晩秋の田園風景。
「狭山茶」一面、茶畑。
「日光街道」と記された標識。
「高倉天神」交差点の手前に「榜示杙跡説明板」があります。その脇に朽ちて倒れているのがその榜示杙?(↓)
榜示杙
牓示とも書く。榜示とは領地の境界を示す標識のことで、古代、中世の寺院、神社の所領や荘園などの範囲を確認するため、その四至、すなわちその四方に設置されたのがはじまりという。一般に石材や木杭、自然木などが利用された。
越後国、奥山荘(新潟県蒲原郡)の石榜示のごとく巨石を用いた例などもある。
明治初年まで当市の日光街道にも村境を示すものとして、二本の榜示杙(木杭)が立っていた。
平成6年6月30日 鶴ヶ島市教育委員会
(9:26)「高倉天神」交差点を渡ります。
並木は続きます。
「鶴ヶ島中」脇にもう一つの榜示杙。ここは、榜示杙が立てられています。
行く方向を望む。
向かいの細道を入ると、「川崎平右衛門定孝陣屋跡」。
解説板。
鶴ヶ島市指定史跡 武州三角原
川崎平右衛門定孝陣屋跡
川崎平右衛門定孝は元禄7年(1694)武蔵国多摩郡押立村(現在の府中市)の名主の家に生まれました。元々農業に従事し、荒地の開墾や用水・灌漑の改善など各振興事業を行ったり、私財を投じて窮民を救ったこともあり、篤農家として村民からは厚い信頼を受けていました。抜擢されて新田世話役、のちに代官となり武蔵野新田開発を成功に導きました。この三角原は新田開発に当たり、彼が拠点として陣屋を設けたところです。
享保7年(1722)徳川吉宗による新田開発令が出て、武蔵野台地の全面的な開拓が進められましたが、これは多数の新田村をつくり、石高にして11万2千石(1石は約180リットル)の増収を得ようとする計画でした。
開発当初の出百姓(入植者)の困窮ははなはだしく、また大凶作にも見まわれ、元文4年(1739)には新田の総家数1327戸のうち161戸が潰れ百姓(破産した農家)となり、どうにか生活していけるものはわずか9戸であったといいます。
幕府は武士が指導した新田開発が失敗した苦い経験から農民出身の平右衛門を南北武蔵野新田世話役に登用し、農民の実情にあった新田開発事業を推進させました。
平右衛門と農民の努力の結果、多摩郡・高麗郡・入間郡・新座郡にわたって500町歩(約500ヘクタール)の新田がみごとに開墾され、やがて寛保3年(1743)平右衛門は代官に任ぜられました。
その後、明和4年(1767)、平右衛門は幕府勘定所の検査をする勘定吟味役兼諸国銀山奉行となりましたが、同年6月74歳で生涯を終えました。
ここにある小祠は、寛政10年(1798)新田の農民たちが平右衛門の徳を追慕して建てたもので、正面に川崎大明神と刻み込まれています。
陣屋は平右衛門が美濃に任地替になったため建物は取り払われましたが、土塁や堀は昭和16年日本農地開発営団の開墾が始まるまで残っており、現在の土塁はその後に作られたものです。
平成5年に陣屋跡の確認調査を実施したところ、位置は現在のものと一部分で重なりながらも、西側を走る日光街道杉並木と平行し、堀跡等は発見され陣屋跡の規模からそれまで考えられていたものより約3倍(東西53.5m・南北55m)の大きさがあることがわかりました。
平成11年3月 鶴ヶ島市教育委員会
「桜並木」解説板。
・・・街道沿いの杉や松は江戸時代(17世紀後半)に植えられたものと言われ、かつては老樹が立ち並んでいました。この老樹も戦後にあった大型の台風により多くが倒れ、昔の面影がうすれていく有様を惜しんだ川上庄作氏(三ツ木)が私費を投じて桜苗を購入し植え付け、現在の桜並木となりました。
この街道では毎年3月下旬から4月上旬にかけて「桜まつり」が行われ多くの人で賑わい、憩いの場所として親しまれています。
これからも、この桜並木を皆様と共に親しみ、見守っていきたいと思います。
2001年4月7日 鶴ヶ島桜まつり実行委員会
「脚折才道木」交差点の手前には庚申塔と馬頭観音のおさまった祠。
ところで「脚折才道木」の読みといわれは?
読み:スネオリサイドギ
「脚折」(スネオリ)のいわれ:日本武尊が東征の折、馬が足を折ったという故事から?
「才道木」(サイドギ)のいわれ:??
「狭山茶」一面、茶畑。
「日光街道」と記された標識。
「高倉天神」交差点の手前に「榜示杙跡説明板」があります。その脇に朽ちて倒れているのがその榜示杙?(↓)
榜示杙
牓示とも書く。榜示とは領地の境界を示す標識のことで、古代、中世の寺院、神社の所領や荘園などの範囲を確認するため、その四至、すなわちその四方に設置されたのがはじまりという。一般に石材や木杭、自然木などが利用された。
越後国、奥山荘(新潟県蒲原郡)の石榜示のごとく巨石を用いた例などもある。
明治初年まで当市の日光街道にも村境を示すものとして、二本の榜示杙(木杭)が立っていた。
平成6年6月30日 鶴ヶ島市教育委員会
(9:26)「高倉天神」交差点を渡ります。
並木は続きます。
「鶴ヶ島中」脇にもう一つの榜示杙。ここは、榜示杙が立てられています。
行く方向を望む。
向かいの細道を入ると、「川崎平右衛門定孝陣屋跡」。
解説板。
鶴ヶ島市指定史跡 武州三角原
川崎平右衛門定孝陣屋跡
川崎平右衛門定孝は元禄7年(1694)武蔵国多摩郡押立村(現在の府中市)の名主の家に生まれました。元々農業に従事し、荒地の開墾や用水・灌漑の改善など各振興事業を行ったり、私財を投じて窮民を救ったこともあり、篤農家として村民からは厚い信頼を受けていました。抜擢されて新田世話役、のちに代官となり武蔵野新田開発を成功に導きました。この三角原は新田開発に当たり、彼が拠点として陣屋を設けたところです。
享保7年(1722)徳川吉宗による新田開発令が出て、武蔵野台地の全面的な開拓が進められましたが、これは多数の新田村をつくり、石高にして11万2千石(1石は約180リットル)の増収を得ようとする計画でした。
開発当初の出百姓(入植者)の困窮ははなはだしく、また大凶作にも見まわれ、元文4年(1739)には新田の総家数1327戸のうち161戸が潰れ百姓(破産した農家)となり、どうにか生活していけるものはわずか9戸であったといいます。
幕府は武士が指導した新田開発が失敗した苦い経験から農民出身の平右衛門を南北武蔵野新田世話役に登用し、農民の実情にあった新田開発事業を推進させました。
平右衛門と農民の努力の結果、多摩郡・高麗郡・入間郡・新座郡にわたって500町歩(約500ヘクタール)の新田がみごとに開墾され、やがて寛保3年(1743)平右衛門は代官に任ぜられました。
その後、明和4年(1767)、平右衛門は幕府勘定所の検査をする勘定吟味役兼諸国銀山奉行となりましたが、同年6月74歳で生涯を終えました。
ここにある小祠は、寛政10年(1798)新田の農民たちが平右衛門の徳を追慕して建てたもので、正面に川崎大明神と刻み込まれています。
陣屋は平右衛門が美濃に任地替になったため建物は取り払われましたが、土塁や堀は昭和16年日本農地開発営団の開墾が始まるまで残っており、現在の土塁はその後に作られたものです。
平成5年に陣屋跡の確認調査を実施したところ、位置は現在のものと一部分で重なりながらも、西側を走る日光街道杉並木と平行し、堀跡等は発見され陣屋跡の規模からそれまで考えられていたものより約3倍(東西53.5m・南北55m)の大きさがあることがわかりました。
平成11年3月 鶴ヶ島市教育委員会
「桜並木」解説板。
・・・街道沿いの杉や松は江戸時代(17世紀後半)に植えられたものと言われ、かつては老樹が立ち並んでいました。この老樹も戦後にあった大型の台風により多くが倒れ、昔の面影がうすれていく有様を惜しんだ川上庄作氏(三ツ木)が私費を投じて桜苗を購入し植え付け、現在の桜並木となりました。
この街道では毎年3月下旬から4月上旬にかけて「桜まつり」が行われ多くの人で賑わい、憩いの場所として親しまれています。
これからも、この桜並木を皆様と共に親しみ、見守っていきたいと思います。
2001年4月7日 鶴ヶ島桜まつり実行委員会
「脚折才道木」交差点の手前には庚申塔と馬頭観音のおさまった祠。
ところで「脚折才道木」の読みといわれは?
読み:スネオリサイドギ
「脚折」(スネオリ)のいわれ:日本武尊が東征の折、馬が足を折ったという故事から?
「才道木」(サイドギ)のいわれ:??