おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

人はなぜカルトにはまるのか

2005-04-10 11:33:46 | 平和
 京都の宗教団体での事件。明らかにカルト教団。教祖の発言を聞いても、キリストに名を借りたインチキ説法。金と欲とがみえみえ。
 でも、なぜそういうインチキ教祖に、いとも人々は、簡単に騙されるのか。被害者になった子どもたちには同情を禁じ得ないが、両親がいてそういう状況になっていった背景には、正常な分別を失ってしまっている親の存在があるはずだ。
 人々の不安心理をかきたてる言葉は、「お前には罰が当たる」。家庭の崩壊、地域の解体。一方で次々と起こる事件や災害・・・。そして、世界(地球)は亡びると恐怖心を煽る。自己の存在への不安や社会不信・不安。その中で、社会的なつながりを断ち切って、自分たちだけのユートピアを夢想する。時として、強烈な選民意識を持って。
 何も悪いことをしていなければ、「罪」や「罰」などを感じる必要はない、と普通は考え、あまり深く考えもせず、日常生活を送っている。それは一般的な感覚である。しかし、人間、完璧にいつも正しく、常に善なることを行っている者など一人もいない。例えば、金銭欲や所有欲・・・。それに執着することの後ろめたさや罪。それを言葉巧みにつかれると、人の心は、もろくも崩れるのではないか。その心の隙間に忍び寄ってくるのがカルトだと思う。カルト集団は、教祖(及び弟子たち)がしきりに力説する理想に対して、世間の人々への勧誘の現実は、「罰」が当たるなどというとてつもなく通俗的なところから始まる。
 詐欺師は巧みに人間の心の弱さをつかむ。けれど、詐欺師には「自分は詐欺を行っている」という認識はあるのではないか。ところが、宗教家は自分がインチキな説法をしているなどとはつゆ思わない。自分の宗教的立場を確信している。そこが、大きな違いだろう。自分は人々を救うために世の中を浄化するために修行し導いている、と。
 だから、誰よりも確信ある発言や行動を行ってみせる。今回のことも、本人には全く罪の意識などはあろうはずもない。自分は、「法律」などという現世の法体系そのものを否定すべき、超越した存在であって、相手を救うための正しい行為がいちいち世間法によって咎められる筋合いはないものだ、と。そして、信者への説法あるいは信者の勧誘に際して、世間の濁った価値観を喜んで捨てるところに真の救いがあると説教する。もし逆らえば、罰を受けて地獄に堕ちる、と。そうした恐怖感を信者に与える。こうして、人がいったん絡め取られたならば、抜け出すのは至難の業だ。
 かつて「踊る宗教」と言われ、一時流行した新興宗教もあったが、今回もわけの分からない説法に歌と踊りをまぶして、閉じこめられた密室(光と音の幻想空間)の中で子どもたちを興奮状態・憑依状態にさせていく方法をとっている。そうした光景の教団ビデオを見ると、いかにも無惨な感じがする。興奮して説法する教祖とそれに盲従する親たち、わけも分からないままに踊り狂う子どもたち。
 おそらく今回の検挙・摘発に対して、教団側は無実を訴え、宗教弾圧だとし、信者の結束をはかるだろう。既に財産を巻き上げられ、どっぷりと教団に絡め取られた親たち・心を奪われた子どもたちは、世間(マスコミ)に対して、猛然とくってかかるに違いない。我々は正しい、あんたたちが地獄に堕ちる、と。
 オーム真理教(アレフ)だけではない。繰り返し繰り返し発生するカルト教団の存在。そして、そこに結果的に身をおくはめになるしかなかった人々の存在。
 かくも、人間は、身も心も脆弱な存在なのだろうか。今も、昔も、これからも。
コメント (1)
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