横溝正史は『中央公論Adagio』では金田一の格好をさせたが、普通に着流し姿にすることにした。最近御無沙汰だが、かつては像を持って作家ゆかりの地を撮影してまわった。そうした場合はあまり意味を込めずに、ただ突っ立っている方が対応が利く。泉鏡花の場合は、1つの首に2ポーズの胴体をを持って金沢で数十カットものにしてきた。それを思うと最近は、たった1カットのために、その背景に合う像を作り何日もかけて合成をする。実に効率が悪い。もっとも効率云々をいうなら、そもそもこんなことはしていないわけで、1カットのための達成感は何にも換え難いものがある。 となると横溝には、たとえば詰め襟に脚絆、腰には長い物。頭には鉢巻きに懐中電灯を二本挿し、何やら思いつめた表情で野山を駆けまわってもらうことだってできるわけである。しかし私が作ったのは晩年の姿。さすがに走り回らすのは無理がある。ならばその格好で満足気に、たった今“一仕事”終えて来た村を遠くに眺めながら、腰を下ろして一服させるのはどうだろう。だいたいこんなことを書いた時には、書き出した時点ですでに画が具体的に浮かんでしまっており、構図その他、もう一切動かすことができない。この融通の利かないところが嫌で、もう少しああだこうだ考えたいところだが、結局最初に浮かんだイメージを超えることはできないのである。 まだ明けきらない山中で返り血を浴びた姿にするか、同じその格好でポカポカと穏やかな日中、何も浴びせない状態で、まるで野良仕事を終えて一服しているかのような穏やかな横溝。私の趣味からすると後者の方が間違いなく可笑しいので、そちらを選びそうだが、そのぐらいは後で考えたい。
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