「今や映画監督としても活躍する、イギリスの劇作家マーティン・マクドナーの代表作の一つ『ピローマン』。架空の"独裁国家"で生活している兄と弟。作家である弟が書いたおとぎ話の内容がやがて彼らの現実を侵食し......。理不尽な体制の中で「物語」が存在する意義とは何かを問いかけます。
2024/2025シーズンのオープニングは、2004年のローレンス・オリヴィエ賞、04-05年のニューヨーク演劇批評家協会賞を受賞したマクドナーの傑作を、新国立劇場演劇芸術監督の小川絵梨子の翻訳・演出で上演いたします。」
2024/2025シーズンのオープニングは、2004年のローレンス・オリヴィエ賞、04-05年のニューヨーク演劇批評家協会賞を受賞したマクドナーの傑作を、新国立劇場演劇芸術監督の小川絵梨子の翻訳・演出で上演いたします。」
「ご観劇前にご確認ください
<トリガーアラート>
<トリガーアラート>
本作には、フラッシュバックに繋がる/ショックを受ける懸念のある場面・表現が含まれます。
児童虐待、性的虐待、暴力、殺人、流血、銃声、差別的な表現」
児童虐待、性的虐待、暴力、殺人、流血、銃声、差別的な表現」
私が観たのはプレビュー公演だったのだが、普通に仕上がっており、アクシデントが起きたり進行が澱んだりするような場面はなかった。
ネタバレになるのでストーリー(念のため注意しておくと、暴力や殺人などのシーンが多いため、フラッシュバック等のおそれのある人は注意した方がよいと思う。私でも観ているのが結構辛いシーンがあった。)は書けないのだが、ざっくり言うと、上に引用したとおり、
「作家である弟が書いたおとぎ話の内容がやがて彼らの現実を浸食」
するというもの。
残虐なシーンも、「これはお芝居だから」という一言で片づけてしまうのが一般的だろうが、このストーリーの内部ではそうは行かなかった。
虚構が現実のものとなってしまったからである。
この、「虚構が現実を浸食する」という話で真っ先に想い浮かぶのは、バルザックが発した臨終の言葉である。
「ビアンション!ビアンション(自作小説中の医者)を呼んでくれ!
あいつなら、私を救ってくれる……。
byバルザック(仏・作家) 」
あいつなら、私を救ってくれる……。
byバルザック(仏・作家) 」
バルザックは、死に直面して、現実と虚構(自作小説)の境界が分からなくなってしまったのである。
対して、我が国を見ると、私の知る限り、バルザック的な言動の例はちょっと見当たらないと思う(実際はあるのかもしれないが・・・)。
ただ、ある意味ではバルザックに近いと思われるのが、いわゆる「三島事件」である。
どういうことかと言うと、三島は、
「小生はどうあっても文人としてではなく武人として死んだ証拠が欲しいのです」
これも「虚構が現実を浸食する」例の一つではないだろうか?