Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

奈良の放火殺人とスパルタ教育

2006年06月25日 14時25分01秒 | Weblog
 ”奈良の放火殺人事件は、父親の暴力を伴うスパルタ教育が原因か?”
 事実関係がまだはっきりしないものの、ここ数年、動機が常人には理解できないたぐいの犯罪が多い。少年犯罪だから仕方ないといえばいえるが、なぜ母と弟妹まで殺さなければならなかったのか?英語の成績も悲観するほど悪くはなかったというのに。「全てをリセットしてしまいたい」というのであれば、他人を犠牲にしない分だけ自殺の方がましなのではないか?などと考えるうちに、疑問はふくらんでいく。
 バーディーは大学時代、いわゆる一流高校卒の人間を多く見た。彼らの特徴は、とにかく負けず嫌いであることと、自分の価値観に合わない人間を無視する(というよりも、自然と視界に入らなくなる)ことであった。そのせいか、彼らのなかには、いまだに中学・高校・大学と一緒だった連中と同じ業界・会社で仕事をしている者も多い。要するに、仲間と違った道を歩むだけで落伍者の烙印を押されるため、外の世界に出ようとしないのである。反面、長年形成された「序列」が出来ており、不思議なことに、それに従って出世も決まってゆく。
 少年が通っていた東大寺学園も、保護者会で成績を開示するという露骨なやり方から察するに、いわゆる成績至上主義の進学校であるように思われる(もっとも、私の出身高校も、公立校でありながら、成績表を親に直送するというやり方をとっていたが・・・)
 ・・・さて、話をスパルタ式に戻すと、スパルタ式は勉強だけではない。会社でも、ゆき過ぎたスパルタ式指導からか、数年前からパワー・ハラスメントがようやく問題視されるようになった。私がもといた会社でも、これは昔からあった。例えば、ある上司の在籍中、主としてパワー・ハラスメントが原因で、部下の全員が入院ないし欠勤という状態になり、挙句、その上司自らが車を運転して営業を行っていた時期もあった。
 私は、スパルタ式を否定するのではない。むしろその反対である。ただ、スパルタ式が通用するのは、相手がそれを受容する限りにおいてであることを強調したいのである。自らを厳しく鍛錬しようとする人間に対してだけ、スパルタ式手法が効果的なのである。
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法科大学院ー文科省はある意味では正しかった

2006年06月25日 09時36分30秒 | Weblog
 新司法試験の感想についてー神戸新聞より。9月の合格発表後くらいから法科大学院も撤退準備が始まるようである。
 法科大学院の乱立を許し、結果として新司法試験の合格率低下を招いたのは文科省の責任だと批判されることもあるが、バーディーはそうは思わない。むしろ、大学改革を進めつつ、眠っている(あるいは腐っている)教育資源を活用しようという構想はある意味では正しい。それを示すのが、研究者と思われる人が書き込んだ、以下の文章である。 

(以下引用。ただし一部修正あり)
 あーあ、法学研究科はよかったな。
修士の学生には山ほど英独仏与えておけばそれで済んでたし、修士論文なんてどうせクズだからあれも 読め、これも読めといっておけば立派な指導教官。
 博士になれば小間使いに編集助手代わり。さすがにコピー採りはさせないが、判例評釈でも共著で 書かせりゃ泣いて喜んでた。
 就職なんかもまあダメな奴はダメだしできる奴はほっといてもだいじょうび。
 なんで法務研究科になっちゃったんかなー。あーあ。

 私も、「ロースクールのせいで研究ができないんだよ。」と嘆いている教授を知っている。彼は有能だから同情するが、一方で、研究者の中には、長いこと全く論文を書いていない人も多い。確かに、学問は、論文の本数のような「量」で測るべきものではない。だが、文科系の研究者は、実務家や一般のサラリーマンと比べて、余りにも仕事をしなさすぎではないか?こんな人間・組織に税金をつぎ込んでよいものか?というのが文科省の本音だったと思う。
 ・・・やはり、文科省が察知していたとおり、「研究者」という名の自由業(無職)の人間は多すぎたのかもしれない。
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