仕事を通じて知り合い、友人として付き合いが続くことはまれで、たった2人しかいないのだが、その一人のS君はアメリカ在住で、日本に帰って来ているという。睡眠時間を削って円谷英二を乾燥させるところまで持って来られたので、数年ぶりに会うことになった。 彼と知り合ったのは80年代の終わり頃だったろうか。イベントや、様々なプロデユースをする会社にいて、デイスコに飾る人間大の像を作ったり、カレンダーを作ったりしたのを覚えている。その会社の社員募集の広告には私の作品が使われていた。 S君が会社を止めた後も付き合いは続いた。丁度10歳下の彼は元サーファーで、渋谷のセンター街の連中には後輩が多く、後の芸能人やら世間を騒がせることになる連中がいて、書くことがはばかれる面白い話を聞かせてくれた。しかし当人はいたって真面目で親孝行な男であったが、見る前に軽やかに跳んでしまうタイプで、少々はらはらしたものの、会うたびに面白い状況になっていて退屈しない。某TV局からアイルトン・セナを作るという話を持って来たのを覚えているが、それは次回レースに参戦するかどうか判らないという状況で、結局作ってはみたものの、という可能性があったし、私がセナが誰だか知らない、ということで立ち消えになったが、作っていれば面白かったろう。 そしていつの間にかアメリカに渡り、ネット関連のシステムがどうの、という会社に入り、社員が彼一人だったのに止める時には300人。年商数百億の会社になっていたそうである。独立後は紆余曲折もあったようだが順調な様子で、近年幼稚園の経営も始め、ブートキャンプのビリーの子供も預かっているという。日系の障害を持つ子供の親のサポートする非営利団体にもかかわっていて、そちらの方にも活動を広げようとしている。木場公園で桜を眺めながらここ数十年の話を聞いた。その間の私の変化といえば、それ一筋といえば聞こえは良いが、作る対象が変ったくらいである。それに引きかえ彼の意外な展開は相変わらずであった。 その後K本、T千穂と場所を移し旧交を温めた。アメリカに帰るまで間があるので、もう1回くらい会えるかもしれない。彼が帰ったあと寝不足がたたってT千穂で居眠り。
過去の雑記
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