おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR埼京線「板橋」駅~JR武蔵野線「新座」駅。その1。(「川越街道」第1日目。)

2018-12-24 18:49:20 | 川越街道
                                  旧中山道との分岐点「平尾追分」(↓)。

 2日間の「川越街道」歩き。
川越街道
 戦国時代の太田道灌が川越城と江戸城を築いたころ、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道であり、また江戸城には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えた。
 日本橋から川越城下まで栗(九里)より(四里)うまい十三里とうたわれ、「川越いも」の宣伝にも一役かった。
 江戸時代、川越は、江戸の北西を守る要となり、藩主には、老中格の譜代大名が配置された。また、家康以下、三大将軍も、鷹狩りや参詣にこの街道を往来し、松平信綱が川越城主となってからは、さらに整備されるようになった。
 街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の六か宿が設置され、人馬の往来が盛んであったが、各宿場の村にとって、伝馬役の負担も大きかったという。
(「人力・旧街道ウォーキング」www.jinriki.info/kaidolist/kawagoekaiHPより拝借)

1880年代のようす。○が「平尾追分」。

2010年代のようす。頭上は首都高に覆われている。

(10:14)JR埼京線「板橋」駅脇を通る「旧中山道」。

 その先、板橋3丁目交差点が「平尾の追分」で、右手奥の商店街に進むのが「旧中山道・板橋宿」で、左側の「国道17号線」「首都高」の下を行くのが旧川越街道になります。
黄色いビルの脇を通るのが「旧中山道」。3年前に通りました。

左に折れていきます。



                    「板橋四つ又商店街」。

案内板。高速道路下でちょっと気の毒な印象。
 ここは、旧中山道から分岐した旧川越街道と高田道(高田・雑司ヶ谷へ至る道)が交差していたところ。旧川越街道は中山道の迂回路として使われ、大名行列は、この道を通り川越を経て熊谷方面に向かったそうで、当時からこの界隈は賑わっていたようです。

 「山手通り」を越えると、人通りの多い「遊座大山商店街」に。
  「遊座大山」。

(10:37)東武線の踏切を越えます。左手に「大山」駅。

 その先はアーケードが続く「ハッピーロード大山商店街」。年末のせいか、買い物客でごった返しています。こんな元気な商店街を通るのは久々です。
 

 旧中山道では「巣鴨地蔵通り(じじばばの原宿通り)」や「板橋宿」も街道沿いに商店街が発展し、今も賑やかな通りになっているようです。この川越街道もそんな感じ。
けっこうなことです。

 600㍍以上、長く続いたアーケード街を抜けると、「国道254号線」に合流します。右手には大きなおうち。


 この先、ほぼ「国道254号線(現「川越街道」)」をなぞっていきます。最寄りの鉄道としては「東武東上線」となります。

 (10:47)「日大病院入口」交差点の先で、右手の旧道に入ります。この先から「上板橋宿」となります。
 

「下頭(げとう)橋通り 旧川越街道」という標識。

住宅街のゆるやかな坂道を進みます。

右手の神社の境内にある「解説板」。
旧上板橋宿概念図
 川越街道は、江戸時代に川越道中・川越往還とも称し、川越と江戸を結ぶ幹線でした。また、中山道の脇往還としても利用され、信州や越後にも通じていました。この弥生町沿いは、宿(上板橋宿)と呼ばれ、川越口(下頭橋)から上・中・下の3宿に分かれ、文政6年(1823)の「上板橋村地誌改書上帳」には、宿内は「六丁四拾間」(約730m)道幅は「三間」(約5.5m)と記載されています。宿の中程には名主屋敷と称する建物があって、昭和の初め頃まで遺っていたようです。名主の河原与右衛門家は明治期には転居してしまいましたが、明治期に副戸長を務めた榎本家には「上板橋宿副戸長」と刻まれた石碑が現存しています。
 上板橋村は、町場(宿)と村方に分かれ、その村方の範囲には現在の板橋区の南西部地域と練馬区の小竹・江古田も含まれ、その地域からは人馬が提供され旅客や物資の継立てを担っていました。



現在と道筋はほとんど変わりません。



街道筋らしい建物が一軒。

(10:59)「石神井川」に架かる「下頭橋」にさしかかります。

                            「石神井川」。

「下頭橋」手前、「下頭橋六蔵尊」にある解説板。下頭橋
 弥生町を縦断する道が旧川越街道で、大山町境から石神井川迄が上板橋宿跡である。宿端の石神井川に架かる下頭橋は、寛政10年(1798)近隣の村々の協力を得ることで石橋に架け替えられ、それまでひんぱつした水難事故も跡を絶ったという。この境内にある「他力善根供養」の石碑はその時に建てられたもの。
 橋の名の由来については諸説がある。一つ目は、旅僧が地面に突き刺した榎の杖がやがて芽をふいて大木に成長したという逆さ榎がこの地にあったから。二つ目は、川越城主が江戸に出府の際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて出迎えたから。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨をいた受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからというもので、六蔵祠はこの六蔵の道徳を讃えて建てられた。・・・

 
1880年代のようす。中央に「下頭橋」。



2010年代のようす。蛇行していた「石神井川」が直線に。↑が旧道。
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