鏡子一家(友永家)の最後のメンバーは、八歳になるひとり娘の真砂子(まさこ)である。
母:鏡子は真砂子の親権者であるものの、毎日社交生活に忙しいため、真砂子は一人ぼっちで置かれることが多く、外国風に一人で部屋に寝かされている。
真砂子の部屋には玩具箪笥があり、着せ替え人形の衣装がいっぱい入っていたが、その下に父の写真が隠してある。
「それはいかにも気力のない、肉の薄い、しかし端麗な若い男で、縁なし眼鏡をかけ、頭を七三に分け、神経質に固く締めたネクタイのごく小さな結び目を襟のあひだに見せてゐる。
真砂子はすこしも感傷的でない、何かを物色するやうな目つきで、父親の写真をじろじろ見る。そして深夜に目をさましたときの儀式のやうに、口のなかでこつそりかう言つた。
「待つてゐなさい。いつか真砂子がきつとあんたを呼び戻してあげるから」
写真は樟脳の匂ひを放つてゐる。この匂ひは真砂子にとつて、深夜の匂ひでもあり、秘密の匂ひでもあり、父親の匂ひでもある。この匂ひを嗅ぐと真砂子はよく眠れた。そこにはもう鏡子をあんなにも厭がらせた犬の匂ひはなかつた。」(決定版 三島由紀夫全集 第7巻p42~43)
鏡子の思いとは違って、真砂子はひたすら(犬を連れていない)父の帰りを待ち望んでいる。
まず、「八歳の少女」という設定で思い出すのは、「鍵のかかる部屋」に出て来た九歳の少女:房子である。
房子は、「鍵のかかる部屋」(=墓=日本)の中で、主人公と奇妙な遊戯に耽るのだが、これが一つのヒントになるだろう。
次に、これよりもっと大きなヒントとして、「真砂」(子)という言葉がある。
日本人であれば、これを聞くと直ちに「浜の真砂」という言葉を思い浮かべるはずである。
これは、「数が多くて数えきれないところから、無数・無限であることのたとえ」である(但し、「万葉集」ではちょっと違う意味を含んでいる。)。
さらに、「「鏡子の家」創作ノート」には、
「△砂子(純金)がもつとも高い」
という注目すべき記述がある(前掲p561)。
つまり、「真砂子」には、「真砂」(無数・無限)と「砂子」(もっとも価値が高いもの)という2つの意味が掛け合わされているようだ。
ということは、「真砂子」は、「無数・無限」であり、かつ「もっとも価値が高い」存在ということになるだろう。
結論を言えば、
「真砂子」=「日本人」
で良いだろう。
・・・というわけで、これで鏡子一家(友永家)のメンバー3人の正体が分かったことになる。