「小村井梅園の由来」解説板。
小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の梅の名所です。香取神社の東側に位置し、小村井村字出戸511番に3千3百坪の広さを持ち、切り絵図には「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御成有」と記され、毎年花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。紅梅白梅と姿良く、また老樹も多く、大きな実も穫れました。
園内には、築山や池に名石が組まれ、東西に亘り松の大木が二列に立ち並び、鴨・鷺など多くの鳥が飛び交い、利根川の魚を畜った釣り堀もあり、花菖蒲に秋の七草と多くの人で賑わいました。安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には、「小村井は亀戸より四、五町巽の方に在り此の所に香取の社あり その傍ら梅園ありて満開の節は薫風馥郁として行人の花を穿つ 実に新香の梅屋敷にも倍勝景・・・」と記されています。惜しくも明治43年の大水で廃園となりました。面影を偲び、此處にその由来を記して記念とします。
平成二年九月吉日 平成二年度世話人
狭い敷地にたくさんの梅、梅。
古木から新しい木まで。
枝垂れ系の梅が目を引きます。 「見驚」。薄紅から白へと変わる大き目の花を見て驚いた、というところからこの名がついたとも。シーズンの終わり頃に開花。ちょっとまだ早すぎた感じです。
初日とあってたくさんの人。
「錦光」。枝振りが見事。
庭先にも。
「紅冬至」。
見上げるほどの大木の先にいくつか花が。青空に映えています。
「御簾の内」。
狭い敷地に所狭しとたくさんの梅の木。
「向島百花園」(ここもそれほど広くはありませんが)のように、梅の木が適度に間隔で配置され、メジロなどの野鳥も訪れ、池や築山などもある、という風情とは異なっています。
それでも、地元の方々の「小村井梅園」復活への熱意・情熱を充分感じさせる趣です。
ここから少し南、「明治通り」と「蔵前橋通り」との交差点に「亀戸梅屋敷」という観光施設があります。その付近にはかつて大きな梅屋敷があったそうです。「向島百花園」「小村井梅園」と並び、とりわけ有名だったようです。
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江戸時代、亀戸には呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘「清香庵」があり、その庭には見事な梅の木々が生えていました。立春の頃になると江戸中から人々が北十間川や堅川を船でやってきて、この地はたいそう賑わったといいます。
特に庭園のなかを数十丈(150m)にわたり枝が地中に入ったり出たりする一本の梅が名高く、評判を聞きつけこの地を訪れた水戸光圀は、まるで竜が臥しているようであると感嘆し、その木に「臥竜梅」の名を与えました。また、八代将軍・徳川吉宗は、一旦土に入った枝が、再び地上に這い出る様を生命の循環になぞらえ、「世継ぎの梅」と命名し賞賛したそうです。
「亀戸梅屋敷」の名で人気を博したこの梅の名所は、多くの浮世絵で題材となっていますが、なかでも浮世絵師・歌川広重が安政三年(1857年)に描いた『名所江戸百景』の「亀戸梅屋敷」は、江戸の時代に海を越え、かのフィンセント・ファン・ゴッホが模写(作品名「日本趣味:梅の花」/1887年)するなど、日本のみならず世界から評価された傑作と言えるでしょう。
(この項、「」HPより)
粋な江戸ッ子たちを魅了し、その名を世界に知らしめた「亀戸梅屋敷」。当時の賑わいの場として、そして、江戸/下町/亀戸の粋な歴史と文化を世界へ発信する拠点として、当館を「亀戸梅屋敷」と名付けました。
浮世絵師・歌川広重が描いたこともある江戸時代の亀戸に実在した梅屋敷。
亀戸梅屋敷はその歴史ある建物をモチーフにして、
観光案内所や物産店、江戸切子ギャラリー、寄席等、
亀戸の文化、歴史の魅力をたっぷり味わえる複合商業施設です。
(この項、「江東区」HPより)
歌川広重画。(「国立国会図書館」HPより)
左の浮世絵を模写した絵がゴッホの作品として有名。
明治43(1910)年、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸町・大島町・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。現在は、浅草通り沿いに説明板と記念碑、細い紅白の梅が植えてあるだけです。
写真は、その跡地の遠景(北十間川から写したもの)。
(「今昔マップ」より)
この地図(1896~1909明治中後期)で、上方に「江東梅園(小村井梅園)」、下方に「臥龍梅」とあります。