明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



百間は写真で見ると齢とともに不機嫌そうな、への字口の角度ががだんだん激しくなり、さらにギョロリとした目玉でいかにも皮肉屋という顔になる。 随筆には随分ノラを中心に猫の作品があり、それらを続けて読んでみると、ノラを失った悲しみで、あんな表情になってしまったのかも、と思えてくる。私は小学校一年に始まり、教科書に出てくる肖像写真には、髭を書いたり1カットも残さず悪戯描きをしたのは断言できるが、百間の顔に溢れる涙を描き加えれば、あのへの字の口は、長期にわたって涙をこらえていてああなった、と思うであろう。 『ノラや』他で日々泣き暮らす百間の様子は、特に愛猫を失った読者には涙ものであろう。私の場合は、以前読んだ時にはさほどの感慨を抱かなかったが、読み返してみてこらえ切れなかったのは、『猫が口を利いた』である。亡くなる前年の作品で、ほんの短い小品である。 先生ほとんど寝たままの状態である。その寝床で猫がオシッコをしてしまう。不自由な身体で枕元のちり紙で拭く。すると足の方で声がする。「騒いだって仕様がない。手際よく始末しておけダナさん」。なんとなく聞き覚えのある調子である。寝てばかりいたらなおるわけないので、なおすように心掛けて昔のように出掛けなさい、という。気分が悪くて堪らないので、枕元のシャンペンを飲もうとして猫に引っぱたかれてこぼしてしまう。「何をする」「猫じゃ猫じゃとおしゃますからは」「どうすると云うのだ」「ダナさんや、遊ぶのだったら、里で遊びなさいネ」「どこへ行くのか」「アレあんな事云ってる。キャバレやカフェで、でれでれしてたら、コクテールのコップなど、いくらでも猫の手ではたき落としてしまう。ダナさんわかったか」 このくだりは何回読んでも涙である。何故なのかは解らない。幸い私は書評家ではないので分析などせず、余韻だけを仕舞っておくことができる。“病床文学”とでもいうジャンルがあるなら、傑作の一つであろう。

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