「新潮45」(6月号)の「『がんばろう日本』という暴力」(中島義道氏)を読んでいて、ふと気付いたことがあった。中島氏は、被災した子供たちが、「早く学校に行きたい」「友達に会いたい」と述べる一方で、「学校が壊れたおかげで休みになってラッキー」などという発言が出ない現象について、ジャック・ラカンの言葉を引用して指摘している。すなわち、人は「他人の欲望を欲望しなければ生きてはいけない」のだと。
「学校が壊れたおかげで休みになってラッキー」などという子供は、やがて共同体から放逐され、生きていけなくなる。だから、(このような人は)他人の欲望を表現することによって、生きていく方途を探らなければならない。そのうち、「他人の欲望」が「自己の欲望」に転化するのである。
サラリーマン社会でも同じで、「優等生ぶる」ことは、組織で生きていくためには必要である。例えば、「仕事熱心」な人は周囲から尊敬され、他方、「仕事なんか嫌いだ」と公言する人や、ちょくちょく休暇をとって海外旅行などに出かける人は、やがてリストラされるだろう。「自己の欲望」が「他人の欲望」と相反しているからである。
「学校が壊れたおかげで休みになってラッキー」などという子供は、やがて共同体から放逐され、生きていけなくなる。だから、(このような人は)他人の欲望を表現することによって、生きていく方途を探らなければならない。そのうち、「他人の欲望」が「自己の欲望」に転化するのである。
サラリーマン社会でも同じで、「優等生ぶる」ことは、組織で生きていくためには必要である。例えば、「仕事熱心」な人は周囲から尊敬され、他方、「仕事なんか嫌いだ」と公言する人や、ちょくちょく休暇をとって海外旅行などに出かける人は、やがてリストラされるだろう。「自己の欲望」が「他人の欲望」と相反しているからである。