おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その4。「泉沢寺と門前市」・世田谷ボロ市。井田堀。武蔵中原駅。川崎市高津区。巌川(いわがわ)橋。(「中原街道」をゆく。第3日目)。

2025-01-28 20:46:04 | 中原街道

「泉沢寺と門前市」。  

室町末期、世田谷からここに泉沢寺を移した吉良氏は税を免除して居住を促し、また門前市を開き、この地の繁栄を図った。夏の泉沢寺の市は冬の世田谷ボロ市と並び広く知られていた。

※世田谷ボロ市

毎年1月15・16日、12月15・16日の4日間、世田谷駅と上町駅の間で開催されている「世田谷ボロ市」。開催日には約20万人以上が訪れるという、東京を代表する伝統のイベント 。

ボロ市の始まりは、遠く安土桃山時代まで遡ります。当時関東地方を支配していた小田原城主北条氏政は、天正6年(1578年)世田谷新宿に楽市を開きました。楽市とは市場税を一切免除して自由な行商販売を認められた市です。当時は毎月一の日と六の日に6回開いていたので、六斎市(ろくさいいち)とも呼ばれていました。その後、北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康が江戸に幕府を開き、世田谷城が廃止されると、世田谷新宿が城下町としての存在意義を失い急速に衰えていきました。六斎市は自然消滅して姿を変え、何時のころからか年に1回、年の暮れに開かれる歳の市(市町)になっていきました。明治の世になって新暦が使われてから正月15日に開かれ、やがて12月15日・16日の両日、正月にも15日・16日の両日開かれるようになり現在に至ってます。

戦国時代に楽市として世田谷新宿に開かれた市は、徳川時代になって市町(いちまち)という名のもとに歳の市として開かれていましたが、明治20年代になって古着やボロ布の扱いが主流となっていき、いつしか農機具や正月用品が主だった「歳の市」は、その実態に合わせて「ボロ市」と呼ばれるようになりました。正式な名称となったのは第二次世界大戦後からですが、既に明治の終わり頃には世田谷の「ボロ市」が定着していました。

東京都世田谷区世田谷1丁目「ボロ市通り」とその周辺 「世田谷線」世田谷駅・上町駅、徒歩3分

(この項、「世田谷区」HPより)

「街道と地蔵尊」。

中原街道沿いに多く残る石仏、石碑は、特に細道や用水支流との交差点に目立つ。ここは、井田堀と交わるところ。この地蔵尊は歳の市や地元の祭の拠り所として大切な存在であった。

かつて、横には二ヶ領用水が流れており、「井田堀」として親しまれていたという。建立の目的は、「用水に落ちて亡くなった子の供養のため」「街道で行き倒れた旅人のため」など様々な言い伝えが残っている。付近にもいくつかの石像が残っている。

路上には、「井田堀」の絵柄。

JR南武線「武蔵中原駅」。左に行くと、「等々力緑地」。

先に進みます。 バス停「中原」。

「中原街道」の「中原」はここの地名には由来しません。

中原街道もしくは橘樹郡中原町の名称から採っている。既に省線長崎本線中原駅(なかばる-)が存在するため、省線と連絡運輸を行う南武鉄道側が配慮して、旧国名である「武蔵」を冠称した。なお、中原町の前身である中原村が成立する前には、駅周辺に「中原」と言う地名は存在しなかった。

広い農地が残っている。

ここから「川崎市高津区」。

この手前は、「中原区」。

「巌川(いわがわ)橋」。

「江川せせらぎ遊歩道」。

元二ヶ領用水支川である江川を整備して作られた遊歩道。 巌川橋近くは桜並木になっていて、桜の時期は楽しませてくれる。

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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その3。「小杉駅と供養塔」。寺子屋三左蔵。小杉十字路・府中街道。二ヶ領用水。(「中原街道」をゆく。第3日目)。

2025-01-27 20:33:16 | 中原街道

街道沿いには「供養塔」などが保存されています。「小杉駅と供養塔」。

川崎宿より50年遅れて小杉もまた宿駅に指定された。供養塔にも稲毛領小杉駅とある。台座の「東江戸、西中原」は街道が平塚の中原と江戸を結ぶ道であることを示している。

 

「寺子屋三左蔵」との看板が。

「三左蔵」が残る「小杉御殿町」は、江戸の昔、徳川家康公の鷹狩りの御殿があったことからその名前が付いています。隣には陣屋があり、今でも「小杉陣屋町」と呼ばれています。当時はまだ東海道が整備されておらず、この「小杉御殿」を経由する「中原街道」が、上方への主要な幹線道路でした。御殿のあった小杉は、東西を行き来する人々のための宿場町として、大いに栄えていたと言われています。

その当時から質屋や呉服屋を営んでいた小林家には、江戸時代の土蔵が二棟、今でも残されていました。一棟は衣装蔵、もう一棟は味噌蔵であったものと思われます。300年余りの間には、何度かの改修が施されていますが、その梁や基礎、壁などは当時のままに現存しています。土蔵の中の気温は、夏は涼しく、冬は暖かく保たれ、所蔵品は黴たり腐ったりすることなく、現代まで大切に残されていました。

今回、傷みがひどかった基礎や柱の一部を補修し、新たに階段やトイレ、キッチンなどを取り付けました。寺社建築専門の棟梁を数ヶ月にわたって招き、可能な限り釘を使わず、組木だけで建てられた当時の建築仕様を現代に再現しました。所有者である小林家の当主が代々「三左衛門(さんざえもん)」を名乗っていたことから、この蔵を「三左(さんざ)蔵」と名付け、皆様に公開することとしました。 300年を超えて呼吸し続ける木の温もりと、そこに流れるゆったりとした時間と空気を、ぜひ感じて頂ければと思っています。

プロデュース / 小林かおり

(この項「」HPより)

左手奥にある建物がそうだったようです。立ち寄れなくて残念!

「庚申塔と大師道」。

この庚申塔は「見ざる聞かざる言わざる」で知られる庚申信仰の最盛期、江戸時代のもの。道標を兼ね東江戸道、西大山道、南大師道と彫られている。昔はここから大師へ向かった。

「小杉十字路」。府中街道との交差点。

中原街道が府中街道と交差するこの場所は、明治後期から大正時代、特に賑わった。乗り合い馬車の停留所、料理屋、旅館、劇場、鉱泉宿、床屋、医院、郵便局などが集まっていた。

「神地(こうじ)橋」で「二ヶ領用水」を越します。

      

二ヶ領用水(にかりょうようすい)

多摩川などを水源とし、神奈川県川崎市多摩区(上河原堰・宿河原堰)から川崎市幸区までを流れる、全長約32km(宿河原の支流を含む)の神奈川県下で最も古い人工用水路である。2020年令和2年)3月10日に国の登録記念物に登録された

関ヶ原の戦いの3年前にあたる1597年慶長2年)に測量が始まり、14年の歳月をかけて完成。二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領と稲毛領にまたがって流れていたことに由来する。農業用水として多摩川から水を引いて造られ、かつては近隣の農業を支えた二ヶ領用水だが、時が流れて現在の沿川は宅地化が進んでおり、工業用水などに用いられるとともに、近隣住民の憩いの場としても親しまれている。

(この項「Wikipedia」より)

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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その2。「GATE SQUARE 小杉陣屋町」。原家旧住宅表門(陣屋門)。「旧名主家と長屋門」。石橋醤油店。枡形。(「中原街道」をゆく。第3日目)。

2025-01-26 20:14:18 | 中原街道

「多摩川」下流方向。

               中洲の先付近に「丸子の渡し」があった。

上流方向。「東急目黒線」。

川崎市側の河川敷。

           右手に「丸子の渡し」跡の案内板があるようです。

斜め右に進むのが「中原街道」。

       「中原街道」。この道は、かつての「中原街道」道。

「中原街道」案内板。

中世以前から相模国と武蔵国をつなぐ要路であった中原街道は、徳川家康の江戸城入城にも使われました。

立派なお屋敷の門。

「GATE SQUARE 小杉陣屋町」。

 

徳川家康が初めて江戸に入った天正18(1590)年、まだ東海道は整備されておらず、家康は平塚からほぼ直線で江戸に向かうこの道を通った。江戸時代の初め、江戸に通じる主要街道として使われたこの道も、東海道が整うと徐々にそれまでの賑わいを失っていく。しかし、その後も沿線の物資や農産物輸送などに欠かせない大切な道として、中原街道は人々の生活に深い関わりを持ち続けてきた。

原家旧住宅表門(陣屋門)

この敷地には、原家の旧母屋がありました。明治24年から22年の歳月をかけて大正2年二完成した旧母屋は、明治を代表する近代和風建築の一つとして、現在川崎市立日本民家園に移築・復原し、平成13年には篠重要歴史記念物に指定されました。

総欅造りの「薬医門」と呼ばれる様式で、特に親柱・扉板・彫刻懸魚などの装飾部分には、欅の巨木から製材した材料がふんだんんい使われています。親柱の基礎には安山岩と思われる切石を用い、屋根は切妻造り・波形の桟瓦を用いた瓦葺きで、江戸時代からの主要街道である中原街道に面し、由緒ある小杉の街の歴史を物語る佇まいが特徴です。

道沿いには随所に史跡と案内図が設置されています。

「旧名主家と長屋門」。

江戸時代この辺りの名主の代表格だった安藤家。代官から賜った長屋門が今に残る。門の内側にある高札のほか、この旧家二は古文書、絵図など貴重な歴史資料が多く残されている。

  幕越しに。

緑の目隠し幕で囲まれ、中をうかがうことはできません。広い敷地が整地されています。

隙間から。

長屋門には3 枚の高札が掲げられている。どれも「太政官布告」である。 分かりやすく文を変えて紹介すると、1つは、幕府が大政奉還をした翌年のもので国民に布告した「定」である。

1. 人たるものは、五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の道を正しくすべき事
1. 妻や夫をなくした者、幼くて親のない者、老いて子をなくした者、病によって不具になった者を、あわれむべき事
1. 人を殺し、家を焼き、財を盗むなどの悪業あるまじき事

慶応4 年3 月 太政官

また、次のような「定」もある。

「みだりに武士も平民も本国を脱走するようなことは、かたく止められている。万一脱国の者があり、不法の所業を いたした節は、上にたつ者の落度である。脱走の者を抱え、不法の事が生まれ、厄難、災害などにたちいった場合は、その主人が法を破った罪となるべき事」

慶応4 年3 月 太政官

これら2 枚の高札の出た慶応4(1868)年3 月、安藤右衛門は綱島の名主飯田助大夫とともに江戸攻撃の官軍が二子に陣を構えている陣所に呼び出され「官軍につくか幕府につくか、態度をはっきりせよ」と、迫られている。
長い間、幕府と深いつながりを持っていた人々にとっては、まさに大きな動乱の時であった。 残り1 枚の高札は、明治3(1870)のもので、「大勢で徒党を組み、上をはばからぬ所業を行えば、たとえ如何ほど道理至極でも、御取りわけなりがたい。発頭 人は申すに及ばず、同類の者まで厳重にとがめる」というものだ。 これらの高札は、西明寺参道前の街道の右横に立てられたといわれる。 幕末から維新へ、時代の大きな転換期の動揺がひしひしと伝わる思いである。 この小杉宿を通る人々や村人は、この高札を息をのんで見ていたに違いない。

(この項、「」HPより)

「小杉陣屋町」信号。

明治3年創業の石橋醤油店。

十字路を更に先へ進むと(タマガーデンの先)右側に、昭和50年くらいまで高い煙突があった。「石橋醤油店」という看板の原家がある。

この家は明治3(1870)年から、農業をしながら醤油造りを始めた。大正12(1923)年から専業となり、キッコー「文山」のラベルを貼り、昭和26(1951)年まで製造していた。
昔は街道を利用して天秤棒に桶をさげて、東京方面からも買いに来る人が沢山いた。昭和8(1933)年頃には、トラックを使って運搬するほど盛んだった。
毎年、冬になると新潟から醤油造りの職人が4・5 人来て、大変活気があったという。
東京から「こやし」を運んで帰る農家の人々や、付近の人達も買いに来ていた。
当時、ほとんどの農家でも醤油を自家製で造っていたが、塩からくて美味しくないので「文山」と混ぜて味を良くして美味しくしたり種として使っていた。
平成25 年7 月まで醸造工場の建物があり、明治から昭和にかけての醤油造りの一端を見学出来たが、解体され、駐車場や2階建て住宅(4棟8軒)に変わってしまった。商標「文山」のある蔵はそのま ま保存されている。

            

(「同上」HPより)

※「新小杉開発株式会社」HPでは、歴史に詳しい地元の方によって、武蔵小杉の歴史を写真入りで詳細に記述しています。これまで、この地域にまったく無縁であった当方には大変参考になり、たびたび引用させていただきました。深くお礼・感謝申し上げます。

 

枡形。左折し、右折する。

直線化する道路が途中まで完成。(「同上」より)

 けっこう道が狭く、車も多い。

この付近の今昔。

(現在)枡形が現在も存在。

(1880年代)

(「同上」HPより)

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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その1。丸子橋。丸子の渡し。旧橋の親柱。武蔵小杉・タワーマンション群。(「中原街道」をゆく。第3日目)。

2025-01-25 15:50:53 | 中原街道

今回は、「多摩川駅」まで、都営三田線・東急目黒線「海老名」行きの電車で向かいました。

1月18日(土)。晴れ。けっこう風が冷たく寒い一日です。

「桜とあじさいの町 たまがわ」。

「多摩川」土手に出ます。

対岸遠くに真白の富士山が(↓)。

丸子橋。

丸子橋は、丸子の渡しがあった場所からおよそ200メートル上流に中原街道の新橋として、1934年(昭和9年)に完成した。完成当時は片側一車線道路の橋で、その後、老朽化と交通量増大に対応するため、東京都と川崎市が共同で架け替え事業に着手し、2000年平成12年)5月に片側2車線の新しい橋への架け替えが完成した。これが現在の丸子橋である。

2002年(平成14年)に丸子橋北詰付近にアザラシのタマちゃんが出現し、マスコミで取り上げられ、見物客も訪れ賑わった。

様々なテレビドラマ等のロケ地としてよく使用される。丸子の渡しに通じていた中原街道旧道の坂道部分は桜坂と名付けられ(大田区田園調布本町)、歌謡曲にも取り上げられて桜の名所となっている。

丸子の渡し

古代から多摩川のこの地に丸子の渡しと呼ばれる渡し舟が存在した。武蔵国荏原郡橘樹郡との境界を多摩川が流れ、この地点が両郡の交通接点だった。古代の東海道もこの渡しで通過することとなった(771年以降)。府中市史によると承和2年(835年)には既に運航されていたとの記述がある

東京方面への唯一の交通機関だったが、悪天候の日には運航中止となるため、1884年(明治17年)から橋の建設のための運動が行われた

その後、架橋により丸子の渡しは1934年(昭和9年)12月に廃止された。2006年に地域住民により「丸子の渡し復活協議会」が結成され、2014年から年に一度「丸子の渡し」を再現するイベントが開催されている

(この項「Wikipedia」参照)

※今の中原街道は多摩川の堤防で切れているが、大正8(1919)年までの街道は川岸の渡船場、そして対岸の東京と結ばれていた。
丸子の渡しの渡船の権利は、大正15(1926)年に道路法が改正されるまで、対岸の下沼部村と上丸子村、そして大貫重兵衛の3者が持っていた。そして利益を分けあっていた(10日間ずつ管理していた)。
江戸時代には、渡船の権利は東京の下沼部村と上丸子村の3人が持っていた。上丸子村の3人は、二子村の大貫市郎兵衛に渡船の権利を55両で譲渡したので、下沼部村と大貫市郎兵衛の2者が渡船の権利を持つことになった。
宝暦10(1760)年、上丸子村は「市郎兵衛が持っている権利を上丸子村に譲れ」と訴えた。その結果、市郎兵衛の権利の半分を上丸子村に譲ることになった(下沼部村と上丸子村と大貫市郎兵衛の3者となる)。
多摩川の水かさが増すと、渡船の料金が高くなるようになっていた。
普通の深さ(1.5m)より更に1.5m水かさが増すと「渡し止め」になり、船は動かなくなった。
渡船は4月から10月までの時期に行い、水枯れの10月から3月までの間は、仮橋を架けていた。仮橋は長さ70m、幅は1.8mの木橋だった。しかし砂利採集船の往来が激しくなると、橋を架けることができなくなった。
渡船は2隻あり、船頭が1~2人乗船していた。船の上には厚板が敷きつめられ、人が乗るとつかまる所がなかった。
荷車は、船の高さに合わせた船着場から乗せた。馬力(馬車)を乗せる時は、馬が暴れだして危険なことがよくあったという。
「丸子の渡し」は昭和9(1934)年12月に廃止になるまで(丸子橋の開通)、東京-中原(平塚市中原)を結ぶ唯一の交通機関だった。
昭和初期には東京五反田・三軒茶屋方面に、田畑の肥料として人糞を集め運ぶ街道として栄えた。中原街道のことを「こやし街道」と呼んだほど、沢山の肥桶を運ぶ車が通行していた。
夜明け前の早朝から家を出て愛宕下に昼頃着き、帰りは夕方暗くなってからだったという。急坂が多く、帰りは人糞を荷車に積んでいるので、かなり苦労したという。

           

(この項「」HPより)

 旧橋の親柱。

この付近の今昔。

                             (現在)対岸・左端に少し見えるのが「中原街道」。

河川敷が広く整備されていて、渡し場の痕跡はない。

                             (1880年代)「旧中原街道」は渡し場をはさみ、直線で西に進む。

さて、「丸子橋」を渡り、対岸へ。

     左に見えるタワーマンション群は、武蔵小杉駅付近。新旧の「中原街道」は、橋を渡ったあと、右に曲がっていきます。

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「JR・五反田駅」~「東急多摩川線・沼部駅」。その5。「桜坂」・福山雅治。多摩川・「丸子橋」。沼部駅。「丸子の渡し」跡。(「中原街道」をゆく。第2日目)

2025-01-20 18:34:50 | 中原街道

右肩を骨折して2か月が経ちました。まだまだ思うように右手が動かせず、リハビリが続きそうです。

それでも次第に普段通りの生活が出来つつあります。

・・・

さて、「中原街道」歩きの初日・最終回。

「中原街道」。

 「呑川(のみかわ)」。

※「どんかわ」ではない。

呑川という名称の語源として、その昔ウシが誤って川に落ちを飲んでしまうことがあったから、などといった説がある。

 

坂道が続きます。

「東急池上線・雪谷大塚駅」。

「環八通り」をくぐり、

 左の道を進みます。

 「桜坂」。

東急多摩川線沼部駅から東光院前を通り北東へ向かうと、田園調布本町19番あたりから石垣にはさまれた切通しの坂道になります。これが桜坂で、坂名は坂道の両側に昭和初期に植えられた桜にちなむものです。
この坂は旧中原街道の切通しで、昔は「沼部の大坂」といい、勾配がきつく荷車などの通行は大変であったようです。また、かつてこのあたりの村落(沼部の村落)は荷車、旅商人の往来でにぎわい、腰掛け茶屋などが坂道の両側にあったともいわれています。
坂下には、かつて六郷用水が流れていたましたが、下水道の普及につれ、この用水も埋められました。しかし、少しでも昔の姿を残そうと、その一部を自然の湧水を使って「六郷用水の跡」とし、現在は保存しています。

                                  (「大田区」より)

ここは、福山雅治の曲にうたわれて有名になった「桜坂」。

♪君よずっと幸せに風にそっと歌うよ愛は今も 愛のままで 揺れる木漏れ日 薫る桜坂悲しみに似た 薄紅色 君がいた 恋をしていた君じゃなきゃダメなのにひとつになれず

切通しに架かる赤い橋。

振り返る。

 

この坂道は、旧中原街道の切通しで、昔は沼部大坂といい、勾配のきつい坂で、荷車の通行などは大変であったという。今では緩い傾斜道となっているが、坂の西側に旧中原街道のおもかげを残している。坂名は両側に植えられた桜に因む。

曲名のモデルとなった場所は、『未来日記V』のロケ地でもあった東京都大田区にある桜坂だった。福山はデビュー前に桜坂の近所に住んでいたことがあり、当時の思いや現在の心境を詞をつづり、メロディーを付けたという。桜坂は観光名所となり、『未来日記V』の舞台となった当地の陸橋には落書きや恋人同士の愛の誓いが書き込まれたこともあった。・・・

福山雅治本人のコメントによると、ドラマ『ひとつ屋根の下』(フジテレビ)が終了したあと川崎から沼部駅周辺へ引っ越した。沼部駅近くの中原街道に「桜坂」があり、当時よくその坂を通っていた想いからタイトルを「桜坂」にしたと由来を語った

(この項「Wikipedia」参照)

・・・

その先には、「六郷用水」跡があります。

 

東急多摩川線・沼部駅。

その先、「多摩川」土手沿いの道を進むと、

「丸子橋」が見えてきます。土手に上がると、

目の前に河川敷と「丸子橋」が。

 「丸子橋」。上流方向。

「丸子橋」手前の河川敷付近にかつての「丸子の渡し」跡があります。

下流方向。新幹線が通過中。

都県境歩きの後半、神奈川と東京の境にもなっている「多摩川」を歩いて河口まで下りました。

久々の多摩川でした。

「丸子橋」から対岸の神奈川県へは次回に。

今回は、ここまで。

沼部駅に戻ります。

東急線路線図。

この付近は、東急の路線が至るところに。初めて乗る「多摩川線」で「蒲田」まで戻り、JR線に乗り換えます。

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「JR・五反田駅」~「東急多摩川線・沼部駅」。その4。勝海舟。洗足軒。鳳凰閣(旧清明文庫)。墓所。(「中原街道」をゆく。第2日目)

2025-01-19 18:50:17 | 中原街道

「勝海舟別邸(洗足軒)跡」解説板。

勝海舟(1823~99)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。
 鳥羽・伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。
 その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。
 その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治二十四年(1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。

   池のもに 月影清き今宵しも
            うき世の塵の跡だにもなし

 晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。

   うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
            秋はにしきを織りいだすらむ

 明治三十二年(1899年)七十七歳で没しましたが、『富士を見ながら土に入りたい』との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。
 石塔の『海舟』の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。
              平成十一年三月

  勝海舟没後百年を記念して 公益社団法人 洗足風致協会

勝海舟と洗足軒 

                  旧清明文庫

昭和3年に、財団法人清明会が、海舟の墓所や別荘「洗足軒」の保存、海舟に関する図書の収録・閲覧・講義の開催を目的として清明文庫を開設しました。洗足軒は、昭和2年には、現在の勝海舟記念館(旧清明文庫)の西側、この前庭の付近へ移築されました。戦後、洗足軒は原因不明の火災により焼失してしまいました。海舟ゆかりの洗足池で、大田区は、国登録有形文化財の旧清明文庫を保存・活用した「勝海舟記念館」を整備し、海舟の想いと値域の歴史を未来に伝えてまいります。

旧清明文庫

大田区立勝海舟記念館は、国登録有形文化財である旧清明文庫を活用し、令和元年9月7日(土曜日)に開館しました。
海舟の功績や大田区との縁を紹介するとともに、海舟の想いと地域の歴史を伝える記念館です。

記念館入口。 

清明文庫の建物

 

この建物は昭和3(1928)年に竣工し、外観正面中央部のネオ・ゴシックスタイルの柱型4本が特徴的で、内部はアールデコ調の造作が施されている折衷様式の建築です。

左右対称にデザインされ、正面中央はネオゴシックスタイルの柱型が4本屋根まで延びている。間窓や内部のドアなどには、アール・デコ調の植物をモチーフにしたと思われる幾何学文様の格子が入れられ、中央ホール右手にある階段の木製手摺部分にもアール・デコ調の彫物が施されている。床の幾何学文様のモザイクタイル、腰高に貼られているクリンカータイルもよく保存されている。平面はほとんど、もとのままであり、一部建具の入れ替えはあるものの、全てのタイプの建具が残されており、昭和初期(1920年代後半~30年代)の会館建築の一つとして、貴重な建造物である。

  勝海舟胸像。

(「」より)

幼名および通称麟太郎(りんたろう)。義邦(よしくに)。明治維新後は安芳(やすよし)と改名。これは幕末に武家官位である「安房守(あわのかみ)」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。海舟はで、佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったものだが、「海舟」という号は本来誰のものであったかは分からないという。氏族としては物部氏を称し、氏姓+諱の組み合わせで物部義邦[3]物部安芳[4]という署名や蔵書印も残している。

曽祖父は視覚障害を持ち新潟の農民に生まれ、江戸に出て米山検校となる。祖父はその九男男谷平蔵。父は男谷平蔵の三男、旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は勝元良(甚三郎)の娘信。幕末剣客男谷信友(精一郎)は血縁上は又従兄で、信友が海舟の伯父に当たる男谷思孝(彦四郎)の婿養子に入ったことから系図上は従兄に当たる[5]家紋は丸に剣花菱

10代のころから島田虎之助に入門し剣術を学び直心影流剣術免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は参議海軍卿枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。

李鴻章を始めとするの政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福沢諭吉(福澤諭吉)らの明六社へ参加、興亜会亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。

文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町[注釈 1]の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した[注釈 2]

曽祖父・銀一は、越後国三島郡長鳥村[注釈 3]の貧農の家に生まれた盲人であったが、江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得て、朝廷より盲官の最高位検校を買官し「米山検校」を名乗った。銀一は三男の平蔵に御家人・男谷(おだに)家の株を買い与えた[注釈 4]。銀一の孫で男谷平蔵の末子が海舟の父・勝小吉であり、小吉は三男であったため、男谷家から勝家に婿養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年(1575年)以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父に当たる命雅(のぶまさ)が宝暦2年(1752年)に累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。

幼少時の文政12年(1829年)、男谷の親類・阿茶の局の紹介で江戸幕府11代将軍徳川家斉の孫・初之丞(家斉の嫡男で後の12代将軍徳川家慶の五男、後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が天保9年(1838年)に早世したためその望みは消えることとなる。同年、父の隠居で家督を相続[7]

生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らした。

「両国小学校」脇の公園に「勝海舟の生誕の地の碑」。由来碑。

 勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政6年(1823)1月13日この地・男谷精一郎邸内で生まれた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦海臨丸艦長として太平洋を横断渡米した。
 慶応4年(1868)3月13日、高輪薩摩邸において、大統督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
 明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去、行年77歳であった。墓は、洗足池畔に建立されている。
平成元年 墨田区 (幕府講武所剣術師範役元男谷邸跡)

「勝海舟揺籃の地」の碑。江東橋を少し南に下った建設会社入り口にある。
揺籃とは幼児期のこと。この辺りが当時の勝家屋敷でした。勝の生誕の地である男谷家を出た勝家はその後→天野右吉の敷地→山口鉄五郎の敷地と引越し、その後に移り住んだのがここ。旗本・岡野孫一郎の敷地です。3回目の引越し先で、4度目のお屋敷の跡。なお、40歳代頃の銅像が、隅田川河畔の墨田区役所にあります。

「国道15号線」と「日比谷通り」の合流点にある「三菱自動車工業」本社ビルのところには、

「江戸城開城 西郷南洲・勝海舟會見之地」碑。

「田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内」

 この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。

勝夫妻の墓所。

「勝海舟夫妻の墓」解説板。

・・・維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩。書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。・・・

そこから洗足池を望む。

足下の歩道には、「勝海舟記念館」の絵柄が。

「中原街道」を「洗足池」からさらに先に進みます。

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「JR・五反田駅」~「東急多摩川線・沼部駅」。その3。「洗足池」。日蓮上人袈裟掛けの松・御松庵/妙福寺。(「中原街道」をゆく。第2日目)

2025-01-18 19:34:00 | 中原街道

2カ所の病院への「労災」の手続きも終わり、あとはリハビリに専念するのみ、と。

さて、

「洗足池」。初めて訪れました。

               思ったよりも、けっこう大きな池。

東京都大田区南千束の洗足池公園内にあるである。東京都指定名勝。

園内にはホタルの自生化に取り組む水生植物園、厳島神社が鎮座する弁天島、池月橋など見どころも多い。サクラ(桜)が群生する「桜広場」「桜川」も人気が高い。

湧水池であり、流れ込むはないが、付近一帯には農家が作物の洗い場として利用していた大小の湧水が多くあり、用水路を通して池に流れ込んでいた。洗足池の主要水源となる湧水は4か所あったとされ、現在は清水窪弁財天(大田区北千束1-26。東京の名湧水57選の一つ)の湧水が残っている。今も水量が豊富で、浸透管を用いて洗足池に流れている。

この地域の古い地名は「千束」(せんぞく)であって、その名は平安時代末期の文献にも見られる。由来としては仏教用語千僧供料(せんそうくりょう)の寺領免田であって、千束の貢租(税)から免除されていたとする説や、「大池」(洗足池の別称)を水源として灌漑に利用されたので稲千束分の税が免ぜられていたとする説などがある。

のちに、身延山久遠寺から常陸湯治に向かう途中の日蓮上人が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となった。

(歌川広重「名所江戸百景」より)

かつては、池のほとりに勝海舟晩年の邸宅「洗足軒」があったが戦災で焼失。現在は勝夫妻の墓が残り、大田区の文化財に指定されている。

幕末、勝は江戸総攻撃中止と江戸城無血開城を西郷隆盛に直談判するため、官軍薩摩勢が本陣をおいた池上本門寺へ向かう途中、洗足池のほとりで休息した。明治維新後、池の風光明媚を愛した勝が移住し、西郷もここを訪ねて勝と歓談したと言う。勝夫妻の墓の隣に「西郷隆盛留魂碑」が建つ。これは、西郷が西南役に倒れた後、当時の東京府南葛飾郡の浄光院境内に勝が自費で建てたもの。1913年大正2年)に荒川放水路開鑿に伴い、当地に移建された。

2019年令和元年)9月7日、洗足軒隣接地に勝海舟記念館が開館した。

(この項、「Wikipedia」参照)

                             (現在)周囲は、すっかり高級住宅街になっている。

                                            (1880年代)「洗足池」の脇を中原街道が続く。

       「御松庵」と記されている。

勝海舟晩年の邸宅「洗足軒」解説板。

現在は、右手の「大森六中」敷地内になっている。

その手前に、

日蓮上人袈裟掛けの松 由来」案内板。

弘安5年(1282)日蓮聖人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍らの松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称せられるようになったといわれる。天保期(1830~1843)の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面におおい長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」程であったと記されている。なお、現在ある松は3代目であると伝えられる。                                                                       

 「妙福寺」山門。

当寺院は、もともとは洗足池の池畔にあった鎌倉時代に創建された「御松庵」という庵に由来する。

「御松庵」。

洗足池の 畔に昔から松が植わっていたことは確かなようで、江戸時代の浮世絵師、初代歌川広重の『名所江戸百景』のなかでは「千束の池袈裟懸松」、江戸近郊の地誌である『江戸名所図会』には「千束池袈裟掛松」として描かれました。現在でも妙福寺には、その風景を想像させる松が植わっており、名勝としての歴史的な景観を構成しています。

静寂な雰囲気の境内。

洗足池。

境内から。

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「JR・五反田駅」~「東急多摩川線・沼部駅」。その2。日の入りが、しだいに遅く。「平塚橋交差点」。「平塚の碑」。旧道。立会川。「さいかち坂」。東急大井町線「旗の台駅」。(「中原街道」をゆく。第2日目)

2025-01-16 19:41:14 | 中原街道

冬至から一ヶ月程過ぎました。日の入りがだんだん遅くなって、5時過ぎでもまだ明るい。

西の空。

        北の空。

寒さはいよいよ本格的になりそうですが、帰途が楽になってきます。

・・・さて、「中原街道」をゆく、第2日目その2。

現中原街道に合流します。「平塚橋交差点」。

その先、右手の「バーミアン」の階段に「平塚の碑」案内板。

 

今から約九百年前の平安時代、出羽(現東北地方)で力をふるっていた清原氏の争いごとを 源義家がおさえようとした「後三年の役 」での ことです。兄の義家を助けるために京都からか けつけた新羅三郎(源義光)の活躍もあって、 戦いは無事におちつきました。「ご苦労であった。 わしも間もなくしたら京へ戻るが、おまえはひ と足先に帰って休むがよい」 義家の言葉に安心した新羅三郎は兵隊を引き 連れ、出羽から京都へと戻ろうとしていました。 「もうそろそろ日が沈むころじゃ。夜道を進んで いくのは危ないのう。よし、このあたりで野宿 することにしよう」。新羅三郎はこの平塚のあた りで兵隊たちを止め、一晩休むことにしました。 みんなが寝静まり、聞こえてくるのはスズム シとコオロギの鳴き声だけになりました。する と突然、盗賊とうぞく たちがあらわれて、眠っている新 羅三郎や兵隊たちに次々とおそいかかってきた のです。盗賊たちに立ち向かうこともできず、 多くの兵隊たちはその場で命をおとしてしまい ました。 これをあわれんだ村人たちは、亡くなった人 たちを葬り、広さ十坪(約33m2 )ほどの塚を築いたということです。 ほかにも、昔、このあたりに住んでいた「ひ らつか組」という野盗を、直江山城守が退治し て彼らの武器と一緒に埋めたのが「平塚」だと いう説もあります。

【平塚の碑】 この塚は次第に忘れ去られ、いつしかなくなってしまいましたが、太平洋戦争のあと、この あたりをほりおこしたところ、よろいやかぶと、刀剣などの残片がたくさん見つかりました。 同じころ、近くに住む人たちがたびたび不吉なことにあうので、伝説を知る人の間で「塚が失 われたことによるたたりではないか」といわれるようになり、昭和二十七年(1952)に平塚 の碑が建てられました。昭和三十三年(1958)からは、毎年五月に慰霊祭が行われています。

 

現中原街道を進みます。

「旗の台一丁目石造庚申供養塔」。

古くから旧中原街道に面して建てられていた庚申供養塔である。高さ92㎝、幅38㎝の、安山岩でできた板碑型のものである。
 寛文5年(1665)に、旧中延村の庚申講中によって造立されたもので、区内に残存する五〇基余の庚申塔の中では三番目に古いものである。
 供養塔の中央に、「南無妙法蓮華経」の髭題目が彫られ、7名の施主名が書き連ねられている。その中に、旧中延村村民に多い鏑木・石井等の姓があるところから、当村民が建てたことは明らかである。旧中延村は、村民のほとんどが日蓮宗の檀徒であったため、七字題目を彫った供養塔が造立されたものと思われる。
 本塔は、日蓮宗系の髭題目が彫られた庚申塔としては珍らしく、発表されているものとしては最古のものである。日蓮宗の影響か、三猿・日月の無いのが特色である。向かって右上部に欠損があるが、保存状態は良好である。
 全村日蓮宗といわれる旧中延村に、日蓮宗の僧が指導したと思われる庚申講があったことを示す資料として貴重である。

その先の角には、

「中原街道高札場跡」。

高札場は札場(フダバ)ともいい、江戸時代に高札が掲示された場所をいう。高札とは法度(法令 禁令)などを板札に墨書きしたもので町辻、橋詰など多くの人々の目にふれる場所に設置されここ中原街道は江戸から相模国中原へ向かう主要な道路であった。当敷地は芳根氏で徳川時代から大正時代まで俗称を《札場》と呼ばれていた。なお同所には東京都認定天然記念物の大欅(樹齢約400年)が昭和41年まであった。

「昭和大病院前交差点」から旧道は左に曲がって進む。

 遠くに「昭和大病院」。

 

                                                                 (1880年代)かぎ型の道が旧道。   (現在)旧道が残る。

 

「立会川」暗渠部分か? 公園・緑道になっています。

現中原街道方向を望む。

「昭和大学通り」。「旗の台駅」への商店街。

「さいかち坂」を上がっていきます。 

途中の風景。「香蘭女学校 中等科・高等科」。

中原街道が立会川と交さする荏原新橋付近から、大井町線ガードまでを登る坂で、大正時代までは右手に清水山、左手に亀の子島(山)の崖と崖にはさまれ、樹木と雑草のしげる、昼なお暗い坂であったといわれる。名称の由来は、坂の右手に「さいかち原」があったとも、両側にさいかちの木があったとも伝えられている。近年までの坂の登り口(旗の台駅の入口側)にさいかちの木が残っていた。

「東急大井町線」ガード。左手に「旗の台駅」。

「ふれあいロード」。

「環状7号線長原陸橋」をくぐります。

                           「南千束」。

この先しばらく進むと、右手に「洗足池」が広がります。

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「JR五反田駅」~「東急多摩川線「沼部駅」。その1。成人式。「目黒川」。TOCビル。「中原口信号」旧中原街道。「子別れ地蔵」。「旧中原街道供養塔群」。(「中原街道」をゆく。第2日目)

2025-01-15 20:15:26 | 中原街道

「中原街道」歩き第2日目。

1月13日(祝)。快晴。

孫が成人式。晴れてよかった! 風は強く冷たいが。中学時代の友人と連れ立って出かけた。背広姿も様になってきたか?

というわけで、当方、寒風の中をJR「五反田駅」から東急多摩川線「沼部駅」まで。

途中、洗足池と「勝海舟記念館」で時間をとってしまい、「丸子橋」の手前まででした。

五反田駅前の案内図。

「大崎橋」。

「目黒川」。 

東京都世田谷区三宿の東仲橋付近で北沢川烏山川が合流して目黒川となり南東へ流れ、品川区の天王洲アイル駅付近で東京湾に注ぐ。河口付近では古くは「品川」(しながわ)といい、古代から中世まで武蔵国品川湊があった。品が行き交っていたであったことから、地名「品川」の起こりとされる。

1957年(昭和32年)には、台風22号による集中豪雨で氾濫が発生したことがある

(この項「Wikipedia」参照)

右手の大きなビルは、「TOCビル」。

TOCビル

東京都品川区西五反田7丁目に位置する、商業施設コンベンションセンター等の複合施設である。TOCとは「東京卸売センター(Tokyo Oroshiuri Center)」の略称である。

星製薬工場跡地に建設された地下3階地上13階の建造物で、落成当時は日本最大の容積率であった。事務所・ショールームとして貸し出されている部分、飲食店舗や小売店舗群、展示ホール、貸し会議室等からなる。

「中原口信号」。

「国道1号線(第2京浜)」と交差。右手に「中原街道」

右手の道に進む。

高速道路下を抜け、旧中原街道に入ります。

細い上り坂の道。

 

上りきった先の右手角に「子別れ地蔵」。

享保12年(1727)に建てられた「子別れ地蔵」と呼ばれた地蔵菩薩です。ここは、かつて桐ヶ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親がその亡骸を見送った場所といわれております。

その先、左手には、

「旧中原街道供養塔群」。

 ここの供養塔群は、かつては、現在地から北方約一〇メートル、旧中原街道と碑文谷道の交差点付近にあったが、昭和三十八年(一九六三)の区画整理の際、現在の場所に移された。
 ここには四基の供養塔があり、四基とも、安山岩でできている。
(1)中央の大きい石造地蔵菩薩供養塔は、丸彫地蔵菩薩立像で、像身ーニ五・〇、総高一九ニ・〇センチメートルに及ぶ。造立年代は明らかではないが、台石に刻まれている一七ヵ村の村名や形態からみて、江戸中期と考えられる。
(2)右手には、寒念仏供養のため延享三年(一七四六)に造られた、像身五六・〇センチメートルの石造地蔵菩薩供養塔があり、舟型光背地蔵菩薩半肉彫立像で、右手に錫杖、左手に宝珠を持っている。
(3)右手奥の石造馬頭観世音供養塔は、舟型光背馬頭観世音半肉彫立像で、像高が九六・〇センチメートル。元文元年(一七三六)の造立で、右手は上方が輪宝、下方が矢、左手は上方が棒状のもの、下方は欠損していて不明、中央の手は合掌している。江戸中期に、戸越本村の馬を農耕や運送に利用していた村民が、馬持講を組織していたことを示している。
(4)前記三基が供養塔であるのに対し、左手前にある舟型光背聖観世音菩薩半肉彫立像は、石造墓碑であり、正面に「妙法珠妙躰霊」の銘文がある。貞享年間(一六八四~八七)に建てられたもので、像高は八六・〇センチメートルある。上方に妙法とあるので、日蓮宗の檀徒であることが分かる。この墓碑がいつ供養塔群の中に入ったのか明らかではないが、他の場所から移されたものと推定される。
 これらが造立された江戸中期以降の、庶民の信仰の状況を示すものとして貴重である。

 「旧中原街道」の標示。

右手奥に「星薬科大学」。

 「旧中原街道供養塔群(二)」。

旧中原街道は江戸虎ノ門より相模国平塚に至る道路で、かつては東海道に並行した脇街道として旅行者や物資の輸送にりようされた。本供養塔群は旧戸越村地内の旧中原街道に沿った所に六基存在する。・・・これらの供養塔群は、旧街道時代の状態がよく遺され、江戸期の街道の面影を伝えるものとして、また戸越村・桐ヶ谷村の民間信仰を今に伝える民俗資料としてその価値が高い。

この付近は、道路拡張予定地。

旧道も大きく変化するのでは?

来た道を振り返る。

この付近の今昔。

                                   (現在)現中原街道の1本北西側の道が旧中原街道。

                             (1880年代)農村地帯となっている。

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「虎ノ門駅」~「五反田駅」。その5。英 一蝶(はなぶさ いっちょう).。二本榎。高輪消防署。「柘榴坂」。JR五反田駅。(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-13 13:34:18 | 中原街道

英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日1724年2月7日))は、日本江戸時代中期(元禄期)の画家芸人俳号は「暁雲(ぎょううん)」「狂雲堂(きょううんだう)」「夕寥(せきりょう)」。

元禄11年(1698年)、今度は生類憐れみの令に対する違反(後述)により、三宅島流罪となった

乏しい画材を駆使しての創作活動であったが、江戸の風俗を活き活きと描いたり、島民の求めに応じて描いたりした多数の縁起絵などが残されている。一蝶はいつも江戸の方角へ机を向け、創作活動をしていたと伝わり、そこから「北窓翁」の雅号が生まれた。この時期の風俗画は、推定も含め『四季日待図巻』『吉原風俗図巻』『布晒舞図』『松風村雨図』の4点確認されている。画材こそ良質とはいえないが、江戸を偲び、我が身を省みて心情を託して描かれた作品群は、一蝶の代表作の一部として知られる。この時期に描かれた作品を特に島一蝶と呼ぶ。島一蝶は、一蝶を支援した御用船主の梅田藤右衛門がいた新島には16点が伝わり、御蔵島にも絵馬や『鍾馗図』が残る。一方、三宅島には『七福神図』一幅のみ、これは火山噴火や火災で失われたほか、江戸での島一蝶人気を受けて、島を訪れた富山の売薬行商人が買い漁り、持ち出されたためである。

島では、絵を売った収入で居宅を購入して「家持ち流人」となって商いも営み、島役人ともうまく付き合い、流人としてはゆとりのある暮らしをしていた。世話をしてくれていた名主の娘との間に、子を成している。また、配流中の元禄15年(1702年)に、随筆『朝清水記(あさしみずき)』を記す。

宝永6年(1709年)、将軍徳川綱吉の死去による将軍代替わりの大赦によって許され、12年ぶりに江戸へ帰る。このころから英一蝶と名乗り、深川宜雲寺に住まい、市井の風俗を描く人気絵師として数々の大作を手がけた。また、吉原での芸人活動も続けていたらしく、豪商の奈良屋茂左衛門紀伊國屋文左衛門らとの交遊の話が伝わる。

江戸に帰った一蝶が、島流し以前に自身が描いた四季絵を見せられて、喜び懐かしんで書いた一文が『浮世絵類考』に収録されている。「此道(岩佐又兵衛菱川師宣などによる画)予が学ぶ所にあらずといへども 若かりし時あだしあだ浪のよるべにまよひ 時雨朝がへりのまばゆきもいとはざるころほひ 岩佐菱川が上にたゝん事を思ひては」。自らもそういう浮世絵のような風俗画を描いたと述懐しており、この文からは岩佐・菱川両者の作品群に対する一蝶の意識を感じられる。

享保9年(1724年)、死去。享年73。戒名は英受院一蝶日意居士。東京都港区高輪二丁目の承教寺顕乗院に墓所があり、大正13年(1924年)2月には東京府知事によって史跡に指定された。辞世は「まぎらはず浮世の業の色どりも有とて月の薄墨の空」。

「没後300年記念 英一蝶 ―風流才子、浮き世を写す―」がサントリー美術館で開催。英一蝶の過去最大規模の回顧展

江戸時代の絵師・英一蝶(はなぶさいっちょう・1652~1724)の大規模回顧展が東京・六本木のサントリー美術館で開催。会期は9月18日~11月10日。 

この付近は、「高輪台」という高台にあたります。

※高輪の地名は、高い所にある、まっすぐな道という意味の高縄手道が略されたものとも、岬を意味する高鼻というのがなまったものといわれる。

右奥に「二本榎」。     

 二本榎の由来

 その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高輪手(たかなわて)」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
 誰いうことなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
 それがそのまま「二本榎」(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でもt地名だけは残りました。
 戦後、地番変更で高輪4丁目などと地名は変わりましたが、「榎」は幾度となく植樹・移植が行われ、町の人々の大切な象徴となっています。

 平成17年(2005年)12月

 通りを挟んだ向かい側にあるのが、「高輪消防署」。

庁舎は昭和8年(1933年)に完成し、現在、「東京都選定歴史的建造物」に指定されています。現役の消防署として活躍中。
 正面の円筒形の3階部分の上に、灯台のような火の見櫓が立っています。正面入口には「署防消輪高」と右側から書かれていました。

 どこかで見たことがあるような建築物。「(関東大)震災復興小学校・公園探索」で訪ねた、旧「台東区立小島小学校」や旧「中央区立京華小学校」などの構造とよく似ています。昭和の初期、ほぼ同じ頃に建てられた建て物であることが分かります。

注: 旧「小島小学校」校舎。半円柱状(丸い搭状)の外観。

屋上は完全な円形で、物見塔(火の見櫓?)のよう。

旧「京華小学校」校舎。曲線に特徴

  

 

その先に、

「味の素グループ高輪研修センター」の表門?
 ここには、があるようです。

 「柘榴坂」。


    
                            「柘榴坂」。 (ざくろざか)

 坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか、江戸時代はカギ形に曲り、明治に直進して新坂と呼んだ。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

↓の部分がカギ形になっている。この後、改修したと思われる。「東海道」(現在の「第一京浜」)のすぐ東には東京湾が広がっていた。海岸線を通る直線は、新橋からの鉄道線路。

実は、この手前で右折し、「国道1号線」に進むべきでしたが、そのまま進んでしまいました。

「物流博物館」。ここで気づきバックしましたが、

左折して長い下り坂を「五反野駅」方向に歩きます。

                              (現在)歩いた道は旧鎌倉街道のようです。

東五反田付近をウロウロ。

                              (1880年代)高輪台付近に集落があります。

集落沿いの道が「中原街道」か?

駅前の大通り。

「JR五反田駅」。

今回は、ここまで。

 

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虎ノ門駅」~「五反田駅」。その4。風邪も抜けきらず。中原街道歩きも滞りがち。高輪皇族邸。「二本榎の碑」。(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-12 18:32:12 | 中原街道

風邪がなかなか直りきらず、咳が・・・。ということで外出もままならず、少し気分が落ち込んでいる昨今。

怪我の方は順調に回復。次回の通院で地域病院での診察は終了。レントゲン写真を見ながら、「順調な回復です。無理に手術しなくてよかったようですね。」

リハビリ病院の通院は、まだ続けなければなりませんが。右手を使っての食事や洗髪など苦労しなくなりました。

右腕は上下運動は何とか、回復。水平に動かすのはまだまだきつい! 「まだ万歳三唱は難しい、と思うが」とはリハビリ病院の院長の見立て。

ということで、「中原街道」歩きの初日の報告も滞りがちになってしまいます。

・・・

「二本榎通り」を進みます。右にこんもりと木に囲まれたお屋敷が。

高輪皇族邸(たかなわこうぞくてい)。

高輪皇族邸(たかなわこうぞくてい)は、東京都港区高輪にある皇室関連施設。高輪御殿は熊本藩細川家の下屋敷跡地の一部で、1891年(明治24年)、明治天皇第六皇女・常宮昌子内親王と第七皇女・周宮房子内親王の住まいに定められ、1913年(大正2年)から1924年(大正13)までは皇太子裕仁親王の東宮御所だった。戦前は「高輪御殿」と通称された。1931年昭和6年)から2004年平成16年)までは高松宮宣仁親王宣仁親王妃喜久子の住まいだった。2020年令和2年)3月31日から2022年(令和4年)4月12日までは上皇上皇后の仮住まいとして使用され、『仙洞仮御所(せんとうかりごしょ)』という名称だった。

上皇上皇后が赤坂の仙洞御所に遷御した後の高輪皇族邸は、これまでの赤坂東邸に代わる皇族共用の殿邸として、御仮寓や親睦会、葬儀などの会場として使用される方針としている

(この項「Wikipedia」参照)

この通りは、丘陵地帯(高輪台)の南東端に当たり、通りの左側はかなり急傾斜となっています。

「保安寺」への階段。急な下り坂になっています。

  左手には「高輪中学校・高等学校」、「東海大学 品川キャンパス」などが続く。

右手は住宅地。

「二本榎の碑」と解説板。

二本榎の碑について
 その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿 の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
 誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
 それがそのまま「二本榎」(にほえのき)という地名となって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
 戦後、地番変更で高輪 何丁目などと地名が変りましたが、昭和四十二年に町内の黄梅院 の境内に夫婦の榎を植樹し、石碑を立ててこの「二本榎」の町名をいつまでも忘れないようにしました。
 平成二年、「碑」をこの場所に移しましたが、二本の榎は黄梅院に大切に育てられています。
この「碑」はこの町の住民にとって大切な象徴となっております
高輪二本榎町会

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「虎ノ門駅」~「五反田駅」。番外編。坂歩き。「魚籃坂」。「伊皿子坂」。「聖坂」。「幽霊坂」。「潮見坂」。「蛇坂」。「安全寺坂」(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-10 18:55:12 | 中原街道

坂道歩きの記録。再掲。

旧高松宮邸(高輪皇族邸)の手前、左手の都営高輪一丁目アパートの入口付近にかなり摩滅した「大石良雄等自刃ノ跡」の碑。自刃の地(「熊本藩・細川家下屋敷」)は、この一番奥にあるらしい。特に説明文もなく建てられています。



 元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹しました。三田の伊予松山藩屋敷跡(現:イタリア大使館)には大石主税ら十士切腹の地があります。大石父子の切腹は、ほぼ同時刻であったといわれています。浪士たちは、江戸高輪の泉岳寺に葬られています。

 突き当たりの十字路、右手が「伊皿子坂」。左手が「魚籃坂」。

      (いさらござか)

 明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも、いいさらふ(意味不明)の変化ともいう。

「魚籃坂」 (ぎょらんざか)。
 
 坂の中腹に魚籃観音を安置した寺(注:魚籃寺)があるため名づけられた。
 注:「魚籃」は、びく(魚を入れる籠)のこと。

 こちらの坂が「旧伊皿子坂」。

 「魚籃坂」を少し進み、右手にある「ピーコックストア」の先を右に曲がり、広い道(「聖坂」)に出て、しばらく進むと、左手の下り坂が「幽霊坂」。

      (ゆうれいざか)

 坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが、有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く7か所ほどもある。

 お寺の塀越しに「東京タワー」。

 しばらく行くと、右手に「亀塚公園」。
                           公園の土塀づくりもこの地域の雰囲気にマッチしています。
 
「三田の坂めぐり案内図」。

     
               「聖坂」。「区立三田中学校」の前。(ひじりざか)

 古代中世の通行路で商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所であったためという。竹芝の坂と呼んだという説もある。

 「普連土学園」の脇を左に折れると、「潮見坂」。 (しおみざか)

            
 坂上から芝浦の海辺一帯を見渡し、潮の干満を知ることができたためこの名がつけられた。

今は海は見えないが、かつては。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。○付近にあった坂が「潮見坂」。Y字型のところが「札の辻」。「潮見坂」は、「高輪台」の北東のはずれに当たり、きっと品川湾(東京湾)も手近に見えたに違いない。

 普連土学園の脇をカギ型に曲がると、「蛇坂」。西に向かう下り坂です。

     振り返って望む。

 (へびざか)

 付近の藪から蛇が出ることがあったためと想像されている。

 来た道を戻って、北に向かい、細い道を進みます。左手の崖下は、寺町。

    
                                    斜面には菜の花が。
 
 右に折れて、すぐ左に折れると、「安全寺坂」の標識。

一気に下って行きます。 (あんぜんじざか)

 坂の西に江戸時代はじめ安全寺があった。誤って安珍坂、安楽寺坂、安泉寺坂などとも書かれたことがあった。

    
 坂を下りきると、正面は慶應大学。

振り返って望む。

 以上、「品川」から「三田」までの坂巡りでした。

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虎ノ門駅」~「五反田駅」。その3。「聖坂」。「ちぃまっぷ」。「蟻鱒鳶ル(ありますとんびる)」。「伊皿子坂」。「魚籃坂」。「歯科医学教育発祥之地」碑。(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-09 20:20:38 | 中原街道

けっこう長い上り道が続きます。国道から1本、西側の道になります。  

「ちぃまっぷ」。

聖坂。

古代・中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。

振り返り、坂下を望む。

 「亀塚公園」。 

亀塚の名称の由来は複数伝えられている。

  • 円墳状の盛り土が存在することによるもの。但し、昭和46年に実施した港区教育委員会と慶應義塾大学文学部との合同調査では副葬品も含めて何も見つかっておらず、古墳であったとは判断できない。
  • 竹芝伝説の竹柴の衛士の宅地にあった酒壷の下に住んだ霊亀を土地の人が神にまつったものであるとされるもの。

縄文時代の住居跡が発掘されている。

円墳上部には登ることができ、かつてはそこから360度の方角で東京全体を展望できたが(昭和30年代までは房総半島を視認することが出来たとのこと)、現在は御田八幡神社側に樹木が生い茂り遠望は望めない。華頂宮邸時代の外壁はそのまま存在し、公園を取り囲んでおり独特の雰囲気を醸し出している。

(この項、「Wikipedia」より)

※坂の途中、左に「蟻鱒鳶ル(ありますとんびる)」という奇抜なビルがありますが、見逃し。

港区旧町名由来板。  

「伊皿子」交差点。左の坂が「伊皿子坂」正面が「二本榎通り、右が「魚籃坂」。

「歯科医学教育発祥之地」碑。

伊皿子交差点付近(三田四丁目18番地)に高山歯科医学院東京歯科大学の前身)が存在した。同所には「歯科医学教育発祥之地」が東京歯科大学によって設置されている。

「伊良子坂」。

泉岳寺から上り坂に入り、頂上で魚籃坂に繋がる。江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた。付近には高輪皇族邸(旧高松宮邸)がある。

およそ1600年頃に、来日した人が当地に帰化し、当時の外国人の呼称「エビス」「イベス」から自らを「伊皿子」(いびす)と名乗ったという。この帰化人の名が「伊皿子」という町名の由来とされる。明国人「伊皿子」の墓所は高輪浄土真宗本願寺派正源寺にある。

この坂を左に下り、国道1号線に出ます。

  

日本橋方向。再び坂を上がります。

途中、左に「泉岳寺」。赤穂浪士と主君のお墓があります。

「周辺開発状況」。変貌著しい。 

 西に下る魚籃坂。

魚籃坂(ぎょらんざか)

港区三田四丁目と高輪一丁目の境に存在するである。なお、魚籃坂の「籃」は「くさかんむり」ではなく「たけかんむり」である。また「魚籃(ぎょらん)」とは魚を入れる籠すなわち「魚籠(びく)」のことである。「魚らん坂」とも表記される。

魚籃坂下交差点から登り、頂上から伊皿子坂に至る(すなわち麻布側からの登りが魚籃坂、頂上から海側に降りる坂が伊皿子坂である)。

名称の由来

坂の中腹に魚籃寺が存在することから付けられた。

※この付近の坂は、以前歩いたことがあります。

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虎ノ門駅」~「五反田駅」。その2。赤羽橋・渋谷川・古川。慶應大学東門。「聖坂」。(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-06 19:09:40 | 中原街道

今日の東京地方、久々の雨模様。

「びっくり屋」。地元の買い物客が。

「赤羽橋」にさしかかります。

  

下の流れは、渋谷川・古川          「旧赤羽橋」親柱。

渋谷川→古川。

この付近の今昔。

                             1880年代。上に「古川」。

                             現在。古川は首都高の橋脚下。

慶応大学並びの菓子屋。

慶応大東門。

                 

その先で、国道から離れ、「聖坂」を上がっていきます。                             

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「虎ノ門駅」~「五反田駅」。その2。踏んだり蹴ったり。泣きっ面に蜂。「TORAMONHILES」「AZABUDAIHILLS」。芝地区旧町名由来板。東京タワー。野田岩。(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-04 18:55:10 | 中原街道

踏んだり蹴ったり。泣きっ面に蜂。

今度は、暮れの30日からインフルに。3日まで外出禁止。家でもジッと。

地下鉄の新駅をつくるための大工事中。

 「TORANOMONHILLS」。

芝地区旧町名由来板

西久保巴町 愛宕山の西北麓に位置する町域です。慶長13年(1608)に天徳寺門前、および元禄年間(1688~1699)に下谷町と車坂町の代地となり、西久保新下谷町、西久保車坂町と唱えました。明治5年(1872)、浜田藩松平右近将監屋敷、西久保新下谷町、西久保車坂町、天徳寺地、同門前町および幕士の屋敷を合併して、新たに西久保巴町となりました。町名は、町内が南は神谷町境に延び、東は北西に屈曲し巴の形に似ていることに由来します。

葺手町 西久保巴町と西久保城山町とに挟まれ、西方は赤坂区および麻布区に接しています。むかしは幸橋門外の二葉町の続きにありましたが、元禄4年(1691)用地に召し上げられ、西久保の土取り場に代地を与えられました。土取場とは土木用の土砂を取り崩した場いい、葺手町と城山町の間の道を入った崖下にありました。町名の由来は明らかではありませんが、町の状況から屋根職人の人が多く居住した町と推測されます。 

西久保城山町 西久保通りから葺手町と神谷町との境の道路に入ると、左手に西久保城山町があります。もとは、葺手町の土岐邸から町内にかけてを俗に城山と呼び、むかし、熊谷次郎直実、あるいは太田道灌が城塞を築いたという伝承があります。明治5年(1872)に池田甲斐守、小堀大膳、大久保隼人等諸幕士の屋敷を合併して、新たに西久保城山町としました。

その後の変容は驚くべきものがあります。

「キッチンDADA」。ビル街にあります。クラッシックなたたづまい

 「西島眼鏡店」。大正時代から営業している、とか。お店を開けていたご主人と立ち話。   

八百屋さんがあります。「芝八百宗商店」

  高層ビルが乱立する中で、街道筋には昔からのお店などがあります。

z年末年始で人通りも少ない。外国人の姿が目につきます。

坂の階段の脇にはエスカレーターが。

「AZABUDAIHILLS」。

  車の量も格段に少ない。

       「東京タワー」が目に入ってきます。 

ユニークな建物「ノアビル」。

 「野田岩」。

一度、立ち寄ったことがあります。歴史を感じさせる雰囲気のある店構え。美味でした。

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