ふげん社の個展では、数十年ぶりに、会場に音を流してみようと考えている。一つは映画『憂國』で使われたワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』三島の葬儀の際にも流されたと聞く。もう一つは未聴なのでまだ内緒にしておく。ちょっと面白い物である。もっとも、三島作品は全体の半数と考えているから、流しっ放しにするつもりはない。 写真が残っている実在した人物で新作はもう作らないつもりでいるが、実在した人物を扱う面白さは、私が好きな所で好きな事をさせられるところにある。なので、私の作品としての最終形態は、人形ではなく写真作品だと思っている。肝心なのは顔であり頭部だが、作るにあたってただ忍耐だけを要し、辛いだけである。そう思うと、辛い思いをさせられたまま、見返りの創作の快楽を充分に味合わせてもらっていない人物も多々いる。例えば太宰治は、交通局発行のフリーペーパーの表紙用に作ったので、飲酒は駄目、タバコも駄目であった。檀一雄がいっていたのだったか、太宰の食い気は凄まじく、鶏一羽を引き裂いて貪り食らう様は異様だったそうである。本来なら、写真に残っていない、そんな場面こそ私が手掛ける価値がありそうだが、そんな場面を作って面白そうな気がしない。それよりも、何度も考えながら実現していない、私が最も通い慣れ、今は廃業した酒場に座らせたい。無くなる前に写真を撮ったが、人がいる場面ばかりである。しかし人が居ないところをフィルム時代に一度撮影している。探せばネガはある筈である。つげ義春トリビュート展に、そこを“もっきり屋”に仕立てようか、と考えたくらいの酒場である。太宰が飲んでいて十二分な風情であろう。
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