」(P145~P176)をよりどころにして。

                        

 この書のすばらしい点は、現在(の地図)と江戸末期の切絵図―嘉永2年(1849年)―とを比較対象し、自ら実際の道筋を辿って(読者に道順を示していて、後追いするのに大変便利)考察しているところ。蘊蓄の傾け方は、さすが「日本坂道学会会長」さんだけのことはあります。
 都心部が再開発などで大きく変貌している中で(建物だけでなく、道の付け替え・拡幅・整備などあって)、坂道と沿道、周囲の景観の現在のようすが写真入りで紹介され、読み物としても大変興味深い。実際に歩けば、それも倍増される、という趣。
 刻々と変化する都心部。それでも坂や道路は江戸時代とほとんど変わらない、歩くと、そんな発見もあって楽しい探索ができます。

 さらに、



は、東京23区に700以上存在する「名前の付いた坂道」を実際に歩いて集めたサイト。
 現地を踏査して写真もたくさん掲載されています。坂の上下方向などが地図入りで克明に記され、特に、区などが設置した「解説板」を網羅し、紹介しています。このサイトもけっこう参考していますが、そのすごい量に圧倒されます。

 
 さて、「江戸川橋」駅から「茗荷谷」駅まで。約1時間40分。
 これまで、本郷、湯島、春日と歩いきて、今回は小日向方面。こうしてみると、文京区は上り下り、坂道の多い町だと改めて実感しました。

 「江戸川橋」を地上に出ると、「神田川」沿いの江戸川公園の桜も満開。大勢の人が行き来していました。そこを横目で見ながら「目白坂下南」の交差点を渡り、反対側に。コンビニの脇を右に入ると、正面に上り坂。ここが、今回の最初の坂「鷺坂」。

    

 鷺坂(さぎざか)

【標識(文京区教育委員会設置)】

 この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。
 この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者 1892~1981)やその父で外交官の堀口九万一(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。
 足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで「山城の久世の鷺坂神代より春は張りつゝ秋は散りけり」とある。

                       「山代久世乃鷺坂自神代春者張乍秋者散来」。

 上の解説文にもあるように、大正以降、「久世山」一帯が住宅地となったときに新しく造られた坂。「鷺坂」という名は、万葉集の歌から採った。

 碑のあるところから左折して上って行く。

 鷺坂を下り、最初の角を右に折れる。
 右手は見上げるような石垣。
        この道(もしくは崖下)は、かつて川筋だったようだ(「歴史的農業環境閲覧システム」参照)。

 右手にある「今宮神社」の先を右折すると、「八幡坂」。

    

 八幡坂(はちまんざか)

【標識(文京区教育委員会設置)】

 『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍に下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と東京名所図会にある。
 明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。

上から見たところ。

 けっこう急なコンクリートの坂。中央の石段には手すりがつけられてある。上りきったところで、左折する。

                       

 階段の脇のスロープは、自転車用。上りにはこちらを歩いた方が歩きやすい感じ。他の坂でもそうだが、自転車がこのスロープ部分を下りたり、上ったりしている光景を見ることが多い。
 かなりきつそうな印象だが、住民にしてみれば日常生活そのものに坂道が溶け込んでいるのだろう。



 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 赤い→が「八幡坂」。青い→が、雑司ヶ谷を水源として「久世山」の下を流れ、神田川に注いでいた川。この頃、「鷺坂」はまだないことが分かる。
 中央上部の、整然と区画された一角(小日向台町3丁目)は「御賄組」の屋敷跡。「御賄組」は、御賄頭(おまかないがしら)のもとで江戸城の台所の食材の調達などを切り盛りする役人、一説には毒見役も兼ねていたらしい。

 坂上近くの左手に、

「石川啄木の初上京下宿跡」。

 盛岡中学校を卒業直前で退学した啄木は、文学で身を立てるため、明治35年(1902)単身上京した。そして中学の先輩で金田一京助と同級生の細嶋夏村の旧小日向台町にあった下宿を訪ねた。明治35年11月1日のことである。
 その翌日、近くの大館光方に下宿を移した。
 啄木日記には「室は床の間付きの七畳。南と北に縁あり。眺望大に良し」とある。
 与謝野鉄幹・晶子らに会い、文学に燃焼した日々を過ごしたが、生活難と病苦のため翌年2月、帰郷せざるを得なかった。

 文京区教育委員会 平成18年3月

 坂上から坂下を望む。

 坂上の台地の左側は、「鳩山会館」。塀越しに洋館が見え隠れしている。右手は東西にほぼ直線の道路が等間隔に通り、住宅街になっているのが、「御賄組」住居跡。
  
    
                         西から東を望む。

現在も道筋には変化がなく、家が建ち並んでいる。

 その一角の西北の外れから「音羽通り」(音羽谷)に一気に下っている坂が「鼠坂」。

細くて急な坂道。 

              鼠坂 (ねずみざか)

【標識(文京区教育委員会設置)】

 音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。
 鼠坂の名の由来について「御府内備考」は「鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へのぼる坂なり、至てほそき坂なれば鼠穴などといふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。
 森鴎外は「小日向から音羽に降りる鼠坂と云う坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云う意味で附けた名ださうだ・・・人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい・・・」と小説「鼠坂」でこの坂を描写している。
 また、“水見(みずみ)坂”とも呼ばれていたという。この坂上からは、音羽谷を高速道路に沿って流れていた、弦巻川の水流が眺められたからである。

 ここでいう「弦巻川」は、音羽通りの西側を流れていた川の名。

坂下付近から上を望む。

 江戸時代はもっと狭く、また「人力車」の往来にも大変だった明治時代よりは道も広く、コンクリートで舗装され、石段があり、手すりも付いていて通りやすくはなったようだが、それでも大変そう! この坂を前の荷台に大きな荷物を載せて、自転車を押しながら降りてくる地元の方。
 それよりも驚いたのは、坂道の途中の家を解体している業者。ユンボ(油圧式ショベルカー)を使って家を取り壊していた。どうやってこの機械をここまで運び入れたのだろうか?
 しばらく見ていると、手すりを取りはずして広くなった道を行き来していたことに気づいた。なるほど! これから家の新築? 大型機械が通行できない場所での作業もまたまた大変なことだろうが、そこは地元の知恵で・・・。


 
 旧小日向台町

 古くは小日向村の内で、鼠ヶ谷、小松原と称した。畑地であったが、いつの頃から町家になたかはわからない。元禄のころ(1688~1704)まで小日向新町と称していたが、小日向台町と改めた。高台であったので、台町としたのであろう。
 明治2年、清巌寺前、八幡坂町を併せた。同5年、旧幕府賄組屋敷および新屋敷と呼んだ土地を併せた。・・・

    
                            東から西を望む。
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伊皿子坂。魚藍坂。幽霊坂。聖坂。潮見坂。蛇坂。安全寺坂。(高輪~三田の坂。その2。)

2015-03-08 20:44:40 | 都内の坂めぐり

 附属高校や大学など東海大学関連施設の東側には、「泉岳寺」がありますが、今回は省略。
 旧高松宮邸(高輪皇族邸)の手前、左手の都営高輪一丁目アパートの入口付近にかなり摩滅した「大石良雄等自刃ノ跡」の碑。自刃の地(「熊本藩・細川家下屋敷」)は、この一番奥にあるらしい。特に説明文もなく建てられています。



 元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹しました。三田の伊予松山藩屋敷跡(現:イタリア大使館)には大石主税ら十士切腹の地があります。大石父子の切腹は、ほぼ同時刻であったといわれています。浪士たちは、江戸高輪の泉岳寺に葬られています。

 突き当たりの十字路、右手が「伊皿子坂」。左手が「魚籃坂」。

     

 (いさらござか)

 明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも、いいさらふ(意味不明)の変化ともいう。

「魚籃坂」。

 (ぎょらんざか)
 
 坂の中腹に魚籃観音を安置した寺(注:魚籃寺)があるため名づけられた。
 注:「魚籃」は、びく(魚を入れる籠)のこと。

 こちらの坂が「旧伊皿子坂」。

 「魚籃坂」を少し進み、右手にある「ピーコックストア」の先を右に曲がり、広い道(「聖坂」)に出て、しばらく進むと、左手の下り坂が「幽霊坂」。

     

 (ゆうれいざか)

 坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが、有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く7か所ほどもある。

 お寺の塀越しに「東京タワー」。

 しばらく行くと、右手に「亀塚公園」。
                           公園の土塀づくりもこの地域の雰囲気にマッチしています。
 
「三田の坂めぐり案内図」。

     
               「聖坂」。「区立三田中学校」の前。

 (ひじりざか)

 古代中世の通行路で商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所であったためという。竹芝の坂と呼んだという説もある。

 「普連土学園」の脇を左に折れると、「潮見坂」。

            

 (しおみざか)

 坂上から芝浦の海辺一帯を見渡し、潮の干満を知ることができたためこの名がつけられた。

今は海は見えないが、かつては。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。○付近にあった坂が「潮見坂」。Y字型のところが「札の辻」。「潮見坂」は、「高輪台」の北東のはずれに当たり、きっと品川湾(東京湾)も手近に見えたに違いない。

 普連土学園の脇をカギ型に曲がると、「蛇坂」。西に向かう下り坂です。

     
                        振り返って望む。

 (へびざか)

 付近の藪から蛇が出ることがあったためと想像されている。

 来た道を戻って、北に向かい、細い道を進みます。左手の崖下は、寺町。

    
                                    斜面には菜の花が。
 
 右に折れて、すぐ左に折れると、「安全寺坂」の標識。

一気に下って行きます。 

 (あんぜんじざか)

 坂の西に江戸時代はじめ安全寺があった。誤って安珍坂、安楽寺坂、安泉寺坂などとも書かれたことがあった。

    
                                     坂を下りきると、正面は慶應大学。

振り返って望む。

 以上、「品川」から「三田」までの坂巡りでした。

 坂を上がると、視界が広がる、景色が変わる。坂を上ったり、下ったりしながら町の風景の変化を感じるのが、坂巡りの面白いところです。
 喧噪の道筋から一歩離れて、坂道をたどることでの発見もあります。

今も息づく路地裏の暮らし。

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柘榴坂。洞坂。桂坂。署防消輪高。・・・(高輪~三田の坂。その1。)

2015-03-07 18:44:11 | 都内の坂めぐり

 久々に午後から、東京の坂めぐり。前回も参考にさせてもらった「『江戸と東京の坂』(山野 勝)日本文芸社」掲載の案内図を頼りに。
 「京急・品川」駅から「都営・三田」駅まで。距離的には、5㎞足らずでしたが、上ったり、下ったりで、ほどほどの歩きでした。「高輪」「三田」付近は想像以上に坂道続き、アップダウンの多い街でした。
 車の激しい通り、高校や小中学校の集まる文教地区、静かで落ち着いた住宅街、小さな商店が並ぶ通りと変化にも富んだところでもありました。

左下・品川駅方向を望む。

 考えてみたら、乗り換え駅としてはけっこう利用しますが、品川駅で下車して、となると今までほとんど縁がありませんでした。そんなわけで、いきなり最初の「柘榴坂」に行くのに迷って(駅西口ロータリーの前の広い通りを素直に上っていけばよかったのですが)、「ウィング高輪WEST」のところを左に曲がってしまい、さて、上に向かう道がない。
 やっと見つけて、少し上って行くと、右手には急な石段。それもけっこうな高さ。そこを上って振り返ると、左手下にJRの線路が。「品川プリンスホテル」のすぐ南側に沿った道に出ました。



 ラジオでしょっちゅう宣伝を流している「再春館製薬所(東京営業所)」はここか! とその前を通って、本来の「柘榴坂」へ。

    
                            「柘榴坂」。
 (ざくろざか)

 坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか、江戸時代はカギ形に曲り、明治に直進して新坂と呼んだ。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓の部分がカギ形になっている。この後、改修したと思われる。「東海道」(現在の「第一京浜」)のすぐ東には東京湾が広がっていた。海岸線を通る直線は、新橋からの鉄道線路。


 坂上の左手にある「カトリック高輪教会」にある殉教碑。

 1623年12月4日、徳川3代将軍家光は、外国人宣教師を含むキリシタンを、迫害政策により江戸市中を引き回したうえ、東海道沿いの札の辻(現在の田町駅付近)の小高い丘で火刑に処しました。その後数年にわたり、女性や子供、キリシタンをかくまった人々も巻き込み、100名近くの人々が処刑され、江戸全体では、2000名近くの人が殉教しました。世にいう「江戸の大殉教」です。
 その中の一人ヨハネ主水(もんど)は、2008年、信仰の証し人として福者に列せられました。・・・

 その先を左に曲がります。この付近は、「高輪台」という高台にあたります。

「味の素グループ高輪研修センター」の表門?

 その建物の角を右に曲がります。塀もなかなか趣ある雰囲気。

 ここには、があるようです。

 右に左に折れながら下って行くと、「高輪公園」。

    

 公園附近沿革案内

 この公園の付近は三方を丘で囲まれた静かなくぼ地で、江戸入口の大木戸から南方に
当たり国道東側まで海があって、景色のよい所だった。
 今から約300年前寛永13年(1636年)に近くの東禅寺が赤坂から移った。この禅寺を中心として多くの寺が建ち、その周辺には有名な大名井伊、本多家などの下屋敷があった。
 幕末には東禅寺は最初の英国公使館となった。附近の一部は江戸時代を通じ荏原郡高輪村であったが、明治5年東禅寺、宝蔵寺、法蓮寺、浄業寺等の寺地と、本多家下屋敷の一部を合併し下高輪町となった。
 高輪の地名は、高い所にある、まっすぐな道という意味の高縄手道が略されたものとも、岬を意味する高鼻というのがなまったものといわれる。・・・

      
           「東禅寺」。

 国指定史跡 東禅寺

 東禅寺は、幕末の安政6年(1859)、最初の英国公使館が置かれた場所です。・・・
 幕末の開国に伴い、安政6年6月、初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコックが着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(1865)6月まで7年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(1861)5月には尊皇攘夷派の水戸藩浪士に、翌2年5月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが著した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。
 現在の東禅寺の寺域は往時に比べ縮小し、建物の多くも失われていますが、公使館員の宿舎となっていた「「僊源亭」やその前の庭園などは良好に残っています。庭園と僊源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。
 幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。

 平成24年3月  東京都教育委員会 

 門前を右に曲がり、細い路地を行く。緑に囲まれた落ち着いた住宅地。 

    

    
                            「洞坂」。

(ほらざか)

 法螺坂、鯔坂とも書く。この辺の字(あざ)を洞村(ほらむら)と言った。洞村とは、昔ホラ貝が出たともまたくぼ地だから、洞という等様々な説がある。

 上がりつめた広い道が「桂坂」。

     

(かつらざか)

 むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。

 この坂を上ると、正面右奥に「二本榎」。
               

 二本榎の由来

 その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高輪手(たかなわて)」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
 誰いうことなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
 それがそのまま「二本榎」(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でもt地名だけは残りました。
 戦後、地番変更で高輪4丁目などと地名は変わりましたが、「榎」は幾度となく植樹・移植が行われ、町の人々の大切な象徴となっています。

 平成17年(2005年)12月

 通りを挟んだ向かい側にあるのが、「高輪消防署」。

 庁舎は昭和8年(1933年)に完成し、現在、「東京都選定歴史的建造物」に指定されています。現役の消防署として活躍中。
 正面の円筒形の3階部分の上に、灯台のような火の見櫓が立っています。正面入口には「署防消輪高」と右側から書かれていました。

 どこかで見たことがあるような建築物。「(関東大)震災復興小学校・公園探索」で訪ねた、旧「台東区立小島小学校」や旧「中央区立京華小学校」などの構造とよく似ています。昭和の初期、ほぼ同じ頃に建てられた建て物であることが分かります。

注: 旧「小島小学校」校舎。
半円柱状(丸い搭状)の外観。屋上は完全な円形で、物見塔(火の見櫓?)のよう。

旧「京華小学校」校舎。
曲線に特徴が。 

 その角を右に折れて、東海大学関連施設を右に見ながら行きます。そこにも古めかしい建物が。
「とらや」。
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御殿坂。物見塚。上野戦争。・・・(根津・谷中の坂。その4。)

2014-11-04 18:28:36 | 都内の坂めぐり

 そろそろ夕刻。小生の携帯でははっきりとした写真が撮りにくくなったので、JR「日暮里駅」へ。

「御殿坂」。

 この坂も、「七面坂」と引き続き、台東区と荒川区との境界にあり、坂の上はJR日暮里駅北口です。(右が「台東区」、左が「荒川区」。)

  
   「台東区」側の標識。       「荒川区」側の標識。

御殿坂 (「台東区」の解説文)

 文政十二年(一八二九)に成立した「御府内備考」には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年「東京府志科」には、長さ十五間(約二七・三メートル)幅二間(約三・六メートル)とあるが、現在の坂の長さは五十メートル以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの坂にあったからといわれるが、根拠は定かではない。

 また、「荒川区」の説明文では、「日暮里駅方面へ下る坂。江戸女台から用いられていた故障である。・・・当時の絵図などから
、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがわれる。・・・」とある。

 ここで注目すべきは、「日暮里駅方面に下る坂」という点。

 「台東区」の説明文にもあるように、もともと上野台地の東側を下る坂としてあったものが、JR線の敷設や「日暮里駅」の開設等で消滅してしまい、台地上にその一部が残っていると考えられる。
 なお、「日暮里駅」の跨線橋の橋の名は、「下御隠殿橋」。もちろん、江戸時代当時からここに橋があったわけではない。

1880年(明治13年)頃のようす(前回掲示の図)。

 ○が「御殿坂」。A(「八面坂」)からB(「芋坂」)を結んでいたようだ。

黒い線がJR線、日暮里駅。
 ほぼ消失している(戦前までは「日暮里駅」の西側に一部残っていたようだ)。

 この坂の周囲にはまだまだ見所が多い。そこで、後日再訪したので、以下にそれを掲載します。

 「本行寺」(月見寺)の境内には太田道灌の「物見塚」に関わるものがあります。

  

「荒川区指定文化財/道灌丘碑」。

 太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築いた際、ながめのよいこの地に「物見塚」と呼ばれる斥候台(見張り台)を造ったという。
 寛延3年(1750)に本行寺の住職日忠や道灌の後裔と称する掛川藩太田氏などが道灌の業績を記したこの碑を塚の脇に建てた。塚は鉄道敷設でなくなり、この碑だけが残った。
 この辺りの道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、一茶も当地で「陽炎や道灌どのの物見塚」と詠んでいる。

「道灌丘之碑」。

「小林一茶」句碑。

 陽炎や 道灌どのの 物見塚

 その先の「経王寺」には、彰義隊にまつわるものがあります。

  
    赤い○が弾痕。                     
赤い○のところ。何カ所か残っている。

  
「経王寺 山門」碑。                 「門番所」。

 明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られています。旧谷中七福神のひとつです。
 慶応4年(1868)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けました。天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残り、当時の激しさを今に伝えています。

HPより。

上野戦争(以下、「Wikipedia」による)

 慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎し、新政府軍は東征軍を江戸へ向かって進軍させた。江戸城では主戦派の小栗忠順や榎本武揚らと恭順派とが対立するが、慶応4年3月13日(1868年4月5日)に新政府軍の大総督府参謀である薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟が会談し、徳川慶喜の水戸謹慎と4月11日(5月3日)の江戸城の無血開城を決定して江戸総攻撃は回避された。

 抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成した。彰義隊は当初本営を本願寺に置いたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかったが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した。

 新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は海江田信義ら慎重派を制して武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。作戦会議では、西郷隆盛は大村の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村は「そうです」とにべもなく答えたという。

 5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲による砲撃を行った。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は寛永寺本堂へ退却するが、団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走した。
 戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされる。

上野戦跡

 戦いの結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。この戦いに敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに隠棲し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北茨城市)に着船。春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びた。戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。
 戦闘が行われた黒門は荒川区の円通寺に移築されており、弾痕の残った柱などが保存されている。
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六角堂。七面坂。富士見坂。地蔵坂。夕やけだんだん。・・・(根津・谷中の坂。その3。)

2014-11-03 20:37:26 | 都内の坂めぐり

 「七面坂」に向かう途中に、「岡倉天心記念公園」があります。

  
「岡倉天心宅跡 旧前期日本美術院跡」碑。

 「岡倉天心記念公園」は、横山大観らと日本美術院を創設し、日本の伝統美術の復興に努力した岡倉天心の邸宅兼、日本美術院跡に台東区が作った公園で、昭和42年(1967)に開園。約700平方mの小さな公園です。園内には岡倉天心を記念した六角堂が建ち、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている、とのこと。

「六角堂」。

 この場所に建てられた美術院は明治31年(1898)9月に竣工した木造二階建て。明治39年(1906)12月に茨城県五浦に移るまでここが活動の拠点となっていた。

  

 公衆トイレも六角堂を模したもの、他にも公園内には、「六角」(形)へのこだわりが随所にある、らしい。じっくり見てくればよかった!

 「五浦」の「六角堂」は、2011(平成23)年3月の「東日本大震災」の津波によって流失してしまったことが話題になりました。
  
流失直後。                          再建後。      
(「」HPより)

 「宗林寺」を過ぎると、右手に坂があります。

   
 
 この坂が、「台東区」と「荒川区」の区界になっています。左の写真で、右が「台東区」、左が「荒川区」。

七面坂

御殿坂上から台東区長明寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂にちなむ。

    荒川区教育委員会

坂上から望む。 

「諏訪台通り」を北に向かうと、「富士見坂」。

 
 
富士見坂

 坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。
 都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。

 荒川区教育委員会

 関東の富士見100景 富士山の見えるまちづくり

 平成16年11月
 国土交通省関東地方整備局 



 が、現在では富士山は見ることができなくなってしまいました。

   

 「不忍通り」沿いのマンション建設のため、この「富士見坂」からは見ることが出来なくなってしまったのです。

以下、「今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day」
「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.」HPより。

 日暮里富士見坂から富士山を望むことができなくなって16ヶ月目。
 坂上には、いまだ「あっちに見えるはず…」と西を指さす人が絶えない。
 いま、富士見坂から富士山への通り道の途上に黒いビルが見える。生和コーポレーションが建設した「福信館」がみえる。
 こうして、名前を告げることを非難する人もあると思うが、名前を伏せれば、話し合いの場をもうけると文京区は私たちに約束したが、残念ながら反故にされてしまった。同じように企業も私たちを脅し、そして約束は最後まで果たされなかった。
 2011年12月、世界遺産の諮問機関であるICOMOS(国際記念物遺跡会議)は、日暮里富士見坂からの富士山の眺望を歴史的な眺望遺産としてパリ総会で決議した。
 翌2012年5月、その保全について荒川区、文京区、新宿区、豊島区、そして東京都、および新大久保に高層ビルの建設を予定していた住友不動産に対して勧告するとともに、保全を可能にするための眺望ライン作成に協力することを申し出た。
・・・

2014年10月16日 初冠雪の「すきま富士」。

 今朝、日暮里富士見坂近くから、初冠雪の富士山を望むことができました。写真をよく見ると、山頂部分もビルのはざまに見えています。せめて、この風景を子どもたちに残したいものです。日暮里富士見坂からの富士山が復活する日まで。


 以前、富士山の左肩部分を新宿区内に建設されたビルによって奪われ、今回は、右肩を奪われてすっかり見えなくなったようです。ただ、上の写真のように、この坂の近くから見えるところがあるようですが。

 

 「富士見坂」は、富士山が見えなくても夕陽の光景が美しい坂道ですが、それに満足せず、「富士山」復活にかける心意気を強く感じます。



 諏訪台通りを少し進み、「諏方神社」の脇を入ると、「地蔵坂」。

 
                   坂の先はJR「西日暮里」駅に向かう地下道。
  

地蔵坂

 この坂はJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂である。坂名の由来は、諏方神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が安置されていることにちなむという。
    荒川区教育委員会

 「地蔵坂」から戻ってくる頃には、すっかり夕焼け。

  
「富士見坂」の案内板。                   夕焼けに染まる「富士見坂」。

 「七面坂」のすぐ北側は「夕やけだんだん」、谷中銀座の道筋。うろうろしているうちに、夕陽がまぶしくなってきました。

「七面坂」。

  
                        (別の日に撮影)


1880年(明治13年)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 ↓が「富士見坂」、○が「地蔵坂」、中央の東西の道が「八面坂」・「御殿坂」(「夕かけだんだん」付近)と思われる。←が現在のJR「西日暮里」駅付近。
 なお、右下の曲がりくねった道が「芋坂」。


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三崎(さんさき)坂。真島坂。築地塀。蛍坂。・・・(根津・谷中の坂。その2。)

2014-11-02 21:09:58 | 都内の坂めぐり

 「へび道=旧藍染川」は「三崎坂」を越えて北にある「よみせ通り」へと続きます。
 「三崎坂」で「藍染川」に架かっていた橋が「枇杷橋」。
「藍染川と枇杷橋(合染橋)跡」碑。

 通りの向かいにあるお蕎麦屋さんが「大島屋」。

 「三崎坂」と「不忍通り」をはさんで相対している坂が、「団子坂」。
  
                                     ↓が「団子坂」。


  

三崎坂
 「三崎」という地名の由来は諸説あるが、駒込、田端、谷中の三つの高台にちなむといわれる。安永2年(1773)の『江戸志』によると、三崎坂の別名は「首ふり坂」といい、30年ほど以前、このさかの近所に首を振る僧侶がいたことにちなむという。


大正中期のようす(「今昔マップ」より)。↓が「三崎坂」。駒込、田端、谷中の地名が記されている。この付近が、三つの高台に囲まれた低地であることがわかる。
現在。

  
 「三崎坂」の途中にある「台東区立谷中小」。寺町らしい雰囲気の建物。

 「谷中小」を右折した先にあるのが「真島坂」。
 
坂上から。                          坂下から。
 再び、「三崎坂」に戻ります。

「笠森おせん・鈴木春信の碑」(「大円寺」内)。

鈴木春信「お仙茶屋」

 笠森 お仙(かさもり おせん、1751年(宝暦元年) - 1827年2月24日(文政10年1月29日))は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。明和年間(1764年-1772年)、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤(やなぎや おふじ)と人気を二分し、また二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし(つたや およし)も含めて江戸の三美人(明和三美人)の一人としてもてはやされた。
 1763年(宝暦13年)ごろから、家業の水茶屋の茶汲み女として働く。当時から評判はよかったという。
 1768年(明和5年)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となり一世を風靡した。お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。また、「鍵屋」は美人画の他、手ぬぐいや絵草紙、すごろくといった所謂「お仙グッズ」も販売していた。
 1770年(明和7年)2月ごろ、人気絶頂だったお仙は突然鍵屋から姿を消した。お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけだったため、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した。お仙が消えた理由についてさまざまな憶測が流れたが、実際は、幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁ぎ、9人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたという。享年77。
 現在、お仙を葬った墓は東京都中野区上高田の正見寺にある

(以上、錦絵を含め、「Wikipedia」より)

  

 お仙は、笠森稲荷社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はその姿を、当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に、大正八年、二つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰、「錦絵開祖鈴木春信」碑は文学博士笹川臨風が撰し、題字は、東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)校長正木直彦の手になる。
 荷風の撰文は、漢字仮名交じりの文語調である。
 女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡る
  もの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が
錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。
今年都門の粋人、春信が忌日を選びて、こゝに阿仙の碑
を建つ。
 時恰大正己未夏 六月鰹のうまい頃

 五大州は日本のことで、大正己未は大正八年にあたる。

 平成八年七月
       台東区教育委員会



 全生庵は山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治十六年に建立した。尚、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されている。

(「山岡鉄舟・三遊亭圓朝の墓【全生庵】」|TAITOおでかけナビ」より)

「三崎坂」にはけっこう昔を偲ばせる建物が残っています。

    

 1995年(平成7年)に「台東区まちかど景観コンクール」において「まちかど賞」に選ばれた建物。

下町まちしるべ 旧谷中初音町二丁目」

 初音町という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかけたところに鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。
 谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治2年(1869)のことである。四丁目ができたのは、それより少し遅い明治4年である。その後、谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併して谷中初音町としての町域を確定したのは明治24年のことである。
 谷中初音町二丁目は、元禄17年(1704)に町屋の開設が許されてできた天王寺中門前町が改称された町である。

 実に風情のある町名です。

「観音寺」。
 赤穂浪士ゆかりのお寺。和尚が赤穂義士のうちの二名の異母兄弟であった、という。

 このお寺の南面にある「築地塀(ついじべい)」が目を引きます。

  

1992年(平成4年)に「台東区まちかど賞」を受賞した「観音寺」の築地塀(長さは約38m、高さ約2m)。関東大震災で一部が崩壊したが、修復を重ねて往事の姿を留めている。瓦と土を交互に積み重ねた土塀に屋根瓦を葺いた作り。

 瓦と土を交互に積み重ねて作った土塀を築地塀と言います。観音寺の築地塀は屋根瓦を葺いた珍しい造りになっています。平成4年度、台東区まちかど景観コンクールで「まちかど賞」に選ばれています
 土塀といえば、信長塀や太閤塀など古い築地塀がいくつも残っています。「築地塀」とは土で作られた塀のことを指し、大きなくくりでは版築で作った塀もその他の土で作った塀も築地塀(ついじべい)と呼んでいます。)
 築地塀の中でも土と瓦を交互に積み固めた練り塀が誰でも見覚えがあると思います。
 本来は土の塀を丈夫にするため、瓦を土の間に差し込んで強度を出し、土が早く締め固まるようにという目的がありましたが、(本来の練り塀は上塗りで瓦が見えるのを隠してしまいます。)それを見た目の面白さと瓦が雨水から土を守るという点で活かされたものです。
 当社の近くの谷中 観音寺にも練り塀が残されていて平成4年にまちかど賞を受賞しています。

(以上、「」HPより)

 その先を進むと、行き止まり。右に曲がると狭く急な坂になります。
「蛍坂」。

 右側が高い囲い、左がフェンス、となっていて、圧迫感がある坂道。

左側は急な崖。

  

蛍坂

江戸時代、坂下の宗林寺付近は蛍沢と呼ぶ、蛍の名所であった。坂名はそれにちなんだのであろう。「御府内備考」は「宗林寺の辺も蛍坂といへり」と記し、七面坂南方の谷へ「下る処を中坂といふ」と記している。中坂は蛍坂の別名。三崎坂とと七面坂の中間の坂なのでそう呼んだ。三年坂の別名もある。

 
「標識」から上を見る。                    左に曲がって見上げる。 

崖上の森の向こうが「蛍坂」にあたる。
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善光寺坂。三浦坂。赤字坂。へび道。・・・(根津・谷中の坂。その1。)

2014-11-01 13:13:55 | 都内の坂めぐり
 根津駅から西日暮里駅までのコース。下町探索コース「谷根千」ともかぶっています。以前、「藍染川(谷田川)」流路跡の探索で歩いたところとも重なりますが、今回は、「坂道」に徹底して。

 その前に、「根津」ということで、以前から気になっていた「建物」に向かいます。「はん亭根津本店」。木造三階建て。
 「不忍通り」に面して「茶房」、裏に回ると「串揚げ」のお店。

  

 もともとこうしたお店として長年やっていたわけではありません。そのへんのいきさつについて、

 『歴史ある建物の活かし方』出版記念シンポジウム・第5回歴史・文化のまちづくりセミナー記録
 1999年7月17日に東京大学工学部1号館第15教室で行なわれた『歴史ある建物の活かし方』(学芸出版社刊)出版記念シンポジウムでのご主人のお話が掲載されいます。

はん亭の誕生

 見出しに建築再生物語と書いてあります。「根津の大通りの一本裏に木造3階建ての串揚げ屋があって繁盛している。紺の暖簾に木目の洗い出された板戸。盛況のこの店のご主人高須治雄さんに、お店をはじめるまでの話を聞く」と書いてあって、ここからが私の語り口なのですけれども、実は森さんが雰囲気を出すために私のことをべらんめえ調で書いておりますが、決して普段そのようなことはなく、大変上品な喋りしかできない男でございます。私は35歳で脱サラして、上野の本牧亭の真裏で小さなカウンターの串揚げ屋「くし一」をやっていました。店は少しずつうまくやっていましたが、7、8年のうちに周辺の環境が悪くなって、ピンクサロンが客引きをするので、まともな客が道を歩けなくなった。その雰囲気がいやで、夜、店を開けるのが毎晩うっとうしかった。

 その頃、根津にある弥生会館で飲食店の会合があり、根津の裏通りをぶらぶら歩いてふと見るとこの木造3階屋に出会ったんです。湯島に木造3階建てがあるのは知っていましたけど、根津のこんなところにこんな建物があるとは思いもよりませんでした。それから取りつかれて、どんな人が住んでいるのかななんて想像して何回も見にきました。そして、ついに区役所に調べに行ったらある運送会社の独身寮だってことがわかったんです。なにも独身寮ならこの建物である必要はないと思い込み、もし売る時は僕に声をかけてほしいと言ったんです。あんなボロ家を買いにきた物好きがいると、向こうも驚いたらしいです。

 そのうち景気も悪くなって、向こうは売ろうかという話になりました。確かその間約3年かかりました。そりゃあ、ああいう建物は残す義務があるとか、うまく活用してみせると豪語した手前、売ってもよいと言われるとかえってあわてました。条件もわからない、中も見たことがない、買ってすぐ壊れちゃうんじゃないか、そこで上野の店の常連で芸大の建築科を出た浦さんに調べてもらいました。そしたら多少柱がゆがんでいるとか、3階で鉛筆をころがすとコロコロ片隅に転がる程度のことはありましたが、基礎、柱から構造もビクともしない、あと数十年は持つって太鼓判。こうなりゃやるべきだと思いました。

 さて、いくらかかるのか。お金もないし、一時は十条の自宅と取りかえっこしないかという大胆な提案までしたんですが、とにかく価値観の違いがありますから、こちらは垂涎の建物でも、向こうにしてみりゃとっくに減価償却の済んでるボロ家で、しかも借地ってことで、提示された価格はまあ手に負えるものでした。その当時、根津のこんなところで商売になるのか考えてもみなかったことで、とにかく両親含めて6人家族、いまどきマンション買うより広くて安いや、と家族を説得し、庭付きの家を処分して、この根津の町なかに引っ越しました。これがおっちょこちょいの家族で、この3階屋を見上げて「へえ、かっこいいや」というわけですよ。

建物を改修する

 次は改造の手配です。運送屋の季節労働者用の寮ですから、家の荒れはてようといったら。ベニヤで仕切って外はプラスティックの生子板を張ってあって、見るも無残。いい大工を紹介してもらったら、「こりゃ金食い虫だぜ。いくらかかるかわかんねえや」って言われました。でもこっちは本物の部材で再生させたいとすごい情熱でしたから。大工さんも一徹な人で、よくわかった、といったらあとはきかないことばかり。よくケンカもしました。1階の店の真中においてある大テーブルも、ある家具屋で静岡の若い作家の作品を気に入って、金がないので直接交渉しようと、ちょっと梱包の箱が店にあったのを密かにメモって静岡までいったりしました。それでもここはあくまでも住まい。1階はわが家のダイニングキッチンのつもりでした。そして上野の店の客で、もう少し静かで変わった所で食べたいという人がいたら、地下鉄で一つ乗って来てもらって、その間に私が自転車に材料積んで先回りして、ゆっくりおもてなししましょうと、そんなことを考えてました。だから最初は椅子も12しか入れなかった。

 ところが工事中から、何やってるんですかと見にくる人がひきも切らない。説明すると、そりゃオープンしたら一度来たいもんだ、との返事です。完成したときに、懇意の染織家に暖簾を頼み、今までの「くし一」から半歩前に進みたいと、「はん亭」という屋号をつけました。暖簾をあげると、毎晩押すな押すなの大盛況。湯島の店は若いのにまかせて、あわてて椅子を増やしました。そのうち、宴会がしたい、座敷はないかというので、私たちのテレビもタンスもある居間に通すことになりました。そのうち両親があいついで亡くなり、我々は近くに借家をかりて、ここは全面的に店になっちゃいました。

大正時代からの歴史

 この家を最初に建てた人のご紹介が遅れましたが、そもそもこの家は三田さんという方が経営する下駄の爪皮屋だったんです。ま、根津ではちっとは知られた大店で、建築は大正初期だということです。息子さんに店のあとを継がせようと東京商科大、今の一橋大学に入れたんですけれども音楽が好きで、後で著名な音楽家になられたそうです。通りにある風貴堂さんというのが茶道具を扱う店なんですが、その間にもう一軒ひっそりと暮らす家があります。ところがその人があるとき越すことになりました。その時に大家の三田さんからぜひ借りてくれないかという話がありました。私は店としては3階建て部分だけで十分だったんですが、また住まいにすればいいやと心を決めて借りることにしました。そしてその借りた場所に立派な土蔵があるなんて知りませんでした。また、建築家の浦さんご夫妻、前の大工さんにお願いしてすっかりよみがえらせてもらいました。今では土蔵の中が一番人気があるんですよ。座敷で串揚げというのは珍しいんです。揚げたてのアツアツを食べていただこうと思うと人手がうんとかかる。お客さん80人に従業員15人もいます。この根津ってのは谷底の職人町ですよね、なんとなく温かく、しみじみするような所です。この3階屋に初めて上がったとき、床の間のケヤキの板がすばらしかったですよ。想像しましたね、きっとここの主人が、近所の長屋の八つぁん熊さんを呼んで花見だ月見だと一杯やったんじゃないかと、上野の山もよく見えたでしょう。両国の花火もきっと見えたことでしょう。でもねえ、越してきたその冬の寒さったらなかったです。すきま風で石油ストーブも怖くて使えなかったし。でも、かつて三田さんもここで冬の寒い日に火鉢で暖をとっていたのかな、なんて考えたら楽しかったですよ。
 森さんは「根津や谷中の民家はちょっとやそっとでは残らない。地価が高く相続税、固定資産税の負担の重い今日の東京で、ただ古い家に住んでいるだけでは残すのは難しい。建物の風情が店に付加価値をつけ、料理にプラスして客を魅きつける店として、『はん亭』がある」と、このように書いてありました。森さんは、私が20年間にも及ぶこの建物との関わり合いを端的に私の言葉で表現してくれたと思います。私は常々、店の従業員にこの店が繁盛しているのは我々の作る料理が人一倍、並外れておいしいわけではなくて、きっと日中鉄筋コンクリートの塊の中で仕事をしてきたサラリーマンの人たちが、この古い木造家屋で食事をしたり、飲んだりすることでやはりその空気と雰囲気の味わいを感じるのだろうと、だからこの建物をもっと大切に扱わなければならないと申しております。この度、この建物が三船先生などのご尽力によって登録文化財ということになりました。名誉であるとともにこの建物が文化的な財産なのですから、もっとこれからも大切に維持・保存していかなければならないという私自身への戒めの印として、21世紀にいつまでもいい形で残せるように頑張っていきたいと思います

(以上「www.gakugei-pub.jp/kanren/rekisi/semi05/02-3.htm」より引用)

 上の話にもあるように、国の「登録有形文化財」に指定されています。

 機会があったら、改めて訪ねてみようと思っています。さて確認したので、本来の目的に。「谷中」は、坂の町。上野台地と西の本郷台地、その間には「藍染川」流域、東は台地のはずれ、と、どこに向かうにも坂を上り下りしなければなりません。

 「根津一丁目」交差点。「不忍通り」と「言問通り」がクロスする所。
「言問通り」。

  
 西が「弥生坂」。                      東が「善光寺坂」。

坂の途中にあった「下町みちしるべ 旧谷中坂町」。

 もともと谷中村に属していた。元禄年中(1688~1704)に寛永寺領となるが町家が形成されるにつれて、付近に善光寺があったことから谷中善光寺前町と呼ばれた。その後、玉村寺門前町と谷中村飛地をあわせ、明治2年(1869)谷中坂町と命名された。さらに同24年三方路と呼ばれたところと善光寺坂、三浦坂、藍染川端などを加えた。
 町名は町の中央に坂があったことにちなんで名付けられた。もとになった坂は「善光寺坂」と言われているが本町北側に位置する「三浦坂」も関係があったと思われる。・・・

 しばらく上って左折し、「旧藍染川流路跡」の道路(この道は、文京区と台東区の区界。かつてその区界を源流付近から「不忍池」まで探索し、blogにUpしました)を北西に進み、「三浦坂」方向へ。

 右折すると、



三浦坂

「御府内備考」は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり。一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政3年(1856)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
 三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治5年(1872)から昭和42年1月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。「東京府志料」は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。
 別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。

平成4年11月
         台東区教育委員会

 坂の途中にあったお店。

 猫グッズを扱う? 猫好きにはちょっと興味をもちましたが、素通り。

坂の上から西方を望む。左手はお寺がたくさん。

 「三浦坂」を上り、左に二度曲がると、「大名時計博物館」。

 大名時計博物館(だいみょうとけいかぶくつかん)は、東京都台東区谷中にある時計の博物館である。1974年4月に開設された。陶芸家である上口愚朗に収集された江戸時代の大名時計が公開されている。
(以上、「Wikipedia」より。)

 大ヒットした、NHKの連続テレビ小説(2013年)「あまちゃん」で、外観が「まごころ第2女子寮」として使われた、とのこと。

  

 その先を右に曲がると、「赤字坂」。

  
石段の下の道路。                      坂の途中から見上げる。

 「赤字坂」はそのネーミングのユニークさからタモリさんをはじめ、大勢の人が取り上げています。いずれも、曰く因縁の説明にはそれほど相違点はないようですが。

赤字坂(明治坂)

 坂上に明治の大財閥、渡辺家の屋敷があった。初代が明石屋治右衛門だったので略して「明治(あかぢ)」だ。九代目が東京渡辺銀行を設立したが、昭和2年の金融恐慌で破産、姉妹行のあかぢ貯蓄銀行も同時に閉鎖し、破綻した。根津や千駄木、谷中では損害を被った人が続出し、人々は皮肉って「赤字坂」といった。銀行によく「あかじ」とつけたものだ。
 実は東京渡辺銀行の破産は時の片岡大蔵大臣の失言によるものだった。

(以上、「台東区の坂-3: 坂道散歩」8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2005/09/post_950e.htmlから引用させてもらいました。

 坂道を下ると、さきほどの旧藍染川流路跡(区界)。
 
旧藍染川流路跡から望む。              坂の途中にある「案内図」。南北が正反対。

右が「台東区」、左が「文京区」。

 いよいよ「へび道」にさしかかります。曲がりくねり、道幅も狭くなります。

「交通標識」にも「蛇行あり」という言葉が(←)。

  
右が台東区、左が文京区(だと思います。振り向いて撮ったとすれば、ちょっと自信がありません)。

  
 「三崎坂」との合流も間近。                 振り返って望む。

 左の写真では右が台東区、左が文京区。右の写真では右が文京区、左が台東区、となります。
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