ようやく完成した海女小屋だが、初江をここに、と考えながらイメージに合った場所を作るのは嬉しい。『中央公論Adajio』では背景が都営地下鉄駅周辺に限られたため、必ずしもこの人物なら絶対ここ、という場所に立たせられなかったので、以来、できるならより納得できる場所に、と考えてきた。 何度もいっていることであるが、マコトを写すという意味の写真という言葉がどうにも居心地が悪い。創作者としてマコトなどというものに一切係わりたくない、という私の性質にもよるのであろう。 そもそも子供の頃どこかの王様に、例えばロンドン塔のような場所に幽閉され、ここにあるクレヨン、色エンピツ、画用紙、粘土等、好きなだけ使っていいし、図書室の本も読みたい放題、そのかわり学校も行かず宿題も何もしないで良い。などという状態を夢想する子供であり、今もあまり変わっていないようである。 それはともかく。写真と出合ったことは良かった。嘘を付くには本当の事を混ぜるのがコツであるが、そのためのツールとしてこれほど最適な物はない。私の作った海女小屋が嘘八百だとしても、それを形成する焚き火跡、戸板や、空や海など、一応実物にレンズを向けて撮った物を使っている。それが私の嘘に真実味を与えてくれているわけで、たとえ小屋の背景の房総の海が、遠景になるにつれ実は浜名湖になってしまっていても、私が黙っていれば良いことである。 ただここで気をつけなければならないのは、いくらデジタルで自由が利くといっても、キッチリと作りすぎるのは禁物である。よって海女小屋でいえば、何に使用するのか判らない雑物をあえて画面に入れてみた。人形を手持ちで撮影していた頃学んだことだが、作り物だからこそ、不測の事態を取り入れることが大事で、そのためのツールとしても写真は最適なのである。
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