おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「隷従への道」(フリードリヒ・ハイエク 村井章子訳)日経BPクラシックス 

2017-02-05 13:50:11 | 読書無限
 アメリカの経済学者・ブルース・コールドウェルによる序文によって、ハイエクのこの書のルーツと出版のいきさつ、その後の肯定、否定両面からの反応、そして、この書が今なお失わない今日的意義について知ることができます。
 「党派を問わずすべての社会主義者思想の持ち主に捧ぐ」という冒頭の一句や第12章の「ナチズムを生んだ社会主義」という表題が示すように、徹底した自由主義経済論の立場から、ドイツのナチズムへの批判を基本にしながら、ロシア革命によって成立した旧ソ連の「社会主義」という名の下での計画経済の誤りをも論じた内容で、生産手段の集約化、計画化、統制化などがいかに自由な経済活動を阻害するか(ケインズなどとの論争は有名)について論考しています。
 その点では、主として社会主義(運動)に共感を持つ人々からは毛嫌いされ(社会主義とファシズム、ナチズムを同一視しているという)、反対に自由主義を標榜する立場からは賞賛される(社会主義体制を批判しているという)書。
 そういうこの書の内容を巡る論争を置いても(評価など云々するほど経済には知識もありませんので)多面的で大部な内容ですが、興味深く読み進めることができます。
 中でも、次の内容が大変面白く読みました。まさに、これこそ今日的意義ではないかと。アメリカ大統領トランプ誕生と彼の政策、発言、行動とがオーバーラップしてくるからです。(ちょっと引用文が長いですが)

第10章 最悪の人間が指導者になるのはなぜか
 単一の虚偽を奉じる強大な集団は、主に三つの理由から、とかく最高の人間ではなく最低の人間で形成されやすい。このような連中を動員するからくりは、私たちの基準からすればどれも好ましくない。
 第一に、教育水準が高く知的になるほど、一般に意見や好みは多様化するため、ある特定の価値観を共有する可能性は低くなる。同じような意見を大勢が共有する状況が見られるのは、倫理規範も知的水準も低い集団であり、そこでは大勢がより原始的な「共通」の本能や好みを共有している。なにも、大方の人はモラルが低いと言いたいのではない。誰もが同じような価値観を抱いている大集団があったら、その中にいる人々は倫理的・知的水準が低いということだ。言うなれば、最大多数をまとめるのは最小公約数なのである。特定の価値観をすべての国民に強要できるほど強大な集団が、知的水準が高く意見も好みもまちまちな人たちで形成されることはまずない。そうした集団を形成すのは、悪い意味での「大衆」の一員であり、独創性も自主性もなく、数を力と恃むような連中である。
 支持者の数を増やすには、大勢を洗脳して引き入れなければならない。
 そこで、第二のいかがわしいからくりが登場する。それは従順でだまされやすく、自分の考えというものをまるで持っていない人を根こそぎ支持者にするというやり方である。こういう人たちは、耳元で何度も大声でがなり立てられれば、どんな価値観も受け入れてしまう。かくして、ものごとを深く考えようとせずあっさり他人に同調する人や、すぐに感情が昂ぶる人たちが加わって、全体主義政党の党員はあっという間に膨らむ。
 第三の、おそらくは最も好ましくないしかけは、熟練した扇動者が結束力の強い均質な支持母体を形成する手口にある。どうやら人間の本性というものは、建設的なことよりも、敵に対する憎悪や地位の高い人に対する羨望といった非生産的なことで一致団結しやすいようだ。どんな集団でも、連帯意識を高め共同歩調をとるためには、仲間内と外とをはっきり区別し、外に対して共闘することが必須であるらしい。このやり方は、政策の賛同を得るためにも、大衆の無条件の忠誠を勝ち得るときにも使われている。扇動者の立場からすれば、下手に建設的なことを言うよりも行動の余地が広い、という大きな利点があるからだろう。敵は、ユダヤ人や富農など内部の敵でもいいし、国外の敵でもいい。ともかくも全体主義の指導者にとって、敵は必要不可欠な動員手段だと見える。
 ドイツでは「財閥」が敵とされるまではユダヤ人が敵と位置づけられていた。またロシアでは「富農」が敵とされていた。・・・(P354)

 ハイエクにとって経済政策・思想上での批判の対象は、「集産主義」。「全体主義」経済の思想・手段そのものです。

※「集産主義(コレクティビズム)」=生産手段などの集約化・計画化・統制化などを進める考え。広く国家の経済への介入や計画全般を指す。

 ハイエクは、共産主義もファシズムも「集産主義」という面では同根であり、傲慢な全体主義体制であると批判しているわけです。

 もちろん、トランプが矢継ぎ早に出している(大統領選中の激しい排他的、米国利益第一主義の主張。選挙民の共感を得たと主張する)「大統領令」は、包括的な経済協力体制否定であったり、規制緩和であったりしていて、一見、「国家・政府」の介入を緩和しようとする「小さな政府」(共和党の年来の立場)と言えそうですが、具体的な会財政策は、強引なほどの政府誘導による(自国、外国問わず)企業介入、景気浮揚、賃金アップ、雇用確保のようで、かつての「ニューディール政策」などと類似している印象です。(「ニューディール政策」は、一種の集産主義と呼ばれることもありますので。)特にその「排他主義」の危険はどこにアメリカを導くのか、・・・。
  
 また、トランプにはカリスマ性があまりなさそうで(自分ではそう思っているふしがありますが)、ヒトラーが率いたナチズムなどのようにはならないと楽観視する見方もあるようですが、まったく危険がないわけではありません。その証拠になびき始めた企業家やマスコミも出てきていますから。
 特に我が国の総理は、巨額な国のお金を使って貢献しようという「朝貢」外交を展開しようとしている「愚か」ぶりですので。

 目的は手段を正当化するという主張は、個人主義の倫理観からすれば倫理の否定にほかならない。ところが集産主義の倫理観では、これが究極のルールとなる。筋金入りの集産主義者にとって、彼らの言う「全体の幸福」に役立つことであれば、してはならないことは文字通り何もない。「全体の幸福」こそが彼らにとっての唯一の価値基準である。集産主義の倫理観を単純明快に表す概念に「国家理性(レゾン・デタ)」というものがある。これは国家の存在を市場のものとみなす原理で、国家が恣意的に決める条件以外には、行動を縛る原則はない。個々の行為は、国家の目的に適いさえすればよいのである。・・・
(P366)

 その結果、
「・・・集産主義の政策はつねに一部の集団の利益のみに適うということだ。そうでない集産主義が果たして現実にあり得るのか、考えてほしい。また、排他主義(国粋主義であれ、民族主義であれ、階級主義であれ)に陥らない集産主義があり得るのか、考えてほしい。・・・」(P357)

 アメリカではジョージ・オーウェルの小説「1984年」が読まれ始めたようです。この小説は反全体主義・反集産主義の立場。ここに登場する独裁政党の政治思想・イングソック(イングランド社会主義)は、政府宣伝によれば社会主義の一種ということになっていますが、支配者たちはその正体を「少数独裁制集産主義」とみなしています。アメリカ市民はそんな危機感を感じとっているのかもしれません。
 トランプNO! の声がどこまで届くか、アメリカ民主主義の真価が問われています。いや、世界の、日本の、・・・アベ政権は、先取りでどんどん国家主義的政策をおし進めている、それが実はトランプのますますお気に入りになっているのではないでしょうか。
 だとすれば、すでにアメリカ・トランプ政権と軍事も経済も一蓮托生を歩み始めた日本の(民主主義国家としての)未来も実に危ういものになっていきます。何とかしなければ取り返しの付かない事態に。・・・ 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする