おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

8月7日。立秋。「秋来ぬと・・・」。朝顔。オミナエシ。キキョウ。ススキ。クズ・・・

2024-08-07 18:15:37 | 二十四節気

     朝顔。「向島百花園」にて。

今日は、24節気の13番目、立秋」。暦の上では、「立冬(2024年は11月7日)」の前日までを「秋」となります。

暦の上では秋に。 東京地方。朝から晴れ、まだまだ暑い。むしろ残暑厳しく、夜も25℃以上。クーラーもつけっぱなしの日が続きます。

一方、全国でゲリラ豪雨。関東でもまさに「ゲリラ」、一天にわかにかき曇り、雷が鳴り響きます。

昔から、暑さ寒さも「彼岸」まで、というように、9月のお彼岸頃まではまだまだ暑い日が多いようです。

太平洋湖気圧が衰えず、台風も日本に近づけず・・・。

が、「立秋」と聞いただけで、いよいよ暑さは峠を越し、少しずつ秋に向けて進んでいく感じがするのは、不思議ですね。特に日が落ちた後は涼しさを感じます。夏至からまもなく2か月が経つになるわけですから。

たしかに東京地方。一時よりも日の暮れるのが早くなって、熱風の中にも、どこか秋の気配を感じられる今日この頃、とのんきなことを思っています。

『古今和歌集』に、有名な歌。

来(き)ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる 藤原敏行

作者は、平安時代前期の貴族、歌人、書家で、三十六歌仙の一人。空海と並べられるほどの書道の大家でした。

「詞書」には、「秋立つ日詠める(立秋の日に詠んだ)」とあります。

ま、歌の内容は、作歌上の言葉の綾でしょうが、何となくそんな気にさせる歌です。

※「秋来(こ)ぬ」となりそうな気候変動です。

西の空。

           

鱗雲、筋雲、入道雲、黒い雲・・・、かなりの早さで東の方向へ動いています。  ・・・ 

朝日新聞社主催の高校野球が始まって、球児達の「熱い」闘いが続きます。

去年の夏は、春夏初めて甲子園に行ったのは、近所の高校・「共栄学園」でした。この高校は、女子バレーが強い、と聞いていましたが、野球も。今年はダメでしたが、来年に期待。亀戸にある「城東高校」も帝京に負けて、残念!

さて、以下、「暦生活」HPを参照します。

七十二侯だと、

・初侯 8月7日〜8月11日頃

涼風至 すずかぜいたる

夏の暑い風から、秋の涼しい風に替わりはじめる頃。

・次侯 8月12日〜8月16日頃

寒蝉鳴 ひぐらしなく

夏の終わりを告げるかのように、ヒグラシが鳴いている頃。ヒグラシの鳴き声は、過ぎゆく夏を惜しんでいるかのように聞こえます。

・末侯 8月17日〜8月21日頃

蒙霧升降 ふかききりまとう

森や水辺に白く深い霧がたちこめる頃。

旬のもの

花 ひまわり

中国で「太陽花」英語で「Sunflower」と呼ばれ、どこの地域でも太陽の花として親しまれています。最大の生産国であるロシアでは国の花とされ、日本でも43の市区町村の花に指定されています。

果物 桃

七月から九月が旬である桃。

花 つゆくさ

野菜 玉蜀黍(とうもろこし)

「立秋」を過ぎると、挨拶文も、「暑中見舞い」から「残暑見舞い」に変わります。

「向島百花園」も朝顔が終わりを告げ、「秋の七草」など秋の草花が、咲き始めています。

キキョウ(桔梗)。

            

オミナエシ(女郎花)。 

ススキ(薄)。

くずの棚。足元には、花びら。

               

「お好きな服は(おすきなふくは)」

【オ】ミナエシ 【ス】スキ(尾花のこと) 【キ】キョウ 【ナ】デシコ 【フ】ジバカマ 【ク】ズ 【ハ】ギ

ヒオウギ(桧扇)。

フクロクジュウリ(福禄寿瓜)。

寺島ナス(茄子)。

サルスベリ(百日紅)。

水面にはミズスマシ。

              カルガモが飛び立った池にもだんだんと秋の気配。

次は、「処暑」(8月22日)。

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「ヒトラーへのメディア取材記録―インタビュー1923ー1940」(エリカ・ブランカ/松永りえ訳)原書房

2024-08-06 18:29:23 | 読書無限

「彼は透きとおるような青い瞳をしていた。山々の頂に映えるようなうっすらと青い、いたいけない子どもたちしか持ちえないような無垢な青い瞳をしていた」これは1938年12月10日付けの週刊誌『イリュストラシオン』、ロベールシュヴイエ記者が書いた一節だ。これほどまでに記者の心を癒やす幼子の眼差しの持ち主が、恐れを知らない征服者であると同時に情け容赦ない独裁者として君臨してから、かれこれ6年が経とうとしていた。(p004)

 

ヒトラーへのフランス人記者によるインタビュー。ヒトラーに面会できる人々は、ナチス側のいいなりだった「仏独委員会」を通して厳選された親独派フランス人となった。(以下、「訳者あとがき」より引用)

・・・ヒトラーに面会できる人々は「厳選される」のだから、選ばれたほうは悪い気がするどころか、優越感すら感じたのではないだろうか? 招かれる先はヒトラーの優雅な別荘のあるベルヒテスガーテンかベルリンの首相府。インタビューからは、いかに「厳選された」記者たちが舞い上がっていたのかが実によく伝わってくる。なかなか会えない総統に招待されるという特別扱いを受けてしまえば、いざ取材するときに、気まずくなるような質問をしつこく投げかけることなどできなくても当然だと、自己を正当化してしまうのだろう。

私が本書を初めて読んだときに頭に浮かんだのがほかでもない「忖度」という言葉だった。ジャーナリストにとって、時の権力者が自分を「厳選し」、「例外的に」自分のために時間を割いてくれるという前提ならば、それだけでじゅうぶんに「特別扱い」されていることになる。だとしたら、自分の書く記事はいわばその待遇への恩返しとして、権力者の意向を反映して手心を加えてしまうのは大いにありえることだ。本来記者がもつべき批判精神の入る余地がなくなってしまう。私自身、首相が大手メディア各社の記者を集めて会食し、記者側もスクープを得るためならそれに応じるのが当然だと自己正当化するような国に暮らしているからこそ、本書で著者が示唆したことが他人事に思えなかった。

実際、ヒトラーに「特別扱い」されたフランス人記者たちは、冷静に国際情勢を分析すればゆゆしき事態になっていたことは明らかなのに、自分の信じたいことを、すなわち「ヒトラーは国内においても国外においても対立を好まず、平和主義者である」と信じようとした。ナチスドイツの異常性の兆候、たとえば、「水晶の夜」のようなユダヤ人に対する暴動や迫害は見て見ぬふりをした。ヒトラーは平和主義者であると信じたいがために、彼(ら)の意向に斟酌した質問しかできず、自国民に懸念を抱かせるような情報は提供しなかった結果、気がついたら国の北半分はナチスドイツに占領され、南半分は親独派フランス人がつくった形だけの独立政府の管轄下というありさまになった。

ただでさえ人間は、自分の都合のいいことしか信じようとしない。メディアが時の権力者に懐柔されて、都合の悪い情報をシャットダウンしてしまったら、身の回りで何か異常なことが起きていたとしても、国民の側からすれば気のせいだと正常性バイアスがかかっても当然だろう。本書で著者が採り上げたヒトラーへのインタビューは、日本に限らず現代社会に通じる普遍的な問題提起をしている。なにせここでのヒトラーの発言は、論理的に雑な部分があったとしても、ほとんどがもっともらしいことだからだ。それでもぎりぎりのところで危機感を抱き、警鐘を鳴らせるかどうか、それこそが今の私たちにも問われている。(P356)

著者は、ヒトラーに「特別扱い」されたフランス人記者たちの終戦後の一人一人の生きざまを厳しい目で記している。そこに、著者のスタンスの一端がうかがわれる。

訳者のあとがきにもあるように、今の日本のマスコミのありへの厳しい警鐘をどう我々が受け止めるか。安倍内閣がいかに脅しを含め、執拗にマスコミ関係者を懐柔していったか。今も、田崎史郎をはじめ、マスコミ界で大手をふるい、先を争って「どっこしょ」しているコメンテーターたち。さらに、SNSあるいはX(旧ツイッター)を駆使し、国民から見離されつつある自公政権を何とか守ろうとしている。

今日は、広島に原爆が落とされて79年目。広島では慰霊の行事が行われている。核なき世界を望む声、行動を具体的に大きくしていきたい。

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「ジャック・デロシュの日記―隠されたホロコースト」ジャン・モラ作(岩崎書店)。「ショアーの歴史―ユダヤ民族排斥の計画と実行」ジョルジュ・ベンスサン(白水社)

2024-08-04 16:36:47 | 読書無限

           

 「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」

摂食障害になったエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカの死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知る。

その日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。フランス人でありながら、ドイツナチズムに共鳴、志願兵としてドイツに赴く。ドイツ人としての偽名を用い、ナチSSの幹部候補生として、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、そして絶滅収容所に関わっていく・・・。

※「ソビブル」

実在した絶滅収容所。1942年5月に稼働し、25万人ちかいユダヤ人、数が不詳のソ連軍捕虜が殺された。43年10月、施設で働かされていたユダヤ人300名が反乱を起こし、200名ちかくが殺され、30名が生きのびる。43年11月以降に解体され、痕跡を消すための植林によって松林となった。

日記には、ジャックの恋人として、祖母アンナの名前が登場する。

嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろになりながら、エマはジャック・デロシュの日記を読み続けた。

現在と過去(日記)を織り交ぜて話は進んでいきます。ミステリアスな話の進め方は、最後まで飽きさせない。

「サスペンス仕立てで巧みに構成」された物語。

ホロコーストを若い世代に伝える秀逸の新作物語として、お勧めする。

そして、もう一冊。「ショアの歴史―ユダヤ民族排斥の計画と実行」。

ショアーとは、災厄、破壊、悲嘆を意味するユダヤ教の祭儀用語である。ゲットーという呼び名は、1516年のイタリアはヴェネチアが最初である。第一次世界大戦が終わったとき、ヨーロッパには900万人から1000万人のユダヤ人が暮らしていた。その中にはポーランドの300万人、ルーマニアの100万人がいた。ソ連にも300万人がいた。

1920年代から30年代にかけて、ヨーロッパ全域で、ユダヤ人排斥の勢いが高まっていた。ドイツにおける反ユダヤ教主義の伝統は古く、厳しいものがあった。1933年、ドイツの国会議事堂の火災を口実としてドイツ共産党は禁止となり、4000人の幹部が逮捕され、ダッハウの強制収容所に入れられた。ドイツのユダヤ系公務員が解雇されるのは1933年4月から。ユダヤ人弁護士は所属する弁護士会から除名された。1934年末、弁護士の7割、公職人の6割が職務遂行不能に陥った。1939年にはユダヤ人の運転免許証が取りあげられた。1933年に50万人いたユダヤ系ドイツ人のうち、15万人が1938年までにドイツを出た。1939年9月、ナチス・ドイツはポーランドを占領した。数ヶ月のあいだは、ユダヤ系住民はまだ一過性の嵐にすぎないと考えていた。ワルシャワのゲットーには、1941年に47万人のユダヤ人が住んでいた。学校などの教育組織があり、舞台劇が演じられ、地下新聞が47紙も発行された。ユダヤ人評議会は罠にはまった。自分たちの殺戮までも引き受けることになった。そして、評議会制度は、利権と腐敗の温床ともなった。

「T4作戦」は、1939年1月に占領下のポーランドで始まった。ポーランドでも、ドイツ本国でも、精神病患者が大量に殺害された。ヒトラーは、反対勢力の結集を危険とみて、処分目標を達していたこともあり、1941年8月、「T4作戦」の続行を断念した。アメリカのユダヤ人指導者には、ユダヤ人殺戮の情報は伝えられていた。1942年に犠牲者は100万人だとされていたとき、実際には300万人が殺されていた。アメリカ政府は、1944年春にはアウシュヴィッツの詳細な航空写真をもっていたのに、収容所への空爆を拒んだ。同じく、イギリスのほうも空爆することはなかった。それぞれ、国内に反ユダヤ主義があったことと、何十万人という難民が入国するのを危惧したことによる。

ドイツの銀行はユダヤ系市民の口座を閉め、一般市民はユダヤ人の商店や会社、アパート、家財を買いたたいた。ドイツのデグザ社は、被害者から奪った、死体の歯から搾取した金冠を溶かして純金のインゴットをつくり、ナチスはそれを国家資産とした。ナチスの犯罪は、ごく少数の酷薄な変質者によるものではない。「勤め人の犯罪」、つまり普通の人間、民間あるいは軍人、ナチス党員などによる犯罪である。

元ナチの大多数は、身元を隠そうともしなかった。戦後のドイツやオーストリアにおいて、隠健な勤め人や企業主として豊かな暮らしを取り戻していた。法律家で元ナチスの高級官僚であるハンスは、戦後は、アーヘン市財政部長、1953年にはアデナウアー首相の官僚長となった。

どうしてこの悲惨な出来事を止められなかったのか?

彼らは家畜のように死んでいく、まるで肉体も魂もないように、死が刻印を押せたかもしれない表情さえない。そんな友愛も思いやりもないおぞましい平等のなか―猫や犬なら分かちあえたにちがいない平等―それはあたかも地獄の情景を映しているかのように見える。 「医学と人道に対する罪」(ハンナ・アーレント)

「今の時代の政的な存在とは、破壊し尽くされた文明の記憶を新たにする作業を経ることである。集団殺戮について、そして大衆社会、つまりわたしたちの社会がもはや「人間であること」の資格さえ脅かされるようになった各個人をそのまっただ 中に置き去りにしたあの荒廃、それについて熟慮することなのだ。」(p154)

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記事がないときの「あんず・ソウタ」頼み。その2。ジジ・魔女の宅急便。そして、新しい段ボール箱に。附「甲子園100周年」。(DAYS with CATS)

2024-08-02 21:03:20 | わがやの猫たち

何を見つけたのか? 

そのうち、今度はジジをくわえ(お気に入りの獲物? )、うなり声を上げて歩き回る。

     

         

                      

しばらくくわえたまま歩き回るソウタ。最後は放り出す。

 ほかのおもちゃは見向きもせず、くわえることもない。ジジを何回洗濯したことか!

※ジジ 魔女の宅急便の主人公キキの相棒の黒猫

よくキキの話し相手をしている(これは、キキの数少ない能力の1つ)。

どこか人間臭いネコで、ある届け物の受取人の少女の不機嫌そうな「あたしこのパイ嫌いなのよね」発言に「感じ悪い」と非難し、あかんべーをしていたりする。

キキの相棒だが、その信頼ゆえか、ぬいぐるみの身代わりにされたり、ピンチになる場面もあった。この時ばかりはキキに愚痴を漏らしている。

しかしある日、白猫のリリーに一目惚れした結果、キキのもとにあまり居付かなくなる(尚、リリーはおソノさん夫婦が経営するパン屋の常連の女性の飼い猫で、当初はすました態度を見て「いけ好かない」と発言していた)。エンディングでは、その白猫リリーとの間に子猫達(白3匹と黒1匹)が生まれていた。

また、物語の中盤で喋らなくなり、最後まで人語を発しなかった(原作では途中で一時的に喋らなくなってしまう展開は起きたが、最後まで会話ができている)。

(この項「ピクシブ百科事典」HPより)

そこに新しい段ボール箱が届くと、さっそく。

しばらくおやすみ。

    

ということで、結局、当方が振り回された(癒やされた)ひとときでした。

そして、昨日7月1日。大の阪神ファンの義理の息子が甲子園100周年・阪神×巨人を観戦しに出かけました。

阪神が勝って大満足。お土産を買ってきました。

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記事がないときの「あんず・ソウタ」頼み。箱好きなふたり。(DAYS with CATS)

2024-08-01 18:52:44 | わがやの猫たち

ということで、ソウタ君。

「ソウタ」と「あんず」。

あんずはパッといなくなるので、写真がなかなか撮れない。

暑さでぐったり。

そこへ大きな箱の届け物が。さっそく、

                                ところが、意外に最初に入ったのは、あんず。

                        においをかぐソウタ。

早くどいてくれよ!

ソウタに譲って、あんずは、遠目で。

                    やれやれ   

飽きたと見えて、抜け出して。

今度は窓から暑い日差しの外を眺め、

それも飽きて、テーブルの下でゴロン。

そのまま静かにしているかと思ったら、・・・

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