久しぶりに内田百間を読んでいる。例えば『ノラや』。たまたま迷い込んだノラ猫を飼い、ある日突然どこかへ行ってしまう。チラシを大量に配り、必死で探す老人。涙、涙の毎日である。読み始めは可笑しくて吹いてしまうが、そのうちジンとくる。これが、あのしかめっ面の百鬼園先生と思うからなおさらである。 おそらく作者の姿を知っているのと知らないのでは、印象が違うだろう。ということは、作品世界に作者を登場させる私としては、もってこいの人物ということになる。そこらじゅう必死で探し周り、涙にくれる百鬼園先生。創作の余地大有りである。それにしてもノラはどこへ行ったのであろう。 私は昔、たまたま目が合った犬に走り寄られ、それからまる2ヶ月間毎日付きまとわれたことがある。出かけるときは駅までついてきて、帰宅すると暗い玄関前で待っている。それが突然いなくなった。ある日その犬を見かけたのだが、そっぽを向いて私が眼中にない。好きだ好きだというものだから、そこまでいうなら、と振り向いたら、知らん顔である。おそらくこいつはチョロイと媚びてみたが、将来性がない、と私は捨てられたのであろう。まったく馬鹿にした話である。愛犬が曜日ごとに別の家の飼い犬としてすまして飼われていた、という話は遠藤周作のエッセイだったろうか。
Kさんにメールすると肺炎で寝てますと返事。どうせ医者に行ったわけではなく、勝手な自己診断である。つねに心配させるような、余計なことをいう人である。結核や肺癌という場合もある。それでも6つの数字は送ってくれた。