「弁護士によると、男性は顧客から会社として応じられない無理な注文をされたり、上司から「数字が上がらない」「企業分析が下手」などと他の行員の前で日常的に叱責を受けたりしていた。」
15年くらい前の事件かと目を疑うような記事。
こういうニュースに接すると、「時代は変わる」というのは錯覚で、やはり「時代は変わらない」のではないかと思ってしまう。
まず、かつて同じ業界で働いていた者としては、「会社として応じられない注文」をしてきた「顧客」の属性が気になる。
というのは、ほんの10年くらい前まで、メガバンクですら反社勢力に融資していたわけであるし、また、反社又は準反社でなくとも、(例えば地元の有力者をバックに抱えているなどのため)「役席対応」を要する「顧客」は、今でも一定数存在するはずだからである。
そのような「顧客」から「会社として応じられない注文」が来た場合、当然「役席対応」とすべきところである。
だが、それが出来ない状況だと、担当者は孤立無援となり、精神的に追い詰められることとなる。
もっとも、「時代は変わらない」ことをいちばん強く実感したのは、「他の行員の前で日常的に叱責を受けていた」というところである。
江戸時代、「万座で恥をかかされる」男がどういう行動に走っていたかを思い起こすとよい(但し、歌舞伎や文楽の世界の話なので、現実にそうだったかまでは保証出来ない。)。
恥をかかせた人物を殺害するか、自殺するか、のどちらかである(3月のポトラッチ・カウント(1))。
「万座の恥」=所属集団内における地位の喪失は、自殺の実行リスクを高める三大要素の一つである「所属感の減弱」にほかならないからである(25年前(9))。
私見では、「所属感の減弱」の要素を根本から断ち切るためには、この種の集団から可及的速やかに「離脱」するしかないと思う。
組織の自浄能力を期待するのは、およそ現実的でないからである。
この銀行も、行員が自殺してから頭取が謝罪するまでに、何と7年近くもかかっているのだ。
こうした場合に受け皿となる「シェルター」、例えば、そこで労働に従事すれば何とか生活していけるだけの収入が保障されるような機関があるとよいのだが・・・。
亡くなった行員の方に合掌。