ムーティ「昨今は誰もがすべてを簡単に済ませようとする社会になってきています。若者が目的に向かって邁進するかというと、そうではない若者が多すぎます。コミュニケーションもどんどん失われています。レストランのテーブルで席に着いていながら、家族もそれぞれがスマートフォンを見て、会話がないような世の中になってしまいました。しかし、音楽会に2000人の聴衆が集まれば、2000人が一つの気持ちになって音楽を聴きます。
今、一つ懸念があります。東京文化会館が大規模改修で長期間閉館するかもしれないと聞きました。そして、神奈川県民ホールも。日本の中央で同時に劇場が閉まるということはその期間、音楽文化に接する機会が若者たちから奪われてしまうことになります。私は日本を非常に尊敬していますが、この国にとってこれは重大な間違いだと思います。
だから、鈴木さんのような方が戦いを続けてくださっているっていうことに、私は感謝したいと思います。」
今、一つ懸念があります。東京文化会館が大規模改修で長期間閉館するかもしれないと聞きました。そして、神奈川県民ホールも。日本の中央で同時に劇場が閉まるということはその期間、音楽文化に接する機会が若者たちから奪われてしまうことになります。私は日本を非常に尊敬していますが、この国にとってこれは重大な間違いだと思います。
だから、鈴木さんのような方が戦いを続けてくださっているっていうことに、私は感謝したいと思います。」
三浦雅士「ぼく自身は、ゆうぽうと、メルパルクがなくなり、国立劇場、オーチャード、さらに東京文化会館などが近く長期の改修工事に入ると噂されているのに、それに代わるものも用意せず平然としている政府や自治体や企業の無神経に怒りを覚えていますが、しかし考えてみると、1960年代の地下演劇、暗黒舞踏なんてのは、そんな劇場などあるほうが不思議という状況で活動していたわけです。ベジャールだっていわば場所を選ばなかった。」(p86)
リッカルド・ムーティー氏が指摘する通り、首都圏における「劇場(ホール)の危機」が近づいている。
この問題に対し、「防衛増税」に血道をあげているようなわが国の政府に期待など出来ないことは、三浦氏の指摘を待つまでもないだろう。
というわけで、差し当たり「ホール」を必要としないタイプの舞台芸術の役割が相対的に大きくなることが予想される。
この点、三浦氏は「地下演劇」、「暗黒舞踏」やベジャールを例に挙げたが、これらは一種の「サロン」を「舞台」とする芸術と見てよいと思う。
他方で、昔から「大道芸」、つまり「舞台」ではなく「ストリート」で演じられる芸術もあった。
かなり古いが、「天井桟敷の人々」に出てくる大道芸は、その原風景をあらわしている。
ところが、「舞台」でも「ストリート」でもない、「第三のステージ」で演じられる芸術作品が存在するらしい。
考えてみると、ムーティ氏も示唆する通り、若者に受け入れられない芸術は、やがて衰退するのだろう。
ということは、いくら「ホール」や「サロン」を立派にしても、それだけでは十分ではない。
やはり、中身の問題が真っ先に来るのであり、それは「ホール」や「サロン」、さらには「ストリート」といった「場」による制約を超越するものなのかもしれないのである。
・・・というわけで、橋本ロマンスさんの「饗宴/SYMPOSION」のチケットを購入することとした。