「5月はプレトニョフ。ロシアのピアニスト&指揮者としての大先輩、セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)の生誕150周年&没後80周年の二重アニヴァーサリーに因み、管弦楽曲ばかり3曲の特集を組んだ。興味深いのはそれぞれの作品番号と初演年。「幻想曲『岩』」作品7は1895年、アルノルト・ベックリンの同名絵画に想を得た「交響詩『死の島』」作品29は1909年、アメリカ亡命後の「交響的舞曲」作品45は1941年。19世紀末から20世紀半ばまでの長期にわたるラフマニノフの作風の変化をピアノ音楽抜きで検証する画期的、ある意味学究的でもあるプログラミングといえる。 」
「ピアノ抜きのラフマニノフ」という珍しいプログラム。
聴いたことのない曲ばかりで、さすがのプレトニョフさんも暗譜と言うわけにはいかず、3曲とも普通に楽譜を見ながらの指揮である。
彼がこの選曲を行ったのには、もちろん理由がある。
ラフマニノフにとって、管弦楽曲は、彼をうつ病に陥らせた鬼門とも言うべきようなジャンルだが、管弦楽曲の作曲におけるラフマニノフの挫折と成長を時系列的にたどるという狙いがあったようだ。
プレトニョフさんはこう語る。
「交響曲第1番の初演はグラズノフが指揮しました。うまくいかなかったので、作曲家としてもあまりよくできていないということで落ち込んだ。すごく沈鬱な時期があり、その後にピアノ協奏曲第2番を書きました。・・・
・・・チャイコフスキーが評価してくれた音楽家としての立場をきちんと証明しなければならないと気負いがあったのだと思います。でも、ラフマニノフにはその頃はまだ大曲を書くような知識や能力が欠けていたのでしょう。まだ知識も経験も不足している中で、期待と気負いも非常に大きかった。ラフマニノフは短い期間に書かなければと焦って書いて、自分の思いは込めたのだけれど曲として人を納得させるようなものではなかった。ですので、批評も非常に厳しいものがあって、ラフマニノフにとってはショックだった。彼は気負ってしまったのだろうと思います。周りが期待しなければよかったんです。」(公演パンフレットより)
プレトニョフさんは、アッサリと、「周りが期待しなければよかった」と指摘する。
ラフマニノフは、その性格からして、周りが期待すると過剰に気負ってしまい、実力を発揮できないようなのだ。
いわゆる「メランコリー親和型」の性格だったのだろうか?
教訓:「芸術家に期待してはならず、仮に期待するとしても、そのことを芸術家本人に気付かれてはならない。