明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



午後、Kさん(当ブログを出禁にした陸(おか)河童のK公とはもちろん別人である。)の車で銀座に向かう。こちらで個展をどうか、とKさんの提案により。すでに先方に作品は見ていただいていたが、とりあえず顔合わせ。いずれオイルプリントで個展を、ということになりそうである。 単に人形を作っていた写真ド素人の私が、1991年より訳も判らずオイルプリント制作を始めた。それがいつの間にか個展を重ねることになった。以来、止むに止まれない時は、その時意味がわからずとも、乗ってしまえと考えるようになった。 止むに止まれぬ、といえば、実在した人物は自主的にはもう作らない、と書いていながら、筆も乾かぬうちに始めてしまった。人間は頭に浮かんだものを作るように出来ている。らしい。もっとも、作らないと書いていながら、どこかですでにきな臭い匂いが鼻の奥でしていたのだが。古い友人なら、これは始めるな、と思っただろう。理由の1つは写真も残っていない人物だということがある。つまり創作の余地がある、ということである。私ごときには鏑木清方のように、写真が残っているのに、事実と違っていても主観を優先、ということができない。池波正太郎のようなマネはできないのである。ところがこの人物には、私を縛りつける肖像写真が残っていない。その代りに自画像を数種残しているが、私が小学4年に上がる時、学校を去る担任の田中先生に、本好き、特に人物伝ばかり読んでいる私に、そんなに好きならと内緒でいただいた世界偉人伝にも乗っていた有名な画と違う。本人が描いているから正確かというと、私は簡単には信じない。夏目漱石でもかぎっ鼻を修正させているように、こう見られたい、という心理が必ず働いているからである。しかし、本人の描いた肖像と他人の描いた肖像、まるっきり違うようで、重ねてみたら肝腎な部分が重なり、もの凄く驚いた。恐るべしニッポン式リアリズム。 その人物をどういう画にするかは、すでに決まっている。おそらく私の“感心されるくらいなら呆れられたい”願望を充分満足させてくれる作品になることであろう。

オイルプリントプリント映像

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』より

月刊ヘアモード12月号 no・693
不気味の谷へようこそ第9回 脳内イメージを表す人形写真

※『タウン誌深川』25日“明日できること今日はせず”連載5回「芭蕉の実像」

HP

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