おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR川越線「武蔵高萩」駅~東武東上線「東松山」駅。その2。(「日光千人同心街道」をゆく。第3日目。)

2018-11-21 21:10:43 | 日光千人同心街道
                                    晩秋の田園風景。
「狭山茶」一面、茶畑。


「日光街道」と記された標識。

 「高倉天神」交差点の手前に「榜示杙跡説明板」があります。その脇に朽ちて倒れているのがその榜示杙?(↓)


                               
榜示杙
 牓示とも書く。榜示とは領地の境界を示す標識のことで、古代、中世の寺院、神社の所領や荘園などの範囲を確認するため、その四至、すなわちその四方に設置されたのがはじまりという。一般に石材や木杭、自然木などが利用された。
 越後国、奥山荘(新潟県蒲原郡)の石榜示のごとく巨石を用いた例などもある。
 明治初年まで当市の日光街道にも村境を示すものとして、二本の榜示杙(木杭)が立っていた。
  平成6年6月30日   鶴ヶ島市教育委員会

(9:26)「高倉天神」交差点を渡ります。

                   

並木は続きます。

「鶴ヶ島中」脇にもう一つの榜示杙。ここは、榜示杙が立てられています。

         行く方向を望む。

向かいの細道を入ると、「川崎平右衛門定孝陣屋跡」。

                     
 

解説板。
鶴ヶ島市指定史跡 武州三角原
 川崎平右衛門定孝陣屋跡
 川崎平右衛門定孝は元禄7年(1694)武蔵国多摩郡押立村(現在の府中市)の名主の家に生まれました。元々農業に従事し、荒地の開墾や用水・灌漑の改善など各振興事業を行ったり、私財を投じて窮民を救ったこともあり、篤農家として村民からは厚い信頼を受けていました。抜擢されて新田世話役、のちに代官となり武蔵野新田開発を成功に導きました。この三角原は新田開発に当たり、彼が拠点として陣屋を設けたところです。
 享保7年(1722)徳川吉宗による新田開発令が出て、武蔵野台地の全面的な開拓が進められましたが、これは多数の新田村をつくり、石高にして11万2千石(1石は約180リットル)の増収を得ようとする計画でした。
 開発当初の出百姓(入植者)の困窮ははなはだしく、また大凶作にも見まわれ、元文4年(1739)には新田の総家数1327戸のうち161戸が潰れ百姓(破産した農家)となり、どうにか生活していけるものはわずか9戸であったといいます。
 幕府は武士が指導した新田開発が失敗した苦い経験から農民出身の平右衛門を南北武蔵野新田世話役に登用し、農民の実情にあった新田開発事業を推進させました。
 平右衛門と農民の努力の結果、多摩郡・高麗郡・入間郡・新座郡にわたって500町歩(約500ヘクタール)の新田がみごとに開墾され、やがて寛保3年(1743)平右衛門は代官に任ぜられました。
 その後、明和4年(1767)、平右衛門は幕府勘定所の検査をする勘定吟味役兼諸国銀山奉行となりましたが、同年6月74歳で生涯を終えました。
 ここにある小祠は、寛政10年(1798)新田の農民たちが平右衛門の徳を追慕して建てたもので、正面に川崎大明神と刻み込まれています。
 陣屋は平右衛門が美濃に任地替になったため建物は取り払われましたが、土塁や堀は昭和16年日本農地開発営団の開墾が始まるまで残っており、現在の土塁はその後に作られたものです。
 平成5年に陣屋跡の確認調査を実施したところ、位置は現在のものと一部分で重なりながらも、西側を走る日光街道杉並木と平行し、堀跡等は発見され陣屋跡の規模からそれまで考えられていたものより約3倍(東西53.5m・南北55m)の大きさがあることがわかりました。

  平成11年3月     鶴ヶ島市教育委員会


                                  

桜並木」解説板。

 ・・・街道沿いの杉や松は江戸時代(17世紀後半)に植えられたものと言われ、かつては老樹が立ち並んでいました。この老樹も戦後にあった大型の台風により多くが倒れ、昔の面影がうすれていく有様を惜しんだ川上庄作氏(三ツ木)が私費を投じて桜苗を購入し植え付け、現在の桜並木となりました。
 この街道では毎年3月下旬から4月上旬にかけて「桜まつり」が行われ多くの人で賑わい、憩いの場所として親しまれています。
 これからも、この桜並木を皆様と共に親しみ、見守っていきたいと思います。

 2001年4月7日  鶴ヶ島桜まつり実行委員会


 「脚折才道木」交差点の手前には庚申塔と馬頭観音のおさまった祠。
  


 ところで「脚折才道木」の読みといわれは?  
読み:スネオリサイドギ
「脚折」(スネオリ)のいわれ:日本武尊が東征の折、馬が足を折ったという故事から?
「才道木」(サイドギ)のいわれ:??     
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JR川越線「武蔵高萩」駅~東武東上線「東松山」駅。その1。(「日光千人同心街道」をゆく。第3日目。)

2018-11-19 21:22:34 | 日光千人同心街道
                             (8:23)「日光千人同心街道」。

11月15日(木)快晴。好天に誘われて出かけます。


「高萩」交差点を左折、川越線のガードをくぐります。

すぐ右手に真新しい「金毘羅大権現」碑と常夜燈。

                                  

 先達の記録では石碑が倒れていたり、常夜燈が傾いている、という話でしたが、昨年・平成29年6月に「金比羅宮碑等再建並びに整備委員会」の手で再建されました。

 国道407号の旧道沿い、かつて宿場町だった日高市高萩地内に、清水次郎長も一目置いた侠客の清水喜右衛門こと「高萩の万次郎」(1805~1885年)が願主となり慶応2年(1866年)に建立された「金毘羅大権現碑」がある。大正12年(1923年)の関東大震災に始まり、平成16年の新潟中越地震、そして同23年の東日本大震災の影響を受け壊れたままになっていたことから、住民有志が立ち上げた「金毘羅大権碑等再建並びに整備委員会」(関孝夫委員長)が地域に協力を呼びかけて碑を再建した。碑をはじめ外柵の新調、往時の高萩宿の様子を示す歴史解説板の設置なども行われ、28日には委員会のメンバーが集まり魂入式が挙行される。
 同委員会によると、高萩を南北に貫く道は江戸時代、「日光千人同心街道」と呼ばれ、八王子千人同心が日光の火の番を交代で務めるため八王子から日光へ向かうルートとして利用された。高萩宿は八王子から6番目の宿場として、人馬を交代して荷物を運ぶための継立(つぎたて)の役割を担っていた。
 参勤交代で大名が利用する街道ではなかったため、本陣・脇本陣はなく「旅籠(はたご)」が数軒、また、宿場の最高責任者の「問屋」が2軒あり交代で役職を務め、それを補佐する「年寄」がおり、人馬の継立業務を担っていた。
 清水喜右衛門こと高萩の万次郎は、「鶴屋」を屋号とする十手持ちで、高萩宿で宿役人の年寄を務めていた。近隣の村民を集めて地元負担で荷物を運ばせる「助郷(すけごう)」の命令書が中山道熊谷宿から届いた際には、問屋とともに熊谷宿へ赴き助郷免除を嘆願、慶応2年(1886年)に起きた武州一揆の際は宿はずれで一揆衆に酒や食事を振る舞い、高萩宿での打ちこわしを回避させた。
 喜右衛門は侠客としても有名で近隣の侠客から一目置かれ、清水次郎長とも親交があり、若かりし次郎長を匿ったことが縁となり、その縁は喜右衛門の晩年まで続いた。
 金毘羅大権現碑は、その喜右衛門が願主となって建立。以来毎年祈願が続けられ、「祈願無事永続」として明治15年には鶴屋で「金比羅講」が催された。この時、日高、飯能をはじめ県内や東京、山梨、静岡から延べ78人の有力者が世話人として名を連ね、その中には山本長五郎(清水次郎長)、宮﨑文吉(津向文吉)、宮下仙右衛門(枡川仙右衛門)など講談や小説に登場する面々の名もあった。
 碑の文字は「異体字」で記されている。傍らに建つ石尊大権現御神燈に刻まれた「高萩驛下宿」の文字は、この地に高萩宿が存在したことを示す唯一の証。馬で人や物を運ぶ中継地の「駅」としての役割を持っていたことを示している。
・・・
 折れたままになっていた碑は、平成23年3月の東日本大震災で、さらに残っていた下半分もほぼ根元から折れてしまった。・・・
 「後世に高萩宿の歴史を伝えるためにも、碑を建て直したい」。再建の話が再び浮上したのは昨年8月。
「金毘羅大権碑等再建並びに整備委員会」を立ち上げた。高萩宿の歴史の解説や後世にその歴史を伝えたい思いを盛り込んだ趣意書を作成し、碑の再建とともに、風化著しい外柵の新調、石尊大権現御神燈の改修、高萩宿の歴史解説板の設置のため地域住民に寄付を募ったところ、約半年の間に目標額を上回る寄付が寄せられた。
 今年5月から工事を始め、無事完成を迎えることに。28日には同委員会のメンバーが集まり魂入式を行う。
 委員長を務める関孝夫さん(62)は、「高萩に宿場があったことを知らない人も増え、後世に高萩宿の歴史を残したいとの思いで再建の話が持ち上がった。実現できないのではないかとの不安もあったが、地域の方々のご協力により目標を上回るご寄付を賜り再建を行うことができた。心より感謝したい」と話している。
(以上、「」HPより)

解説板。
      「高萩宿の歴史」 「清水喜右衛門(清水万次郎 高萩の万次郎)と金毘羅大権現」 

その対面のおうちは「旅籠亀屋」跡ということですが。 

かつての宿場町という雰囲気はありません。 

昔を偲ぶ唯一の建物ともいえるのが、元「日高郵便局」。

                            
                              明治12(1879)年築。通信業務の中心として活躍した木造平屋の下見板張りの建物。

 お隣の見事な板塀のあるおうちが旧家の「犬竹」家。土蔵造りの二階には閑院宮をはじめ山岡鉄舟などの著名人が宿泊している、とのこと。


 ところで、沿道に「犬竹」の名の家が目に付きます。それも大きな立派なおうち。ちょっと珍しい姓。

【名字】犬竹
【読み】いぬたけ
【全国順位】 10,750位
【全国人数】 およそ650人
【名字の由来解説】
 現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵国巨摩郡犬竹村が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)季衡流北条氏族。近年、埼玉県日高市などに多数みられる。「竹」は植物の竹を表す。
(この項、「」HPより)

 ついでに調べると、我が父方の姓は、

【全国順位】 18,366位
【全国人数】 およそ270人

 だそうなので、もっと珍しいということに。

 この先、道路の拡張整備、住宅地区画整理などで旧道は失われています。現在の道路の西側に旧道はあったようです。
交差点の西方向。

平日の午前中。幹線道路としてお店も多く、車の行き来が激しい。

           「高萩宿」方向を振り返る。

(8:45)まもなく「日光街道杉並木」に入ります。

                        

車道の左側に「遊歩道」があります。木陰の中の歩き。

切り株や伐採された杉がけっこう目立ちます。

スギの他にマツ、カエデ、サクラなどが植えられています。これはサザンカ。
                                          目を楽しませてくれます。

しばらく進むと「日光街道杉並木碑」があります。

                                 
日光街道並木保全の記
 小田原の北条氏によって八王子城から鉢形城への通路として新設された、この道路は当時軍用道路として重要な使命をもったものである。勿論その頃は野中の一本道で高萩村から鶴ヶ島村を通過、坂戸町まで5.3㎞と続いていたので、この街道を旅する人達は暑さにつけ寒さにつけその難儀の様は言語を絶するものがあったと思われる。
 時は流れ徳川三代家光の代に入って懸案の日光東照宮を完了したのでその警備に八王子千人同心を起用することとなり警備の人々の往来した道としてこのあたりから日光街道と呼ばれるようになった。伝承によると江戸期は忍城主松平伊豆守が松は相模国、杉は武蔵国御嶽山、櫟は上野国赤城山から苗木を取り寄せて植樹したものと云われて樹齢は300年、日光の杉並木と並ぶ歴史的名所となっているが、代の移ろいに従って寿命による枯樹木や台風その他の気象条件或いは交通事情の影響によって植栽当時の樹木も減少の一途を辿り前途を想えば消滅をさえ感じさせられる経緯を示して来たので昭和55年11月高萩地区同志相諮り日光街道並木保存会を結成、会員を募り徹底した奉仕活動を展開、理解ある多くの会員と共々これを持続、杉苗600本を南北並木に植樹し先人の意図を継承する礎が出来たのである。茲に5周年を迎えるに当り碑を建てて由来を記すものである。  

(9:04)「鶴ヶ島市」に入ります。

左手は車道ですが、右手はこうした雑木林も。

埼玉県が立てた「日光街道杉並木」の解説板。
日光街道杉並木
 この街道は、江戸時代に八王子千人同心が日光東照宮の火の番を交代で勤めるために往来した道で、日光街道と呼ばれている。
 この街道は、千人同心隊だけではなく、上州や信州から東海道へ出る近道として、また、相州や甲州から上州へ旅する人達の主要道路として盛んに利用された。
 並木は、鶴ヶ島町、川越市、日高町にまたがって、5.3㎞と長く続いている。樹の種類は、杉と松が主で、桧、櫟、楢、そろなどが混じっている。・・・
 今や日光の杉並木と並ぶこの並木は、町を代表する歴史的な名所となっているが、昭和3年に5,571本もあった並木も、今では1,118本に減ってしまった。現在、地元を中心にその保存に努めているところである。
 

                         
            
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JR「箱根ヶ崎」駅~「武蔵高萩」駅まで。その6。(「日光千人同心街道」をゆく。第2日目。)

2018-11-12 21:21:53 | 日光千人同心街道
                      (15:42)「国道407号線」を北に進みます。その先に杉並木が。

キャベツ畑。最近作付けを始めた?

(15:47)「鎌倉街道」交差点。ここから本格的な杉並木が始まります。
鎌倉街道 上の道
 鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉へ馳せ参じた道です。
 各地から鎌倉を結ぶ街道は関東地方に限りません。街道は古代の官道などを繋いだり、不足部分は幕府が建設したりして造られました。中世から江戸期にかけて政治的、文化的に果たした役割は大きいものがあるようです。 
 関東には下記の3本の道があります。
上道:鎌倉から化粧坂を越え、武蔵西部を経て高崎に至り、信濃、越後へ抜ける古道。←ここで交差しているのは、この道
中道:鎌倉から巨福呂坂を通り、武蔵国東部を経て下野国から奥州へ至る。
下道:鎌倉から朝比奈切通を越え、武蔵国東側の東京湾沿いを北上して常陸へ抜ける。

(『国史大辞典 第三巻』国史大辞典編集委員会編」より)

車の行き来の激しい通り。歩道を進みます。

左は工業団地、右はゴルフ場。

                                  

次第に並木もまばらになってきます。

                              振り返る。


(16:00)左側が開けてきます。「高萩南」交差点で国道から離れて左に進みます。

                     

しばらく進み、「日高消防署高萩分署」のところから左に入る道を進みます。
  
「谷雲寺」の墓地脇、さらに小川に沿って進み、県道に突き当たります。右に折れると、「高萩」交差点。その交差点を左に折れると、「高萩宿」。


        
        
        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。○が「高萩」交差点。→が旧道。

 今回は、ここまで。JR川越線「武蔵高萩」駅へは、県道を左に折れて向かいます。
(16:16)「武蔵高萩」駅。

                           
「川越」で東武東上線に乗り換え、都内へ。

 先月30,31日、今月5,6日、さらに9,10日と葬儀(法要)続き。熊本、静岡、広島へ飛行機、車、新幹線を利用しての泊まりがけで、行ったり来たりでした。       
      
 
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JR「箱根ヶ崎」駅~「武蔵高萩」駅まで。その5。(「日光千人同心街道」をゆく。第2日目。)

2018-11-08 21:35:56 | 日光千人同心街道
旧「根岸宿」の家並み。

橋を渡って歩道橋の下に「馬頭観音」。その先の道を右に入ると「根岸宿」になります。
                     
                    秋の日ざしも傾きはじめ、のどかな宿内のようす。

 (14:48)「明光寺」参道の前にあるお屋敷は「久下家」。塀際に「日光脇往還(脇街道)」と記された標柱が建っています。


                         

「金谷坂」の上り坂を上ると「国道407号」に合流。

        
        
        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。「根岸宿」(→)は国道から離れた静かな佇まいに。

 緩い坂道を上っていきます。上り切った先で狭山市から日高市に。次の高萩宿を目指します。
 
                                          来た道を振り返る。

左手が「圏央道・狭山日高IC」付近。

左手に密生した杉林、雑木林。(15:12)その先、「田木」交差点の手前の細い道を入ります。
 

県道を越えて進みます。
 

 この先は「圏央道」のため、旧道の道筋は不明。静かな田舎道を高速道路の高架まで進みます。

 とある家からお婆さんが出てきて、「散歩はいいですよね。私もこれから・・・」ふと庭を拝見すると、たわわに実った大きな黄色。「あれはなんですか?」「ユズですよ。大きくなっています。よかったら今度差し上げますよ」

 街道歩きの途中とも言えず、写真だけ撮って先に。それにしても巨大なユズです。

洒落た門構えのおうち。

これもすてきな生け垣。

圏央道の高架下をくぐり、川沿いに進みます。

一面に田んぼが広がります。

 木々の向こうが「圏央道」。

左手の角に「日高市児童ふれあいセンター」の建物。

その脇を通っていくと、左手に「子安地蔵堂」の所に出ます。

                         

 (15:35)街道はその先で国道に合流して坂道を上っていきます。



1880年代のようす。すでに旧道は現圏央道の南は直線になっているようです。


2010年代のようす。「田木」交差点の先、「圏央道」高架手前で左に入る細い道が旧道のようです。「圏央道」を越えた左上に「児童ふれあいセンター」。
 
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JR「箱根ヶ崎」駅~「武蔵高萩」駅まで。その4。(「日光千人同心街道」をゆく。第2日目。)

2018-11-07 21:09:37 | 日光千人同心街道
                        「(扇)町屋通り」。ほとんど宿場時代の面影はありません。
 

 「入間市駅」へ通じる賑やかな通りに入っていきます。正面のY路路を左に向かいます。


 左手に入る手前に「道標」(↓の先辺り)がありますが、歩道橋を歩いたため、見逃し。享和2年(1802)建立のその道標には、
  従是 入間川 かわこへ 道
  道祖神
  従是 まつ山 日こう 道
 と刻まれているようです。

「丸広百貨店」横を進むと下り坂になります(「黒須坂」)。

 「丸広百貨店」先を右に入ると、「旧豊岡小学校」の跡地が「温故(故きを温ねる)公園」となっています。注:「新しきを知る公園」は別のところに。


                 椅子がずらり。趣はちょっと?
 
 (13:31)その一角の小高い所に「道標」。もちろんここにあるはずはなく、元は河原町交差点近くにあったものだそうです。「北 日光道」「東 江戸 ・・・みち」等と刻まれています。
 
豊岡温故公園の道標
 江戸から旧正丸峠を越えて秩父に入り、雁坂峠を越えて甲州に至る道は、秩父甲州往還として古くから開かれ、中世には重要な道として利用されていた。近世に入り秩父霊場巡りが盛んになると、江戸から所沢、入間、飯能、吾野を経て秩父へと抜ける秩父往還として次第に整備されてきた。現在の東町から県立豊岡高等学校脇を通り黒須を経て笹井の渡しに至る道がそれである。
 この道標は、初め秩父往還と日光脇街道が交差する現在の河原町交差点付近に建てられたものであるが、道路の拡張や新設、土地区画整理事業などにより現在地に移転されたものである。道標の造立年代は不明であるが、道標と同じ場所に建てられたと思われる地蔵菩薩立像に延享4年(1747)の銘があり、この頃建てられたものと推定される。
                   

この辺りで昼食をと思って駅方向に進み、うろうろしましたが、お店が見当たらず。昼食はしばらくあきらめて先に進みます。


街道は黒須坂を下って西武線のガード下を通り、「河原町交差点」を横断し、霞橋を渡ります(13:51)。


                  

右手に比較的新しい「常夜燈」。

 霞橋を渡って数分、歩道橋の下に「旧黒須銀行」(左)の建物が保存されている。明治42年(1909)に黒須銀行本店として建てられたもので、その後、埼玉銀行豊岡支店として昭和35年(1960)まで使われていた。
 道路を挟んだ北側には文化15年(1815)創業という繁田醤油の建物があります。
歩道橋からの「旧黒須銀行」。

同じく「繁田醤油」。

 
                                       扉には「・・豊岡支店」の文字が。
「解説板」。
旧黒須銀行
 この建物は、明治42年(1909)5月に黒須銀行本店として建設されたもので、土蔵造り二階建て、寄棟瓦葺き、総床面積236.02㎡の建物である。
 黒須銀行は、明治27年に設立された黒須相互組合を前身に、明治33年2月に誕生した。その経営は、創設時の中心人物・繁田武平満義の考えから道徳を規範としたもので、大正3年(1914)には顧問の渋沢栄一から「道徳銀行」の名を与えられ、順調に業績を伸ばした。しかし、第一次大戦後の不況の影響により、大正11年6月に武州銀行と合併して幕を下ろした。
 その後は昭和18年(1943)7月に埼玉銀行(埼玉りそな銀行)豊岡支店となり、昭和35年11月まで営業が行われていた。・・・
 現在は、当市の近代金融史を象徴する遺産として大切に保存されている。


「繁田醤油」。大きな屋敷。

(13:58)街道沿いには立派な「長屋門」。

脇に大きな甕。亀甲型に「」の印が。

今回もバス停名が歩く道しるべ。

街道は北に向かいます。

老舗風の狭山茶のお茶屋さん。

その先の交差点の角に台湾料理のお店。遅い昼食にします。

再開。(14:37)「入間川」に架かる「豊水橋」にさしかかります。

                             

「豊水橋」の歴史解説板。

                          
初代豊水橋の歴史
 豊水橋付近には、江戸時代から渡し場(根岸の渡し)があり、八王子千人同心の火の番役、物資の流通、山岳信仰の人々が往来する重要なところでした。また、大正時代頃まで名栗方面から産出する西川村の筏流しも行われていました。
 大正4年(1915)に豊岡町にも武蔵野鉄道(現西武鉄道)が通り、駅ができると豊岡町・水富村は橋の架設に寄付を募り、県に請願し全長166間(300m)の木橋が大正9年7月に完成し、2代目豊水橋ができるまで10余年みんなの役に立ちました。 

現在は、3代目の橋のようです。

                                   
          
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JR「箱根ヶ崎」駅~「武蔵高萩」駅まで。その3。(「日光千人同心街道」をゆく。第2日目。)

2018-11-05 19:29:20 | 日光千人同心街道
                                茶室「青丘庵」。
青丘庵とは
 紀元前の中国では、理想郷(シャングリラ)のことを「青丘(せいきゅう)」という雅称で呼び、憧れの地と考えていました。また、日本では、千利休や煎茶を嗜んだ文人たちが、茶室を世俗から離れた理想郷に見立てて楽しんでいました。そこで当館は、緑豊かな当地にたつこの茶室を「青丘庵」と名付けました。

                                                     (「入間市博物館」HPより)。
                  

ちょっと庭園内をぐるりと。
 

野草の道。 
                                   「二輪草」、「大判草」、「丁子草」、「桔梗」、「三輪草」・・・。                      
「芙蓉」。

                              「紫苑」。

 じっくり歩いて、見慣れぬ小さな草花を見つける時間があれば、と。でも、先を急ぎます。
 (12:06)この先、街道は工業団地で遮られ、失われてしまいます。
  

(12:21)工業団地の外郭を回って旧道に復帰します。けっこう時間がかかります。
                                              「狭山開墾記念碑」。

               


1880年代のようす。旧道は直線で北東に進む。


2010年代のようす。赤い線が旧道の復活部分。

振り返って「工業団地」方向を望む。

 この工業団地は、かつては「旧陸軍狭山飛行場」だったようです。その当時から旧道は失われていました。
 コンビニの脇でパンを食べながら、小休止。

直線道路が続きます。

茶畑。「狭山茶」。

                              

(12:40)「小谷田」交差点で、「国道16号線」に合流します。

                   

道路の向こうは「武蔵カントリークラブ豊岡コース」。

しばらく国道沿いに進む。車の激しい通りです。


(12:48)「横浜から62㎞」ポスト。
                      旧道は、「国道16号線」とたびたびクロスして進みます。   

 「ふれあい橋」歩道橋を渡ります。車の行き来が多い「小谷田」交差点。
               

北方向を望む。

                    西方向を望む。

(12:56)その先の三叉路で、旧街道は真ん中の道を進み「扇町屋宿」に向かいます。

かなり交通量は少なくなります。道路脇には茶畑。

            


 (13:02)「扇町屋3丁目」交差点脇に子育地蔵、馬頭観音、そして「扇町屋上町の道標」。左手から「青梅道」が合流します。
 
 道標(石塔)は安政3年(1856)に建てられたもので二つの道標には、それぞれ「青梅 みたけ山道 婦し山(富士山) 高尾山 今熊山 道」「八王子 大山 道」などの文字が刻まれています。

「解説板」。
扇町屋上町の道標
 江戸時代の主要な通りであった日光脇街道と青梅道が扇町屋村(現入間市)の上町で合流するが、ここに建てられたのがこの道標である。当時、扇町屋村宿継場はここから北に向かって、長さ6丁(654.5㍍)、道幅8間(14.5㍍)余、戸数90軒、左右に軒を連ね、三・八の日ごとに米穀や雑穀の市が立つなど賑わいを見せていた。また、日光勤番に当たる八王子千人同心が日光へ向かう昼食地であり、帰りの宿泊地でもあった。
 道標は、御岳山・本社(武蔵御嶽神社)、富士山、高尾山、大山、今熊山といった信仰の地を示す名称や、青梅、小河内原湯といった行き先を示す名称が刻まれている。扇町屋村で
旅籠と料理屋を営んでいた江嶋屋半六が願主となり、安政3年(1856)2月に建てられたものである。
 この道標は、当時の山岳信仰の巡礼や交通の様相と、扇町屋宿継場の盛況を伝えるものとして貴重である。

「青梅道」。 

        
        
1880年代のようす。顕著な二つの街道。           2010年代のようす。○がその地点。分かりにくくなっています。

この辺りから宿場がはじまります。

ひときわ目を引く建物。

                                              
    
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JR「箱根ヶ崎」駅~「武蔵高萩」駅まで。その2。(「日光千人同心街道」をゆく。第2日目。)

2018-11-02 19:32:38 | 日光千人同心街道
                                庭先の「ピラカンサ」。

右の分岐点に「庚申塔」。


 (11:16)しばらく進むと、「富士山(ふじやま)」交差点。辺りが開け、車の行き来の激しい「国道16号線」を歩道橋で横断します。


                         

「国道16号線瑞穂バイパス」。

来た道を振り返って望む。

 バイパス道路建設は地元の念願だったようで、歩道橋下の広場には石組みのモニュメントと解説板があります。
足下には方位計。

                            

手作りパン屋さんの庭先には「コスモス」。

茶畑が沿道に。この先から「狭山茶」産地。

お茶の花。
 花は10-12月初旬頃に咲き、初冬の季語となっています。ツバキの花に似ていますが、花弁が包み込むように丸く開いています。常緑樹であるお茶の木の、葉の下の方に白い花が咲いています。

 

                                              (HPより)

「埼玉県入間市」入り。

 (11:35)道が突き当たって右に折れます。その交差点左に自然石でできた「道標」。
    
                         「左 大山 八王子  右 青梅」
二本木上宿の道標」解説板。
 八王子と日光を結ぶ日光脇街道(通称日光街道)は、八王子から拝島、箱根ヶ崎を経て二本木の上宿で、青梅の新町から新河岸に至る街道(通称河岸街道)と合流する。その合流点に建てられたのがこの道標である。二本木宿は、八王子同心が日光勤番の際の宿継場として栄え、当時の記録によると、道幅4間余、戸数170余であったといわれており、現在でもそれぞれの家の屋号に当時の盛況ぶりを窺うことができる。
 道標は銘文によれば延享元年(1744)に上町の人々が交通の安全を願って建てたものであることがわかる。単独の道標としては市内最古である。

                 
1880年代のようす。○が道標のあるところ。         2010年代のようす。



ほとんど宿場の面影はなく、静かな通り。



                               

「二本木神社入口」交差点。

まだまだ現役の土蔵。

(11:48)この先の右手、囲いの中にある木製の「常夜燈」。

  
 江戸時代から今日まで、夕方になると近所の人がロウソクを灯し続けているのだそうです。

 街道はこの先で「国道16号線」に合流する手前で、左に曲がっていきます。
 


1880年代のようす。←が左に折れるところ。西南に延びているのが「二本木宿」。


2010年代のようす。幅広い道路が「国道16号線」。

久々に見つけた「飛び出し注意」のお嬢ちゃん。
 「旧東海道」歩きでは、いろんなバリエーションの「飛び出しトビ太」くんをよく見かけました。
 特に三重、滋賀、京都と断続的に。まるで「東海道」を道案内してくれているようでした。関東ではほとんど見ませんが・・・。
京都へ入る手前、「東海道」最後の峠「日ノ岡峠」での「飛び出し」坊や。

 左手に「入間市博物館ALIT」が見えてきます。 
ALITとは?
 ALITとは、市民のみなさんから寄せられた多くの案から選ばれた、博物館の愛称です。
Art・Archives
 主催事業として美術展を開催するほか、市民に創作発表の場(市民ギャラリー)を提供する美術館的機能をもっています。
また、地域の歴史資料として重要な文書などを収集・公開し、その活用をはかる文書館的機能をもった博物館です。
Library
 地域やお茶に関する図書類・映像ソフトの閲覧、視聴ができる、ライブラリー機能をあわせもつ博物館です。
Information
 地域の歴史・民俗・自然・文化等に関するさまざまな情報を市民に提供し、地域の情報センターとなることをめざす博物館です。
Tea
 狭山茶の主産地である入間市の博物館として、狭山茶をはじめとする日本各地や世界のお茶の製造・喫茶風習、茶道文化などに関する調査研究を行い、さまざまな形で情報を提供していきます。

 これらの頭文字を組み合わせて ALIT(アリット)といいます。  
(以上、「入間市博物館」HPより)
                   
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JR「箱根ヶ崎」駅~「武蔵高萩」駅まで。その1。(「日光千人同心街道」をゆく。第2日目。)

2018-11-01 20:01:47 | 日光千人同心街道
                    第2日目。「箱根ヶ崎」駅から旧道に復帰(10:48)。
 前夜からの激しい雨も上がり、やっと晴れ間が。せっかくの晴れ。もったいない、そこで、10時40分。立川、拝島経由で八高線「箱根ヶ崎」駅へ。陽が落ちる前にJR川越線「武蔵高萩」駅に着ければいいかな、と。
 こうしてやっては来たものの、まだ雲が多く、ちょっと気がかり。

「残堀川」に架かる「大橋」。橋柱に「常夜燈」のモニュメント。

                           

「解説板」。
常夜燈
 日光街道大橋場脇に常夜燈が建てられたのは、慶応元年(1865)でありました。近村でも珍しい大燈籠でで、通行人への道標となっていました。大正12年(1923)関東大震災のときに倒壊し、現在は狭山池公園に再建されています。
 地域の歴史を思い浮かべ、郷土の誇りを呼び起こすことを願い、常夜燈のレリーフを設置しました。

 (10:53)ゆるやかな登り坂。右手に「日光街道」という標識。
 

右手への分かれ道のところに「祠」。

切り通しを下ります。右手、崖上はこんもりとした森。

(10:59)「都道166号線」を越えていきます。

「馬頭観音」、「征夷大将軍・・」。

左手の高台には「さやま花多来里(カタクリ)の郷」が広がります。
 さやま花多来里の郷は、「みずほ きらめき回廊」の拠点施設であり、都内では珍しい20万株以上のカタクリの群生地です。春になると約3,000平方メートルの斜面一面に見事なカタクリが咲き誇ります。

カタクリとは
鮮やかな薄紫色が美しい花を持つ植物です。
カタクリは、根付いてから花を咲かせるまでに約8年もの長い歳月を要するとともに、開花期間が短いことから「スプリング・エフェメラル」(春の妖精)とも呼ばれています。

幻の白いカタクリ
さらに数万株に1株といわれている大変珍しい「幻の白いカタクリ」も花を咲かせることがあります。

(以上、「」HPより)

 もともと個人で栽培していたカタクリの丘を町が管理するようになったようです。

(11:03)「駒形富士山(ふじやま)」バス停。
 この付近のバス停や交差点、施設の名には「富士山」と名付けられものが多くあります(「富士山会館」「富士山公園」など)。

すぐ左手に「瑞穂町郷土資料館 けやき館」。
 なるほど立派なケヤキの大木。その傍らには「ニホンオオカミ」像。
 
ニホンオオカミ
 ニホンオオカミと聞くと家畜や人を襲う恐ろしい動物と思われがちですが、実は農作物に被害を及ぼす鹿や猪を退治してくれるありがたい動物で、農民の守り神として、信仰の対象とされてきました。
 昔は、本州、四国などにかなりの数のニホンオオカミが生息していましたが、1900年代から始まった自然開発によってニホンオオカミの生息地を奪い、また、疫病(悪性の病気)や人間による駆除などが原因で、遂に絶滅してしまったと言われています。
 瑞穂町では、江戸末期に狭山丘陵のふもとに潜んでいたニホンオオカミを村人が捕らえたという話があります。その時の皮標本や頭蓋骨が受け継がれ、今も所蔵されています。特に骨は「キツネつき」(精神病の一種)という病気に効能があると言われ、お祓いの道具として使用されたようです。
 この像は、それらを参考にして再現しました。・・・
                       

建物入口脇には「御鷹場の境杭」。 
 これは、尾張家の御鷹場の境界を示すために建てられた杭です。瑞穂町には二本木村、箱根ヶ崎村、下師岡新田に1本ずつ計3本の杭がありました。これは二本木村にあったものとされる杭の複製です。

そのすぐ隣には「耕心館」という建物。



                         

施設の紹介
 周囲に塀をめぐらし、豪壮な母屋と二棟の土蔵から成るこの邸宅は、屋敷森に囲まれ、武蔵野の旧家のたたずまいを残しています。母屋の原型は、江戸時代末期の築造で、当時豪農として、その後醤油醸造業、養蚕業が営まれました。現在の2階は、演奏会・展覧会のための整備がなされましたが、養蚕のための家屋構造が確認できます。離れ和室は、大正時代に増築されたもので、特に和室の書院障子の木組みなどは、大正時代の建具の実例として貴重なものです。

運営者からご挨拶
 守られた伝統、繋ぐ文化、生まれる芸術、ここから。 心を耕すことが大切と「耕心館」と命名され、守り、培い、繋いできた文化、そして、新たに創り上げていくもの、これからも耕心館ならではの企画を実施してまいります。 また、皆様の芸術活動の発表など、新しい文化の発信の場としてご利用いただけます。 お気軽にご相談ください。 おくつろぎに、コンサートに、芸術と、いろいろな耕心館をお楽しみいただけます。  皆様のご来館をお待ちいたしております。

(以上、「耕心館」HPより)

 当地の豪農・細渕家の屋敷を瑞穂町が買収し、社会教育施設としたもの。
 つい最近、「ピアノリサイタル」が行われ、落ち着いた室内の雰囲気にマッチした、すばらしい演奏に魅了されたようすがHPで紹介されています。  

 

                         

庭を散策。 
                                      「クマガイソウ」。
 クマガイソウ(熊谷草)
 ラン科アツモリソウ属に分類される多年草の1種。大きな花をつけ、扇型の特徴的な葉をつける。
 和名の由来は、アツモリソウともに、膨らんだ形の唇弁を昔の武士が背中に背負った母衣に見立て、源平合戦の熊谷直実(くまがい なおざね)と、平敦盛(たいら の あつもり)にあてたものである。
 (この項、「Wikipedia」より)

注:「アツモリソウ」
 低山から亜高山の草地や明るい林内に生育する、高さ20~40cmの多年草です。葉は3~5枚で互生し、茎の先には径3~5cmの淡紅色の花を下向きにつけます。
 和名は「敦盛草」。袋状の唇弁を平敦盛が背負った母衣に見立てて名前が付けられました。
・・・
 「絶滅のおそれのある野生動物の種の保存に関する法律」(種の保存法)が平成4年度に制定され、平成9年度にアツモリソウとホテイアツモリソウが特定国内希少野生動植物に指定されました。
 この法律に違反して、採取・譲渡等を行った場合は1年以下の懲役または100万円以下の罰金となります。自然にある植物を傷つけることは罪であると法律で決められたのです。
 (この項、「」HPより)

 前夜の雨露が残っていて、清々しい印象。秋の草花が少ないのが残念。
       
土蔵。   

門の額「大海道」。 

この付近の今昔
        
        
        
1880年代のようす。                   2010年代のようす。国道16号線バイパスなど出来たが、旧道は以前のまま。                
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JR「西八王子」駅~「箱根ヶ崎」駅まで。その6。(「日光千人同心街道」をゆく。第1日目。)

2018-10-29 22:18:38 | 日光千人同心街道
                           「USA JAPAN」。
 中にはこんな屋台風のお店も。
「バンコク屋台料理」。けっこう混んでいます。

(13:52)ミリタリールックのお店。

「16 FUSSA BASE SIDE STREET」のフラッグが並んでいます。

「第二ゲート」付近。基地沿いの16号線が延々。約4キロ。
 途中からは道の両サイドに基地が広がります。

(14:06)「羽村市」入り。

(14:14)「横浜から53㎞」ポスト。

「ドン・キホーテ」とその先に横浜家系ラーメン屋さん。ちょっと遅い昼食を。

再開。(14:46)この先付近から基地内の滑走路が見渡せます。

左に踏切。八高線の電車が通過中。

 基地の拡張で八高線や16号線も路線変更されたらしい。

滑走路の北端? 

 (15:09)「新青梅街道」との交差点。基地内の旧道とつながる道へは交差点を鋭角に右に折れていきます。


                           

(15:15)旧道の復活地点から基地内を望む。



そこから「箱根ヶ崎」宿に向けて進みます。

 「新青梅街道」に遮られてしまうので、先ほどの交差点に戻ります。旧道に復帰、この先、青梅街道と少しの区間が重なります。


                             

旧家の雰囲気を残す「関谷」家のところで右折してくるのが「旧青梅街道」。

(15:28)「明治5年創業 漢方の會田」。

「旧日光街道」交差点。

 今回はここまで。JR八高線「箱根ヶ崎」駅から戻ってきます。        
(15:38)南を望む。

1880年代のようす。2010年代のようす。→が「千人同心街道」。

箱根ケ崎村(大字箱根ケ崎、箱根ケ崎西松原、箱根ケ崎東松原、南平地区)

箱根ケ崎
 語源は、古語で「ハコ」は神の棲む、「ネ」は山を意味するという説があります。
 この地区にある狭山池は、中世までは今よりもずっと広大で、面積は10町(10万平方メートル)以上もあったといわれ、狭山丘陵の西端に位置することから、後世鎌倉街道と呼ばれるようになった古街道が通っていました。箱根ケ崎の名称が古文献に現れるのは、戦国時代後期の天文年に北条氏照が発したに「筥根賀崎」と書かれています。
 しかし、江戸時代前期の古地図には箱根ケ崎の地名はなく、絵図上の当該地点には村山村と記されています。
 そのため、中世まで当地は中世郷村としての多摩郡村山郷の一部だったと思われます。
 慶安5年(1652年)に八王子千人同心の日光勤番が始まると、同心達が日光へ往来するための勤番経路として日光街道が整備され、その沿線上に位置した箱根ケ崎村は、幕府より人馬の継立てを命じられ日光街道の旅人の往来が活発となり、箱根宿として発展しました。
 このため、村山村の現箱根ケ崎地区に人口が増加し、寛文8年(1668年)の検地をもって村山村から分村したようです。
(以上、「」HPより)
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JR「西八王子」駅~「箱根ヶ崎」駅まで。その5。(「日光千人同心街道」をゆく。第1日目。)

2018-10-26 19:30:50 | 日光千人同心街道
「国道16号線」。一段と広くなった国道を進みます。左手は「都立多摩工業高校」。

「松原」バス停。松並木でもあったのか?

(12:48)「武蔵野橋南」交差点を斜め右に曲がる。

旧道はまもなくJR線に突き当たるので、右折し、拝島駅構内の通路を通り、反対側に。


(13:00)旧道の復活地点まで戻って渡る橋が「日光千人同心街道」にちなむ「日光橋」。この先、「日光街道」という呼称が多く出てきます。
 

下の流れは「玉川上水」。

          
          
1880年代のようす。○が「玉川上水」に架かる「日光橋」。    2010年代のようす。「国道16号線」は拡幅工事中。

次の信号を左に曲がって「国道16号線」に合流。右側には長い壁とフェンスが続いてくる。(13:23)広大な「横田基地」が。



      (13:33)旧道は「第五ゲート」付近で基地内に消える。

 「第五ゲート」付近から北一帯の今昔
                          
                          
         
         
         
         
         
1880年代のようす。田畑の中の一本道。           2010年代のようす。旧道の一部が基地内の道として残っている?
 上で交差する道が「青梅街道」、最下方に少し見える道が「五日市街道」(「第五ゲート」付近)。三つの旧道とも基地内で消滅している。       
     
在日米軍基地 U.S.AIR FORCE Yokota Air Base
警告
 基地司令官の許可なくこの区域に立入る事は法律違反である。
 不法な立入りは日本国法律によって罰せられる。(刑事特別法第2条 昭和27年5月7日法律第138号)この区域にいる間は全ての人は身体及び所持品の捜索を受けるかも知れない。
 軍犬隊により巡回されている。
                横田基地(Yokota Air Base)」。
所在地 東京都福生市、瑞穂町、武蔵村山市、羽村市、立川市、昭島市
種類 軍用飛行場 
所有者 在日米軍 
運営者 アメリカ空軍、航空自衛隊 
運用時間 24時間 
開設 1940年
所在部隊 在日アメリカ軍司令部 在日アメリカ空軍司令部 アメリカ第5空軍司令部 アメリカ第5空軍第374空輸航空団
        航空自衛隊航空総隊司令部 航空自衛隊航空戦術教導団司令部

概要
 大日本帝国陸軍の航空部隊の基地として開設され、第二次世界大戦後より、在日アメリカ軍司令部および在日アメリカ空軍司令部と、アメリカ第5空軍司令部が置かれている、東アジアにおけるアメリカ軍の主要基地であり、極東地域全体の輸送中継ハブ空港(兵站基地)としての機能を有している。 また朝鮮戦争休戦協定における国連軍の後方司令部も置かれている。
 2012年3月からは、移転再編された航空自衛隊の航空総隊司令部なども常駐するようになり、日米両国の空軍基地となった。
 拝島駅の北側で、東福生駅や牛浜駅の東側に位置し、福生市、西多摩郡瑞穂町、武蔵村山市、羽村市、立川市、昭島市の5市1町(構成面積順)に跨がっている。沖縄県以外では日本国内最大のアメリカ空軍基地であるが、沖縄県の在日米軍基地のように民有地の借り入れがなく、その殆どが国有地で占められている。
 日米の軍用機の運用のほか、近年ではアメリカと同じく北大西洋条約機構(NATO)加盟国である、フランス空軍輸送機(エアバスA340-200型機)の、フランス本土からニューカレドニアなどのフランス海外県への移動の際に、テクニカルランディング地として使用されることもある。
 なお、日米地位協定により、アメリカ軍人・軍属・それらの家族は、出入国管理の搭乗手続きを必要としない。そのため、日本国内で犯罪を犯したアメリカ軍将兵や、軍を掌握するアメリカ高位高官が軍用機で出入国しても、それが日本側に告知されない限り、日本国政府はその事実を知ることができない。
 2017年には大統領専用機でドナルド・トランプが出入りしているが、これも法的には、アメリカからの出国や日本への入国を行っていない。
 接収後に基地の拡張工事が行われ、1960年頃にはおおむね現在の規模となった。拡張に際しては、北側で国鉄八高線や国道16号の経路が変更され、南側で五日市街道が分断された。朝鮮戦争当時はB-29爆撃機の出撃基地として機能し、ベトナム戦争時も補給拠点として積極活用されていた基地である。
 2012年3月26日に航空自衛隊の航空総隊司令部などが府中基地より移転し、航空自衛隊横田基地の運用が開始された。

名称
 多摩飛行場の敷地大部分が当時の西多摩郡福生町(現在の福生市)にあったことから、地元や陸軍航空審査部では福生飛行場(ふっさひこうじょう)と呼ばれていた。この多摩飛行場・福生飛行場を、アメリカ軍が戦中より「YOKOTA」と呼称したのは、アメリカ陸軍地図サービスが1944年に作成した地図資料『JAPANESE AIRFIELDS』では、北多摩郡村山町(現在の武蔵村山市)の大字名であった「Yokota」が、「Fussa」や「Hakonegasaki」より飛行場近くに記載されていたためと考えられており、地名としての「横田」は現在では消滅したものの、「武蔵村山市役所」の西隣のバス停名称として残っている。その後は、横田基地が存在していることにより、「横田」を冠したトンネルや店舗、教会が点在するようになっている。
 横田飛行場には、現在も戦争継続中の朝鮮戦争における国連軍の後方司令部が存在しており、常勤の要員として軍人3名・軍属1名が配置されている。また国連軍参加国のうち、8ヶ国の駐日大使館付駐在武官が参加する合同会議が、3ヶ月に1回程度の割合で開かれており、事実上の駐日武官の連絡詰所となっている。飛行場には日章旗、星条旗の他に、国連旗が常時掲揚されている。
 国連軍後方司令部は、朝鮮戦争休戦協定成立後、1954年(昭和29年)に、日本とイギリス、アメリカ、フランスなど10ヶ国(のちにタイ王国も加わる)が「国連軍地位協定」を結んだことが始まりで、現在でも朝鮮戦争が戦時国際法上「休戦」中(戦争継続中)であることが、日本に設置する根拠となっている。かつてはキャンプ座間に設置されていたが、2007年(平成19年)11月2日に横田飛行場へ移転した。
 2012年3月26日から「航空自衛隊横田基地」として運用を開始した。

横田基地の基地総面積:7.136km2
(南北約4.5km 東西約2.9km 周囲約14km)
滑走路:3,350m×幅員60m 1本
付帯設備:管制塔、誘導路、格納庫、駐機場、整備工場、通信施設、旅客ターミナル、東京税関立川出張所横田旅具検査場

その他施設:消防署、兵員宿舎、将校宿舎、家族住宅、スーパーマーケット、病院、診療所、教会、小中高等学校、大学、幼稚園、小銃射撃訓練場、ごみ処理場、図書館、郵便局、放送局(「AFN Tokyo」) 、フードコート(アンソニーズ・ピザ、チャーリーズ・ステーカリー、スターバックス、シナボン、ポパイズ、タコベル、サーティワン)、チリーズ、バーガーキング、映画館、体育施設(野球場、ボウリング場、ゴルフコース等)

基地内人口:約8,800人(内訳 軍人・軍属:約4,300人、家族:約4,500人) 日本人従業員:約2,200人。

(以上、「Wikipedia」参照。)

 JR「八高線」に沿って「わらつけ道」という道があり、先達にはそちらを歩くケースが多いようですが、あえて基地沿いの「16号線」を進みます。道路をはさんで基地の反対側の歩道沿いにいろんなお店が並んでいます。
 

 

 もっと人通りが激しいと思いましたが、けっこう閑散としています。アメリカナイズされたお店(アンティークの店が多い)や食べ物屋さんに入る人・・・ほとんどが日本人観光客?

 注:「アンティーク」(antique)は、フランス語で骨董品のこと。

 小さな公園では基地反対・オスプレイ配備反対の集会。
お店の名が入った「観光案内図」が随所に。
ベンチも随所に。
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JR「西八王子」駅~「箱根ヶ崎」駅まで。その4。(「日光千人同心街道」をゆく。第1日目。)

2018-10-25 18:50:43 | 日光千人同心街道
                             「大日堂」。
 「佐川急便」の先を左折し、中学校のグランド脇を進み、広い道を右折すると、「大日堂」の前に出てくる(12:07)。ここから西が「拝島宿」となるようです。


1880年代のようす。上方に東の枡形。


2010年代のようす。
 「多摩川」に架かる橋が「拝島橋」。旧道は「佐川急便」の西側を通っていたようです。
 今も昔も、「多摩川」は流れ本体よりも河川敷の方が広く、また深くえぐれています。そのため、ひとたび大雨になると、川幅も勢いも増す印象。上流、中流を問わず、洪水被害も大きく、長い間、自然と人間との闘いでもあったようです。

 多摩川は古くから暴れ川として知られています。
 河川の延長が138kmと短いにも関わらず、水源の標高が1953mと高く、勾配が急であるため、古くから洪水の度に流路は変わり、沿岸にあった村が川により隔てられてしまうことも珍しくありませんでした。
 現在に近い流路になったのは1590年の大洪水といわれており、その際に分断された丸子や等々力、野毛、瀬田、宇奈根、布田、押立、石田といった村々は、その後、堤防の整備が行われてそれぞれ別の市町村に取り込まれてしまいます。その名残が現在では川を挟んだ両側に同地名が残されていることで分かります。

 東京都大田区の「下丸子」に対して、川崎市中原区の「中丸子」「上丸子」。
 「等々力」は大田区と中原区に。
 「宇奈根」は、東京都世田谷区と川崎市高津区に。
 世田谷区の「野毛」「上野毛」に対して、高津区の「下野毛」。
 「瀬田」が世田谷区と高津区に。
 「中和泉」「元和泉」「東和泉」は、世田谷区、「和泉」は川崎市多摩区。
 「布田」は東京都調布市と川崎市多摩区に。
 「押立町」は東京都府中市と稲城市に。
 「石田」は国立市と日野市に。

 いずれも川を挟んだ同地名で、多摩川の暴れ川時代の名残です。

 「拝島宿」は千人同心が日光を往還する街路の宿場として成立しました。宿は東西にわたって、下宿・中宿・上宿と続いています。
 弘化3年(1846)には家数159軒。そのうち旅籠が6軒、そのほか居酒屋・質屋・荒物屋・菓子屋・鍛治屋・銭湯などが56軒も建ち並んでいたそうです。

 宿場の北側には、「大日堂」、「拝島大師」、「日吉神社」などの寺社が並んでいます。

 「拝島」は「昭島市」の一部です。

 昭島市は、昭和29年5月1日に昭和町と拝島村が合併し、東京都で7番目の市としてスタートしました。『昭島』の名前は、昭和町の「昭」と拝島村の「島」を合わせたものです。
【古代・中世】
 952年の洪水により多摩川上流の日原村日原鍾乳洞に安置されていた大日如来像が大神の中州の島に流れ着き、尊像は村人らに拝まれるようになり、お堂を建てて坐像を安置しました。
 その後、この地域が「拝島」という地名になり、滝山城築城時に、城の鬼門よけとなる現在の位置に大日堂を遷し、坐像を祀ました。
【近世】
 滝山城(1521年)が多摩川対岸築城され、城下町としての様相を呈してきました。1569年には武田信玄軍が拝島大師に陣を構え、武田勝頼らにより滝山城の北条氏照を攻撃しました。
 文禄年間に奥多摩街道と千人同心街道が交差するところに「拝島宿」が形成され、1652年より八王子千人同心が日光勤番の任務をする際に「拝島の渡し」を通り往来をしていたため、拝島宿は人馬の継ぎたて役となり、次第に宿場町として栄えてきました。1685年には、多摩川右岸にあった作目村が洪水で流出し、村民が対岸の田中村(現在の田中町)付近に避難し、定着しました。
 1866年(慶応2年)6月、武州一揆の支隊が多摩川の河原に集結し、「築地の渡し」で日野農兵隊と交戦となったが、一揆は鎮圧されました。
 江戸時代は、徳川領で「郷地・福島・築地・中神・宮沢・大神・上川原・田中・拝島」の9カ村があり、多摩川には「拝島の渡し・築地の渡し・平の渡し」の3つの渡しがありました。
・・・
(以上、「昭島市」公式HPより)

現在の「拝島宿」のようす。

 かつて、「拝島分水」という「玉川上水」の分水が拝島宿内の街道の中央を流れ、村民の生活用水や宿場用水として重要な役割を果たしてきましたが、現在は、暗渠になっています。

 (12:17)左手に臼井家の建物。拝島宿成立以前からの旧家のようです。

粋な黒塀のおうち。

宿場の面影は感じない、バス通り。

                      
                             
路地の奥には「拝島天神」。

右に曲がる辺りが宿場西の枡形。

(12:27)その曲がり角に地蔵一体と「解説板」。
御地蔵尊由緒
 このお地蔵様は、江戸時代初めの慶安年間に八王子千人同心が日光廟勤番に赴くために整備された日光往還道の宿場町として「拝島宿」が成立してまもなくの天和2年(1682)から鎮座していました。
 お地蔵様が東を向いているのは、坂下(「旧拝島町1番地」)に鎮座するお地蔵様と向き合い一対となって拝島宿の東と西の両側から宿場内を見守るために建立されたと伝えられております。
 昭和20年代初め道路整備時に破壊され台座のみが残っていましたが今般地元講中により再建されました。

                                 平成26年(2014)5月 上宿講中

その付近から枡形を振り返って望む。

右に曲がってすぐ左に入る細い道が旧道。

「拝島三叉路」交差点。「奥多摩街道」は左に曲がりますが、「千人同心街道」はまっすぐ進みます。


(12:34)「上宿」バス停。

「小荷田」の交差点からは、3車線と広くなった「国道16号線」を進みます。

              
        
1880年代のようす。西の枡形。               2010年代のようす。上方に、広い「国道16号線」。
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JR「西八王子」駅~「箱根ヶ崎」駅まで。その3。(「日光千人同心街道」をゆく。第1日目。)

2018-10-24 21:43:19 | 日光千人同心街道
                                  「谷地川」。
 「左入橋」交差点をまっすぐ進む。途中、左手、道路の正面遠くに「大岳山」の特徴的な山容が。
(↓)

                 
 奥多摩の山の東端にあたる、この山。秋、冬の澄んだ空の季節には、東京都内から(我が家の近くの土手からも)よく見える山。初心者の頃、登ったこともあります。

 片肩上がりの山体はどこからでも識別できる。『武蔵通志(山岳篇)』は「両総地方にて武蔵の鍋冠(なべかぶり)山と称し海路の標となす」と記され、江戸期には江戸湾に出入する船の目標でもあったようだ。いわゆる天文山の1つである。山名も古い文献を見ると大岳となっている。
 大岳山へは御岳(みたけ)から登山道をたどるのが一番楽だ。山頂の下に大岳神社と大岳山荘がある。この山小屋は獅子口小屋、日ノ出山東雲山荘と同時期に建てられたしゃれた建物で、今でも登山者に人気がある。山荘の横手の広場からは馬頭刈(まずかり)尾根や浅間尾根のかなたに富士山も見える。
より)

 この先も振り返ると、よく見えていました。 

切り通しの国道を進みます。かつてはけっこうな坂道だったようです。

        
                            
1880年代のようす。曲がりくねった旧道。         2010年代のようす。拡幅整備された国道16号線。     

「滝山城跡入口」の看板。

滝山城
 東京都八王子市丹木町にあった戦国時代の城。国の史跡。「続日本100名城」(123番)に選定された。
 1521年(永正18年)山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重が築城し、高月城から移ったという。1546年(天文15年)、北条氏康が河越の夜戦(河越城の戦い)で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を武蔵から排除すると、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎え、事実上、大石氏は北条氏の軍門に下った。1558年(永禄元年)頃、北条氏照は城の大改修を実施した。
 1569年(永禄12年)、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万が滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田信茂隊1千が小仏峠から進入、これに対し北条方は廿里で迎撃したが一蹴され(廿里古戦場)、滝山城三の丸まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ。しかしこの戦いは、滝山城の防御体制が不十分であることを痛感させ、八王子城を築城し移転するきっかけとなったといわれている。(異説あり) 
 多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇ったという。
 現在、遺構として本丸・中の丸・千畳敷跡空堀などが残っている。大部分が東京都立公園「滝山自然公園」となり桜の名所である。
                                                 (以上、「Wikipedia」参照)

 HPより)


ゆるやかな下り坂になり、「拝島橋」を渡ります。その手前に。
(11:34)「横浜から45㎞」ポスト。

「国道16号線」。八王子~横浜間は「シルクロード」、 横浜~横須賀間は「軍事輸送ルート」だった?!

 国道16号の八王子~横浜間は、「日本のシルクロード」と呼ばれる八王子街道が前身となっています。生糸貿易が盛んに行なわれた、幕末から明治にかけて、八王子は桑都と呼ばれ、信州、上州、秩父、甲斐などから生糸が集まる場所として栄えていました。この生糸を横浜港に運ぶ要路として利用されていたのが八王子街道です。
 一方、横浜~横須賀間は、横須賀港が、1877年に海軍港に指定されたために増加した、鎮守府などの海軍施設へつながる道路が前身となっています。横須賀港は、その後1948年に貿易港に指定され、自動車の輸出などに利用されています。

■横浜を起点に町から町へ。関東圏をリング状に結ぶ幹線道路。
 現在の国道16号は、全長約331km。横浜市を起点に、八王子市、大宮市、千葉市、木更津市、横須賀市を経て、再び横浜市に至る環状道路になっています。この経路は1962年に、路線指定されました。
 都心より半径30km圏を走るこの幹線道路沿いには、国際貿易港やコンビナート、流通センターなどが多く、コンテナ等を積んだ大型車が頻繁に行き交います。その光景からも、国道16号は、わが国の産業の発展を支える象徴的な道路のひとつと言えます。
HPより)

 木更津、相模原、横田、横須賀と米軍基地(あるいは自衛隊基地)を結ぶ「軍用道路」というイメージが強いのですが。幹線道路だけあって、交通量は半端じゃありません。

 なお、東京湾口に海上区間があり、観音崎(神奈川県横須賀市) - 富津岬(千葉県富津市)間は、海上を代替のフェリーで結ばれることにより、環状道路を形成しています。

 起点と終点が同じ国道は、全国で二本しかないようです(この場合、横浜)。
 もう一本は、「国道302号」=名古屋環状2号線と呼ばれる外環道路で、起点と終点が名古屋市中区。  

「多摩川」を「拝島橋」で渡ります。舟のモニュメント。


青空の下、上空を白い鳥が群れをなして下流へ。

          (↓)

「多摩川」の流れ。樹木もたくさん繁っています。

            ↓が「大岳山」。

                    

 (11:49)橋を渡った先にある児童公園内に「拝島の渡し」解説板。舟と帆柱のモニュメント。
 
拝島の渡し
 拝島橋の上流100㍍ほどのところに、その昔、「拝島の渡し」と呼ばれる日光街道の渡し場がありました。日光街道は、江戸時代初期の慶安年間(1648~52)に、八王子千人同心が日光勤番に赴く際の往還路として開かれた公道で、江戸時代を通じて上州(群馬県)方面と八王子を結ぶ重要な街道として機能していました。
 この渡しの管理は拝島村によって行われ、数人の船頭さんが常駐して随時船を往復させていました。
 もっとも、船を運航したのは春から秋にかけてで、冬の渇水期には数艘の船を浮かべ、その上に板を渡した浮き橋に仕立てることもありました。文久元年(1861)の記録によると、渡し賃は一人24文、大水の時は割り増し料金を徴収する、といった定めがありました。
 明治時代に入っても、なおさかんに利用され、昭和10年代には八王子―川越(埼玉県)間を走る定期バスが、この渡し船を利用して多摩川を渡ったこともありました。しかし、明治後期から昭和初期にかけ、鉄道網・道路網の整備が進み、拝島の渡しは次第にすたれ、昭和20年ごろにはほとんど利用されなくなり、仮設の木橋が架けられて、細々と機能しておりました。
 その後、昭和30年、拝島橋が開通し、この地は再び重要な渡河地点となって今日に至っています。

注:明治後期から大正にかけて「渡し場」は「拝島橋」の下流に移動しているようです。 

いよいよ街道1番目の「拝島宿」へ。
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JR「西八王子」駅~「箱根ヶ崎」駅まで。その2。(「日光千人同心街道」をゆく。第1日目。)

2018-10-23 20:06:11 | 日光千人同心街道
                           (10:14)「浅川」を「浅川橋」で渡ります。
 道路沿いのスーパーに寄って、飲み物と食料を調達。「八王子宿」から「拝島宿」へ進みます。

橋の途中で振り向くと、真っ白な富士山がちょっと顔を覗かせています。(↓)

               


雲一つ無い快晴。遠くの山々もはっきりと。

さらに「川口川橋」を越えます。旧道はこの付近では「国道16号線」や宅地開発で見失われているようです。橋を渡ってすぐ左に折れて、
住宅地の中を進むと、二体の地蔵が道ばたに。

 左のゆるい坂を上ると、左手に教会。その脇を上り、国道16号線に合流します。
 

「稲荷坂」と呼ばれているけっこうな上り坂。
 旧道は国道を越えて「ひよどり公園」方向へ進むようです。しかし、横断歩道はなく、中央ラインはガードされていて、渡ることはできません。坂の下にある交差点まで戻って渡るしかなさそう。

注:本来の「稲荷坂」は旧道にあり、現在の「ひよどり公園」に沿った、北側の坂道を指しているようです。

(10:41)ひよどり公園に向かう道への入口から八王子市街地を望む。
                                    かなりのロスタイムです。


1880年代のようす。くねくね曲がって上り下りする。


2010年代のようす。国道16号線は拡幅整備された。

「ひよどり公園」。緑が濃い。

右手にある「八王子うかい亭」。かなり高級そうなお店。
ABOUT US八王子うかい亭について

重厚な和の建築美と優美な内装が創りだす非日常
ここはうかい亭の物語 はじまりの地 武蔵野を望む小高い丘に佇む、八王子うかい亭。
豪商の邸宅を思わせるそこには、ジャパネスクとアールヌーボーの装飾品の数々。
和と洋が混じり合う大正モダンの香気漂う空間で、めくるめく味の饗宴をご堪能ください。
 (公式HPより)

ゆるやかに上り下りする道。

「市立ひよどり山中学校」脇を進む。

                 

右手にある「都立小宮公園」も散策にはもってこい。←を左に。

(11:00)下り坂になると、「中央道」に架かる「ひよどり第一橋」に。
振り返って望む。

「中央道」大月方面。

 橋を渡り、右へ曲がりながら坂道を下っていきます。左手に「鶯啼庵」。ここも立派な料亭。


 
心癒されるやすらぎの庵

「鶯啼」の二文字は、唐の詩人、杜牧の叙情詩「江南春」より「千里啼鶯緑映紅」の一節から頂きました。
遠くから鶯の声が聞こえ、美しく可憐な花々が咲いている情景に心癒されるような、やすらぎの庵にしたいとの願いを込めました。
四季折々の旬の恵みに触れながら、当庵でしか感じることの出来ない贅沢な時間を心ゆくまでお楽しみください。
HPより)

「中央道」のIC付近。

石材店の前に「庚申塔」や石仏が並んでいます。
                               金剛像は、享保16年(1731)のもの。

(11:09)その先で「国道16号線」に合流します。(歩道橋から)

1880年代のようす。現在もほぼこの道をたどっていく。

2010年代のようす。下が「中央道」、上が「16号線」。
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JR「西八王子」駅~「箱根ヶ崎」駅まで。その1。(「日光千人同心街道」をゆく。第1日目。)

2018-10-22 20:27:20 | 日光千人同心街道
                        (HPより引用)

 今回から「日光千人同心街道」歩きを始めます。

日光千人同心街道
 八王子千人同心が日光東照宮火番勤務のために往来した街道で、 八王子市の千人町から日光東照宮までの街道。
佐野(天明宿)で例幣使道と合流し、楡木で壬生道、今市で「日光道中・街道」と合流、その後、東照宮へ向かいました。
 「日光千人同心街道」は、八王子から佐野までの約90㎞の道のり。
 宿場は天明まで以下の15宿。
1 拝島 2 箱根ヶ崎 3 二本木 4 扇町屋 5 根岸 6 高萩 7 坂戸 8 高坂  9 松山  10 吹上 
11 忍  12 新郷  13 川俣 14 館林  15 天明(佐野)


10月21日(日)。快晴。初日は、JR中央線「西八王子」駅から八高線「箱根ヶ崎」駅まで。約3万歩です。

(9:25)駅前の歩道には「千人同心」の標示。

八王子千人同心の歴史
 八王子市の甲州街道沿いに「千人町」という町があります。珍しい町名ですね。なぜ「千人町」という町名なのでしょうか。それは江戸時代、この辺りに幕府の家臣団である八王子千人同心が住んでいたからなのです。
 また八王子市は現在、栃木県日光市・北海道苫小牧市と姉妹都市の関係を結んでいますが、それは八王子千人同心の活動が縁になっています。
では一体、八王子千人同心とはどのような人々なのでしょうか。

成り立ち
 八王子千人同心の始まりは、甲斐国(かいのくに・現在の山梨県)に求められます。9人の小人頭(こびとがしら)とその配下の人々で、武田信玄で有名な武田氏の家臣でした。千人同心は武田氏と大変ゆかりが深いのです。
 しかし武田氏は織田信長の攻撃により天正10年(1582年)に滅亡してしまいます。新たに甲斐国を治めたのが、後に江戸幕府を開いた徳川家康でした。小人頭と配下の同心も家康に召し抱えられ、新たな道を歩み始めます。
 各地で大名による争いが続いた戦国時代も、豊臣秀吉による天下統一へと進んでいました。この頃関東に強大な勢力を持っていたのが北条氏です。八王子も北条氏の領地でした。秀吉は関東に侵攻し、天正18年(1590年)に北条氏を降伏させました。北条氏に替わり関東を治めることになったのが徳川家康で、八王子も家康の支配となりました。
 やがて八王子地域の治安維持を主な目的として、9人の頭(かしら)とおよそ250人の同心が八王子に移されたのです。彼らが最初に住んでいたのは、落城まもない八王子城下でした。以降、千人同心の組織が整えられていきます。翌天正19年(1591年)、小人頭を一人増やして10名、同心は500人に増員され、文禄2年(1593年)には八王子城下から、現在の千人町を中心とした地域に屋敷地を拝領して移転してきます。さらに関ヶ原の戦いが行われた慶長5年(1600年)頃、同心が新たに召し抱えられて1,000人となり、文字通り「千人同心」となりました。
 八王子千人同心は、小人頭を起源とする千人頭(せんにんがしら)10名に率いられた同心1,000名からなります。頭1名に100名の同心がつく構成です。
 ところで千人頭と同心の間には明確な差がありました。千人頭は将軍にお目見えが許される旗本格で、知行地(ちぎょうち)を与えられていました。一方、同心はお目見えの許されない立場にあたり、幕府から手当は支給されましたが、武士としての役目を勤める時以外は、八王子周辺の村に居住し、年貢も納めていました。江戸時代は武士と農民のすみわけがはっきりとしており、いわゆる兵農分離の社会でしたので、こうした千人同心のありかたは珍しい形態でした。

公務と事業
 前に、八王子市と日光市・苫小牧市が姉妹都市であるのは千人同心の活動が縁になっていると述べましたが、それはどのような事情だったのでしょうか。
 千人同心の役割は、八王子の治安維持や国境警備、大きな合戦があれば従軍し、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも出陣しました。千人同心は軍事集団の役割を担っていたのです。しかし幕府の体制が整い、世の中が安定して平和の時代が到来すると、千人同心の役割も変わっていきます。

日光火の番
 千人同心に命じられた重要な役目が、慶安5年(1652年)から勤めた日光火の番でした。日光は、東照大権現として家康がまつられた東照宮があり、幕府の精神的なよりどころでした。
 千人同心は、その東照宮の防火と警備にあたり、境内や町内を見回り、いざ出火となれば消火活動にあたったのです。八王子から日光までは、当初は江戸に出て千住から向かうルートを通っていましたが、多くは八王子から拝島方面へ向かい、松山(埼玉県東松山市)・佐野(栃木県佐野市)を経るルートを利用しました。三泊四日の旅程でした。
 当初は千人頭2名と100名の同心が担当し、50日期間で交代する体制でした。その後何度か変更され、最終的には寛政3年(1791年)に千人頭1名と同心50名で半年交代で務める体制になりました。この役目は江戸時代を通じて勤められ、慶応4年(1868年)に千人同心が解体するまで続きました。
 この年、既に幕府は瓦解し、新政府軍と旧幕府勢との間で戦いが始まっていました。やがて新政府軍は日光にもやって来ました。この時、日光火の番を勤めていた千人頭が、石坂弥次右衛門義礼(いしざかやじえもんよしかた)でした。義礼は、刀を交えることなく新政府軍に明け渡し、東照宮を戦火から救いました(その後、義礼は八王子に戻りますが、責任を追及する声もあり、帰郷した夜に切腹してしまいます)。
 こうした関わりから、昭和49年(1974年)に八王子市と日光市は姉妹都市となりました。命を賭して東照宮を守った石坂弥次右衛門義礼の墓は、菩提寺の興岳寺(八王子市千人町)にありますが、墓前の香台は日光市から贈られたものです。

蝦夷地の開拓
 もうひとつ、千人同心の活動としてあげられるのが、蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の開拓事業です。18世紀も後半になると、江戸幕府はロシアの進出による防衛強化の必要から蝦夷地の一部を直接支配しました。こうした動向に呼応して、千人頭の原半左衛門胤敦(はらはんざえもんたねあつ)は蝦夷地の開拓と警備を幕府に願い出ます。
 寛政12年(1800年)幕府の許可を得て、胤敦は弟の新介とともに、千人同心の子弟100名を率いて北海道に渡りました。胤敦は白糠(しらぬか、現在の白糠町)、新介は勇払(ゆうふつ、現在の苫小牧市)にそれぞれ向かいますが、現地の気候の厳しさは彼らの想像を超えるものでした。開拓による収穫は乏しく、病人や死者が続出し、開拓事業は終了せざるを得ませんでしたが、こうした胤敦らの事業がゆかりとなり、昭和48年(1973年)八王子市と苫小牧市は姉妹都市となりました。
 この開拓事業を主導した原半左衛門胤敦の墓は、弟の新介の墓とともに、菩提寺の本立寺(八王子市上野町)にありますが、墓前に建つ石灯籠は、苫小牧市から贈られたものです。また白糠町とは隔年ごとにお互いの小学生が行き来して、交流を重ねています。

文化事業
 胤敦は蝦夷地から戻ると千人頭に復帰しましたが、しばらくした後、幕府から多摩郡の地誌調査を命じられました。胤敦は植田孟縉(うえだもうしん)や塩野適斎(しおのてきさい)ら他の千人同心とともに多摩の村々の調査を開始します。
こうして文政5年(1822年)「新編武蔵国風土記稿」多摩郡の部が完成し、幕府に納められました。ほかにも植田孟縉は「武蔵名勝図絵」、塩野適斎は 「桑都日記」を著すなど、千人同心は文化事業にも貢献したのです。また、彼らの一世代あとの松本斗機蔵(まつもとときぞう)は、海外事情に精通した千人同心で、頻繁に外国船が姿を現すようになった時代を受けて、「献芹微衷」(けんきんびちゅう)と題する海防政策の提言書を著すなど、世界に目を向けていました。

千人隊の解体
 幕末になると、国内外の政情不安を背景に、幕府は軍制改革を行い、千人同心も西洋式軍隊への近代化が図られました。慶応2年(1866年)には名称も「千人隊」と改称され、長州出兵、横浜の警備、将軍が京都へ行く際の御供などに動員されました。
慶応3年(1867年)、徳川慶喜の大政奉還により、幕府は政権を返上、明治維新を迎えると、新政府軍は旧幕府勢力の討伐のために、関東へと軍を進めます。
 慶応4年(1868年)3月、板垣退助の率いる軍隊が八王子にやってきました。千人隊は礼装で官軍を迎え、徳川家への寛大な処置をしたためた嘆願書を提出するとともに、武器を差し出して恭順します。慶応4年(1868年)6月、新政府から去就を迫られ、徳川家に従い静岡に移住するもの、新政府に仕えるもの、そして多くの隊士が武士身分を捨てて農民となります。こうして千人隊は解体され、八王子千人同心は終わりを迎えました。

(以上「」HPより)

   「馬場横丁」。
 江戸時代、千人隊拝領の馬場が宗格院の北側現在の五小前の通りにあったので、当時からこの所より宗格院迄の道を馬場横丁と呼んでいた・・・

しばらく「甲州街道」を北東に進みます。

(9:36)「陣馬街道」との追分に大きな「道標」。

                「右 あんげ道 左 甲州街道高尾山道」。


追分の道標について
 この道標は文化8年(1811)、江戸の清八という職人(足袋屋)が、高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てた道標の一つです。
 その後、昭和20年(1945)8月2日の八王子空襲によって4つに折れ、一部は行方不明となってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館に展示されていました。
 このたび、地元の要望を受け、この道標が復元され、当地に建立されました。2段目と4段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです。  

 「あんげ道(陣馬街道)」にちょっと入った左手に「千人同心屋敷跡記念碑」。


 甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられ、千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷があったといわれています。
詳しい解説板。

追分から「甲州街道」を望む。

「陣馬街道」を望む。

 八王子宿に入ります。右手に古い商家。こんにゃく屋の「中野屋商店」。


                       

「秋川街道」という標示。

 かつての八王子のようすが写真パネルで紹介されています。
 

左手には見世蔵つくりの堂々たる建物。

(9:55)その先、「八幡町」交差点を左折し、いよいよ「千人同心街道」に入ります。けっこう寄り道しているうちに時間がかかってしまいます。


↓が「甲州街道」。→が「千人同心日光街道(現「国道16号線」)」。



 この付近の今昔


1880年代のようす。左端に「追分」。



2010年代のようす。←が「八幡町」交差点。そこから北に延びる道が現在の「日光千人同心街道」。
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