「英国バレエ界の鬼才マシュー・ボーンが手掛けた、ティム・バートンの名作『シザーハンズ』(90)の魅惑的なダンスバージョンは、2005年の初演以来、世界中の観客の心を掴んできた(来日公演:2006年8月16日〜9月3日)。2024年3月にカーディフのウェールズ・ミレニアム・センターでライブ収録され、大絶賛を受けた舞台が、ついに日本のスクリーンに上陸する。・・・
風変わりな発明家によって作られた、丘の上の城に住む人造人間エドワード。発明家が亡くなり、エドワードは未完成のまま、両手がハサミの状態で一人取り残されてしまう。ある日、親切な女性キムに出会い、彼女の家族と共に暮らすよう誘われる。エドワードの奇妙な見た目に戸惑いながらも、彼の持つ純粋さや優しさを見つけようとする人々の中で、果たしてエドワードは自分の居場所を見つけることができるのだろうか――。」
風変わりな発明家によって作られた、丘の上の城に住む人造人間エドワード。発明家が亡くなり、エドワードは未完成のまま、両手がハサミの状態で一人取り残されてしまう。ある日、親切な女性キムに出会い、彼女の家族と共に暮らすよう誘われる。エドワードの奇妙な見た目に戸惑いながらも、彼の持つ純粋さや優しさを見つけようとする人々の中で、果たしてエドワードは自分の居場所を見つけることができるのだろうか――。」
私は、通常、ダンスはライブで観るようにしているのだが、マシュー・ボーンの作品のうち、日本公演がなさそうな作品については映画で観ることがある。
例えば、当分日本で上演されそうにない「くるみ割り人形」(ミックス作品)がそうである。
「シザー・ハンズ」も同様で、おそらく日本で上演されることはなさそうな気配なので、映画館に観に行った。
ところが、正直に言うと、ちょっと期待外れだった。
というのは、オリジナルの映画を観たことがないせいかもしれないが、インパクトがやや弱いように感じたのである。
例えば、
「エドワードの奇妙な見た目に戸惑いながらも、彼の持つ純粋さや優しさを見つけようとする人々の中で、果たしてエドワードは自分の居場所を見つけることができるのだろうか――。」
というところは、「美女と野獣」の方が分かりやすい。
「いや、それにフランケンシュタイン的な要素をミックスさせたのだ」という声もあろうが、グロテスクなのは指だけなので、これも中途半端である。
それに、エドワードとキムが結ばれてハッピー・エンドとなったのかどうかも、判然としない(ぼんやりと観ていたせいか?)。
要するに、パンチが足りないようなのだ。
この感覚に私は既視感を覚え、アルベール・カミュの「誤解」についてボーヴォワールが述べた、
「テクストが弱い」
という言葉を思い出した。
「登場人物としては、兄ヤンと妹マルタ、ホテルを切り盛りする母の三人を中心に、最初と最後に少しだけあらわれるヤンの妻マリア、そしてせりふを2つだけ与えられた老召使、実にシンプルな構成だ。故郷に戻った息子ヤンが、ほんの気まぐれから他人を装ったため母親と妹に殺されてしまうという、運命の不条理を主題にした作品である。この筋立てを、カミュは新聞記事から得た。」(「アルベール・カミューーー生きることへの愛」p81~82)
息子を母と妹が殺して金品を奪うという、実話に基づくこの戯曲は、当初はあまり評価されなかった。
読んでみると分かるが、実話であるにもかかわらず、ちょっと入って行きにくいシチュエーションなのと、セリフによる盛り上げ方がいまいちなのである。
私見では、これは、カミュが実際の事件に引きずられすぎてしまったことによる失敗で、もっと一般人の共感を得やすい設定に変更すべきだったのだろう。
これに対し、「エドワード・シザーハンズ」はダンスなので、「テクスト」ではなく「ストーリー」と言い換えるべきかもしれないが、テーマが浮き上がりにくく、かえって、「手を封印したダンス」という、一般人にとってはその難しさが分かりにくいところに焦点が持って行かれたように思う。
・・・鬼才といえども、全作品が傑作というわけではないようだ。