Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

背景的情動としての「無気力」(15)

2025年01月17日 06時30分00秒 | Weblog
 とはいえ、森嶋先生の問題提起---「『10歳台後半の若者の教育』は死活的に重要である」---は正しいと思う。
 その対策として、まず、森嶋先生にイメージ的に近いところでは、かつてのナンバースクールがそうであったように、秀才を集めて全寮制の学校で教育するシステムが考えられる。
 今でも、一部の私立高校には、これに似たシステムを採用しているところもある。
 だが、その実態を聞く限り、森嶋先生やかつてのナンバースクールのような、(自由時間における)友人同士の知的な議論・自主学習が広く行われているとは言い難いようである。
 また、「世界的な人、本当の知識人」を養成するという観点からは、かつて故大江健三郎氏が提唱した「加藤周一10万人計画」というものも考えられる。
 だが、これも実現性が低いと思うのは、今では長くて難しい本を読む若者自体が減少しているからである。
 つまり、ダイレクトに「知」の方向から入っていくのでは、残念ながら成功の見込みが乏しい。
 それでは、どうするか?
 私は、「知」から入るのではなく、「恐怖心」→「背景的情動としての『無気力』」→「集団的独裁」という悪魔のスパイラルを断ち切ることを真っ先に行うべきと考える。
 つまり、若者から「恐怖心」を取り去ってやるのである。
 具体的には、子どもに「恐怖心」を植え付けるのではなく、子どもの自発性を最大限に尊重する教育方式、例えば「モンテッソーリ教育」などを幼児教育の段階で取り入れ、その方向性を初等・中等教育でも継続する方法が考えられる。
 もっとも、これも、藤井聡太竜王・名人のような人材が出現すればよいが、それなりの負担等が指摘されており、活用出来る家庭はある程度限られるようである。

 「モンテッソーリ教育を行うにあたり、一番多く声が上げられているのがこの『環境』を整えることが難しく、後悔につながってしまっているようです。モンテッソーリの環境とは、どこまでのレベルを求めるかにもよりますが、通わせる施設によってもモンテッソーリ教育のレベルは様々です。
 とはいえ、モンテッソーリ教育をする上で、施設となるべく同じ環境を家でも整える必要がある為、仮に施設がモンテッソーリ教具を多く揃えている場所であれば、家でも少なからずの教具を揃える必要はあります。しかし、モンテッソーリの教具はどれも単価が高く、通常のおもちゃとは比にならないほどの金額がかかってしまう為、金銭面での負担が大きくなってしまいます。

 そこで、歴史を繙いてみると、古代ギリシャのアテネで行われていた若者の通過儀礼「黒い狩人」がヒントになりそうなことに気付く。
 ざっくり言うと、成人前の若者を、辺境の地で、たった一人で防衛の任務に当たらせるのである。
 一種の通過儀礼であるが、その狙いは、「徹底的に『孤独』を経験させ、その中で生きぬく術を自ら考え出させること」にある。
 つまり、日本で明治期以降採用されてきた「集団の力によって『恐怖心』を克服する」タイプの通過儀礼(軍事化イニシエーション:Japan's Game Of War)の真逆を行くのである。
 もちろん、これを現代の日本でそのまま実践するわけではなく、例えば、「高校卒業後、外国(出来るだけ日本人がいないところ)に1年間公費で留学又は就業させる」制度をつくり、この制度を利用した若者は、帰国後優先的に大学に入学できるようにするのである。
 当然のことながら、費用が必要なので、たくさんの若者に適用することは難しいかもしれない。
 だが、こうした若者が毎年100人くらい出てきて、社会のトップに立つようになれば、かなり状況は変わるのではないだろうか?
 つまり、「『黒い狩人』100人計画」である。
 ところで、「黒い狩人」は、通過儀礼であり、一種の「ショック療法」のようなものであるが、この種の「ショック療法」をテーマにした小説が存在する。

 


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