私の場合、ほとんど独学である。先日同級生と会った工芸学校は、浪人したり短大出ていたり、デッサンなどの経験者とずぶの素人が混在していた。ベーシックの授業でリンゴを粘土で作る授業があった。素人一派は、まず粘土をいきなり実物大に丸めようとする。私もその一派だった訳だが、後に女子美の学長になった若い先生は中に芯があることを意識せよ、といった。陶芸家になりそこねた私には、この一件が、唯一身の為になったと思う。 独学者は長い回り道をする。何かおかしいが、どこがおかしいのか判らず立ち尽くす、なんて悪夢を昔は良く観たものである。その反面、かってに暴走してもとがめだてされない。黒人のブルースマンの中には考えられないような弾き方をするギタリストがいるが、おそらく耳だけをたよりにした結果であろう。加えて盲目だったりすると、さらにほとんどアクロバチックでさえある。私の第六感は、人形を作るのに人形を学んではならず、写真をやるのに写真を学んではならない、といった。入った物は出て行かない。人間はやみくもに学べばいいというものではない。学ぶは真似るところから始まるというが、私はそうは思わない。学んでしまったらできないことが必ず出てくる。 私は田村政実氏のプリント作業を目にして、ここでも私の感は、自己流のヘタクソなプリントは即座に止めてこの人にやってもらえ。早々に確信し、おかげで大事な人生上の時間を無駄にせず済んだ。そしてこういっては失礼だが、スピーカーが良ければ、私の妙な思いつきもちゃんと立派に着地して聴こえるだろう。結果、今回のリコーの特に初期作品は、人形の脚を鷲掴みにしてカメラをおでこに押し当て、撮影して回ったとは思えないであろう。そして何か思い付いては田村さんに相談し、おかげで身につける必要のない技術や知識から自分自身を守れているという寸法である。そして飯沢耕太郎さんに「またおかしな事始めましたね。」と未だにいってもらえている。 私が作品展や、美術館に出かけないのも、生来の出不精をこじらせたこともあるが、他人の表現に感心して吸収している状況ではないという事もあるだろう。おかげで出かけないのだから来て下さい、とはいえないのが珠に傷ではある。
台風により延期になりました平井憲太郎×山前譲トークショーは8月25日(土)となりました。お申し込みは下記まで。
石塚公昭幻想写真展-生き続ける作家たち- 2018年7月25日(水)~9月2日(日)(火休)
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※『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載9回『牡丹灯籠 木場のお露』
展評銀座青木画廊『ピクトリアリズムⅢ』
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