「文化」というのは非常に広い概念であり、例えば、ヘアスタイルもこれに含まれるといって良いと思う。
ヘアスタイルについて昔から問題となってきたのは、校則・社則などによる制限である。
「しかし、そうは言っても、私にもどうにも納得できない校則がある。
「ツーブロック禁止」である。
比較的近年になって広がった、髪型に関する校則の1つだ。」
私もこの校則は不合理だと思うし、昭和の時代には聞いたことすらなかった。
そもそも、昭和天皇も、若い頃は「ツーブロック」だったのである(Xユーザーの💪川村よしと@西宮の筋肉議員さん)。
少なくとも、これを真砂子が忌避することはないだろう。
ところで、「鏡子の家」のエンディングは、当初作者が想定していたものとは違うものになったそうである。
「登場人物は各自の個性や職業や性的偏向の命ずるままに、それぞれの方向へ向つて走り出すが、結局すべての迂路はニヒリズムへ還流し、各人が相補つて、最初に清一郎の提出したニヒリズムの見取図を完成にみちびく。それが最初に私の考へたプランである。しかし出来上つた作品はそれほど絶望的ではなく、ごく細い一縷の光りが、最後に天窓から射し入つてくる。」(決定版 三島由紀夫全集 第30巻p239)
依然として犬を引き連れた状態ではあるものの、最後に「良人」が鏡子と真砂子の元に戻って来たのだから、希望は残っていたわけである。
だが、その後、この「ごく細い一縷の光」は消えてしまったのだろう。
そうでなければ、作者があんな最期を遂げるはずがない。
・・・こんな風に、「鏡子の家」の「物象乃至人物」を一つ一つ分析していくのは楽しいのだが、これをやっていくといくら時間があっても足りない。
これに近い感覚は、トマス・ピンチョンの小説を読むと味わえるのかもしれないが、膨大な時間がある人にしか出来ないことである。
というわけで、鏡子、良人と真砂子の正体を把握するところで、一旦この作業は中断することとした。