森嶋先生の分析がユニークだと思うのは、マクロの観点とミクロの観点を組み合わせているところである。
特に、ミクロの観点からの分析は興味深い。
圧巻だったのは、既に引用した「物質主義的な教育を受けた若者」が自由時間の大半をテレビ鑑賞に費やしているという指摘である。
これに対し、10歳代後半のころ、先生は、「友人との相互の刺激」を通じた“教育”を実践していた(p126~133)。
これによって、世界的な経済学者が生まれたのである。
そして、この先生の見解を敷衍すると、「10歳代後半の人間が、自由時間をどうやって過ごすか」という点に着目すれば、その国の将来が大体予見出来ることになる。
というわけで、社会のトップに立つ人たちが「無気力」に陥る原因を、ミクロの観点から考えてみる。
幼い頃から「恐怖心」を植え付けられてきた彼ら/彼女らには、「戦う」か「逃げる」かという2つの選択肢があったと思われる。
念のため触れておくと、「隠れる」(社会から隠遁する)という選択肢がないわけではないが(2種類の怒り、あるいは神経症と統合失調症(5))、非常に稀だと思われ、おそらく参考にならないのでここでは除外する。
「戦う」というのは、実際に戦闘するという意味ではなく、例えば、某政治家のように、「常に相手に対してマウントを取り続ける」というものが挙げられる。
もっとも、単発的な「恐怖心」であれば、「戦う」ことによって対処することが可能かもしれないが、恒常的な「恐怖心」に対しては、「戦う」だけだと行き詰ってしまう。
なので、残された選択肢は、「逃げる」しかないということになる。
かくして、多くの若者たちが「恐怖心」から逃げ続ける日々を送るということになる。
だが、これには当然副作用がある。
恒常的な恐怖心から逃げ続けている人、例えば、パワハラ・セクハラやDVの被害者から相談を受けているとすぐ気づくのだが、被害者の多くは「抑うつ状態」に陥ってしまう。
そのメカニズムは、医学的にははっきり分かっていないそうであるが、例えば、フロイト先生的な説明をするとすれば、「脅威にさらされたリビドー備給が最終的に対象を捨て、リビドーがもっぱらそこから出てきた自我という場所に戻る」(「メタサイコロジー論」p150~151)という風になるだろうか?
つまり、本来であれば「愛」(又は「憎しみ」(=攻撃衝動))という形で対象に向かうべきリビドーが、対象を失って自我へと内攻してしまう、というお話である(これが正しいかどうかは専門家ではないので分からない)。
ちなみに、アントニオ・ダマシオによれば、一次的(普遍的)情動としての「恐れ」のほかに、「背景的情動」(ややこしいが、これが意識化されると「背景的感情」と呼ばれる)というものがあった。
「顕著な背景的感情には、たとえば、疲労、やる気、興奮、好調、不調、緊張、リラックス、高ぶり、気の重さ、安定、不安定、バランス、アンバランス、調和、不調和などがある。背景的感情と欲求や動機との関係は密接だ。欲求は背景的情動の中に直接現れ、最終的に背景的感情によりわれわれはその存在を意識するようになる。背景的感情とムードとの関係も密接だ。ムードは、調整された持続的な背景的感情と、一次の情動――たとえば、落ち込んでいる場合は悲しみ――の、やはり調整された持続的な感情とからなっている。」(「意識と自己」p371~372)
つまり、一次的(普遍的)情動としての「恐れ」が、「疲労」「やる気の喪失」「不調」「緊張」「不調和」などの持続的情動と調整されると、森嶋先生が言うところの「無気力」というムードが立ち現れるのかもしれない。
そして、「抑うつ」に陥っている人は、一見しただけでは「無気力」と見分けがつかない。
森嶋先生がやや酷だと思うのは、「無気力」という言葉で一括りにしてしまったところである。
私見では、中には同情に値するような「社会的抑うつ状態」の人たちも多いのではないかと思う。
さらに悪いことには、「社会的抑うつ状態」の人たちが増えれば増えるほど、「独裁者」が出現しやすいと思われる。
「独裁者」が繰り出す恐怖と「戦う」人間が減ってしまうからである。
これは直観的に理解しやすいし、森嶋先生も気づいていたようだ。
「私は日本は独裁者の国であると思う。しかしそれは前述したように、ヒトラーやムソリーニのように自分用の体制に、それまでの国をつくり変えてしまうという独裁者支配の国の意味ではない。いくつかの集団が国内に存在して、互いに暗闘を繰り返し、その内の一つが勝利を占めて独裁を勝ち取った国、いわば競争的独裁の国なのだが、どの集団のトップも独裁者でなく集団内競争の勝利者に過ぎない。スターリンは党内の競争者を倒して独裁者となった典型的な例だが、彼の党は平和的競争的に他の党を倒して独裁的な党になったのではなく、革命が党に独裁的地位を付与したのである。だから東条は似ているスターリンとも異なっている。
だから西欧の人達によって顕著に独裁者と見られた昭和天皇や東条英機は、東欧や西欧の意味での独裁者ではない。東条は自分の官僚的才能を駆使して、独裁集団となろうとする集団の一つで地位を昇りつめた人であり、集団間の争いはクーデターなどを常にちらつかせたとはいえ、一応平和的な競争の範疇のなかに入れることができる。また昭和天皇はその血筋のゆえに独裁集団に眼を付けられて、彼らの言う通りに行動させられた人である。」(前掲p171~172)
この分析はさすがに的確であり、「私」による「公」の僭奪 という樋口陽一先生の見立て(「私」による「公」の僭奪(1))とも一致する。
私見ではあるが、この「競争的独裁の国」(おそらく韓国も同じと思われる)を成り立たしめているのが、「恐怖心」及びこれから生じる背景的情動としての「無気力」あるいは「社会的抑うつ状態」に陥った大多数の人々ではないかと思うのである。
逆に言うと、トランプ次期大統領のように、死をも恐れない、気力みなぎる人物が大多数を占める国であれば、「競争的独裁の国」は存続出来ないだろう。