明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



それにしてもシミ一ズだズロ一スだ、などと私は一体何をしているのだと思わなくもないが、立体だけを作っていれば、おそらくシミ一ズやズロ一スとは無縁だったはずである。 立体を展示しただけでは制作時にイメ一ジした世界の、出し切れない物が頭の中に残っており、全部公開しようとすると制作した人物の背景まで表現することになる。しかも現実世界にイメ一ジした物と同じ風景が無いとなれば、作ることになるのは当然であろう。実際はちょっとイメージと違うが、無い物は撮れないから我慢した。ということだけはしたくない訳で、たとえ太平洋と浜名湖をつなげることになろうと、どんな手でも使う所存である。 ところで届いたシミ一ズ『ヤング・ランジェリ一』。どうやら潰れた学校指定店のデッドストック物のようだが、私にはサイズ表示が飲み込めず、届いた物はどう考えても使えそうにない。私に助手や手下や執事などがいたなら、こんなことは、そいつらにやらせるところだが、いないので、パソコンに向かって新たにヤングなランジェリ一を探す私であった。

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インターネットというのは、何か探す場合大変助かる。磯ノミを注文し、初枝が履いたであろう藁草履も注文することができた。入手した物はまだある。 『潮騒』といえば“焚き火を飛び越して来い”で有名な、監的哨のシーンが有名である。嵐の夜に落ち合う約束をした新治と初江。先に着いた新治が 焚き火をして寝入ってしまい、その後に到着した初枝は濡れた服を脱いで焚き火で乾かす。初江役のAちゃんは知人の娘で、おかげで勝手が違い、どこまでやって貰えるか未だ確認していない。おそらく初江が身につけていたのは、私の時代でいうシミズだかシミーズといった物とズロースであろう。どちらも聞いた事がないというAちゃんに、ズロースのサイズを聞き私が購入して渡すのも妙なので、くれぐれも介護パンツと間違えないよういって調達してもらうことにした。あとはシミーズであるが、これはあくまで昭和風でなければならず、オークションでデッドストック物を入手した。そんなことはAちゃんの母親に相談しつつ、逐一報告しながら進めている。Aは足が大きいからその藁草履入るかしら、というメールをもらった。 先日父親にはテスト撮影したAちゃんを、携帯の待ち受けにするからと送らされた。父親の前では愛娘を褒めることは避けている。大事な娘の話は長くなるし、さらにやりにくくなるからである。最近用事があるのに娘から返事が来ないというので、親父さんしょげてるから連絡してあげて、と私からいっておいた、やはり撮影時、父親にセコンドに付かれるのは拒否しなければならない。もっとも実際は口だけで、どこかに飲みにいってしまうとふんでいるのだが。

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ようやく完成した海女小屋だが、初江をここに、と考えながらイメージに合った場所を作るのは嬉しい。『中央公論Adajio』では背景が都営地下鉄駅周辺に限られたため、必ずしもこの人物なら絶対ここ、という場所に立たせられなかったので、以来、できるならより納得できる場所に、と考えてきた。  何度もいっていることであるが、マコトを写すという意味の写真という言葉がどうにも居心地が悪い。創作者としてマコトなどというものに一切係わりたくない、という私の性質にもよるのであろう。 そもそも子供の頃どこかの王様に、例えばロンドン塔のような場所に幽閉され、ここにあるクレヨン、色エンピツ、画用紙、粘土等、好きなだけ使っていいし、図書室の本も読みたい放題、そのかわり学校も行かず宿題も何もしないで良い。などという状態を夢想する子供であり、今もあまり変わっていないようである。 それはともかく。写真と出合ったことは良かった。嘘を付くには本当の事を混ぜるのがコツであるが、そのためのツールとしてこれほど最適な物はない。私の作った海女小屋が嘘八百だとしても、それを形成する焚き火跡、戸板や、空や海など、一応実物にレンズを向けて撮った物を使っている。それが私の嘘に真実味を与えてくれているわけで、たとえ小屋の背景の房総の海が、遠景になるにつれ実は浜名湖になってしまっていても、私が黙っていれば良いことである。 ただここで気をつけなければならないのは、いくらデジタルで自由が利くといっても、キッチリと作りすぎるのは禁物である。よって海女小屋でいえば、何に使用するのか判らない雑物をあえて画面に入れてみた。人形を手持ちで撮影していた頃学んだことだが、作り物だからこそ、不測の事態を取り入れることが大事で、そのためのツールとしても写真は最適なのである。

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初江の磯着、磯メガネ、タライなど揃ったが、アワビなどを剥がし取る、磯ノミを腰に手挟んでいたら良いだろう。多少錆が出るよう鋼製の物が良いのだが、今は錆びないステンレス製が主流のようである。友人の鉄工所に作ってもらうまでもなく、塗装で感じを出すことにした。さっそくネットで注文する。 岩牡蠣採りなど磯の貝採りは楽しいものである。磯ノミでかたっぱしから採り塩茹でにして、酒の肴にしてみたい。形は妙だが、なかなか美味なのが亀の手である。
牛生レバー禁止の可能性があるらしい。実に困ったことである。夏に生レバーに当たったことがあるが、あれは厳しかった。真夏に布団をかぶって震えていた。てっきり夏風邪だと思っていたのだが。一度当たった程度で二度と食べられなくなる人がいる。だいたいそんなことをいうのは食に関して保守的な男性のようで、女性から聞いた記憶がない。私はたまたまだろう、とめげることはないが。 これは私の想像だが、すべての哺乳類のレバーは、ほぼ似たような味であろう。飛行機がアンデスの雪山に墜落することもあるし、それまでに正確な場所を知っておきたい。ボクシングを観ているとレバーブローというのがあるが、まああの辺りなのであろう。

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昨日数日かけた海女小屋、後は初江とサザエやアワビの貝殻を配すれば完成のつもりであった。始めは海が見えているほうが良いだろうと、もっとガラアキだったのを大分囲ったのであったが。しかしまだ“小屋感”に乏しい気がしてきた。海女小屋というと、中で焚き火で獲物を焼いて食べたりするので焚き火跡が必用だろうと、下方のスペースをを重要視したが、小屋というと雨風がしのげる所。つまり小屋感をより出すには重要なのは屋根であろう。しかし何かで覆ってしまうと撮影時の光線状態とは違ってきてしまう。そこで青空を入れるためにもオープンな状態にし、さらに窓状に切り取った向こう側に対岸が見えるようにした。竹竿はよけいな物を隠すために必用であったが、このおかげで海女小屋の中のほんの狭い空間という感じが出て、口さがない海女仲間のオバサン連中の目を気にすることなく、初枝は新治のことを想えるのではないだろうか。

初江役をお願いするAちゃんの父親から、来週来るので撮影はどう?とメールが着た。背景が出来た分だけでも撮影しておきたいところである。その父親が自分がいた方が?というのだが、Aちゃんを溺愛する父親の目の前で、海女姿の娘を撮影するというのは、どう考えてもやりやすいとはいえない。セコンドに付いたドリー・ファンク・シニアの前でドリー・ファンク・ジュニアと試合するようなもので、いつクレームを付けられリングに乱入してくるか判ったものではない。なんとか穏便に断わりたいものである。

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海女小屋は某店内を画像処理にて制作するつもりであった。柔らかい外光が入るのが良かったし、窓外に漁村の青空を配すればのどかな雰囲気が出るだろう。しかし調べてみると、現在の観光客向けの海女姿のおばさんが、サザエやアワビを焼いて供する場所とは違い、本当の海女小屋とは、ほとんど掘っ立て小屋のような、かろうじて何かで囲んだような粗末な物であることが判ってきた。藁や戸板で囲っただけの物から、トタンで囲った物まである。昔は女性でもフンドシ、上半身も素っ裸が当然だった頃は、プライバシーも何もなかったであろう。こうしてみると小屋というにはあまりにスカスカではあるが、イメージしてみた海女小屋である。何か良く判らない雑物が置いてあるが、作ろうと思っても作れないのがこの辺りで、このような物がリアルにさせている。同じ雑物でも逆に邪魔だったのが、やたらとぶら下っているスーパーの袋であった。撮影時にどかしたが、真っ白な発砲スチロールの箱も目に付いた。 停泊していた漁船の漁師のおじさんには「何撮ってんの?」と訊かれた。咎められたわけではないが、せっかく広い海が広がっているところで、妙にセコい物ばかりにレンズを向ける私が不思議だったのであろう。私の撮影は常にそんな状態である。 真ん中のコンクリートブロックに海女姿の初江が坐り、出漁中の新治を想う予定である。初江の名を墨書きした初江愛用のタライを配するか未だ決めかねているが、房総まででかけて肝心のアワビやサザエの貝殻を撮ってくるのを忘れた。これは次回の課題とする。 

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4年間『中央公論Adagio』の表紙を担当していて、その間は、現在誰を作っているかいえずに制作していたが、それ以前、特にブログという形でなかった頃は、制作中の画像を載せたり、けっこう恥ずかしいことをしている。なにも中途半端な物を載せることはないと思うのだが。しかし、当時の私が今のブログを見たら、近所の酔っ払いについて、あまりにくどくどしく書いているので呆れることであろう。その点は少々反省している。元々どちらかというと近所の人と飲んだりする習慣がない、というより避けていた私であり、行きつけのK本にも、4時の開店と同時に氷なしの正調チュウハイをググと引っ掛け、ほとんど喋ることもなく、客が増える頃にはとっとと帰って朝まで制作の繰り返しであった。そこへ現在横尾忠則さんのドキュメント映画を制作中のYさんが越してきて、Yさんがいつの間にかK本の常連になり、常連が集う時間帯に誘われ、現在は常連席などという狭い所に挟まっている、というわけなのである。そして最近はK本の氷なしの正調ホッピーでコケて2度ほど救急車に乗ったKさんである。先日実物に対面したSも、私との共通点を見出せず、何故一緒にいられるのか判らないといっていたが、確かに私もそう思うのだが、はっきりしているのは、Kさんと飲んでいる間は、作品制作のことなど考えていられる状態ではない、ということである。私はどちらかというと四六時中制作のことを考えてしまうたちで、それでなにも不都合はなかったが、一日に数時間は忘れたほうが、結果が良いことに気付いてしまった。しかもたまたま制作中の三島由紀夫とKさんの身長が近いということで作品制作にも貢献してもらっている有様なのである。 明日は『潮騒』の初江が新治のことを想い、たたずむはずの『海女小屋』をアップする予定である。

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