線路脇の解説板。
大正11年(1922)5月10日、相模川の砂利輸送線として、寒川駅~四之宮駅が開通しました。砂利輸送に始まり、貨物、旅客営業も行われましたが、昭和59年(1984)3月31日、営業から62年の歴史を静かに閉じました。現在、線路跡は一之宮緑道として整備され、当時の貴重なレールが約200mにわたり保存されています。また、西寒川駅跡には20mほどレールが残り、八角広場として多くの方の憩いの場となっています。
ここに残る一番古い「1909(明治42年)製」のレールは100年以上前に官営八幡製鉄所で造られたものです。現存する国産レールの最初期のものと言えます。また、製造年が西暦ではなく「2605」(昭和20年)と「2606」(昭和21年)の皇紀(※)の年号のレールが残っています。第二次世界大戦中から戦後の混乱期(1941~1948年)に製造されたレールは西暦ではなく皇紀の年号が刻印されました。特に「2605・2606」のレールは物不足の時代でしたので、数が少ないといわれています。
※皇紀とは、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする日本の紀年法です。
(当時の貴重な写真も載せられています。)
余談ですが、70年以上昔、小学生のころ、学校の踊り場にあった大きな鏡に「皇紀二千六百年記念」と書かれたのを今でも鮮明に覚えています。
歌の一節も。♪仰(あふ)げば遠し 皇国の紀元は 二千六百年
(皇紀2600年は1940年・昭和15年のこと)。戦後間もない頃は、皇国史観も健在だった?
皇紀2600年は、国威高揚の機会と、国力の対外的誇示の機会でもある国際的イベントもこの年に合わせて開催しようと日本政府により国を挙げて計画されていた。
だがこれらは、1937年(昭和12年)に始まった日中戦争の長期化に伴い、五輪は開催権を返上、万博は延期されることになった。しかし、東亜競技大会や東京の勝鬨橋、第一ホテル、馬事公苑、埼玉の戸田漕艇場のように、この一大イベントに合わせて開催された大会や造られた建造物もいくつか存在する。(「Wikipedia」より)
閑話休題
まだ先まで線路が続きます。線路の上も歩くことが出来る。
「西寒川駅」跡の「八角広場」に到着。
来た道(線路)を振り返る。
ここにもレールが敷かれてあります。
「鎌倉 江ノ嶋 大山 新板往来双六」
一の宮 宮田むらへ十八丁
もう一つ、記念碑がありました。
「旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡」碑。
碑の裏面。
この付近の今昔。
(「今昔マップ」より)
→が「西寒川駅」。1945年以前には、線路はこれよりも南下しています。○が海軍工廠、現在は工業団地。
この海軍工廠では何が製造されていたか? そしてその後に何が起こったか?
次回に続く。