明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



他人の何気ない一言で、気が付くことがある。それはジャズ、ブルースシリーズの自作品を撮影し、初めての個展の時であった。某ファッション誌の編集者が、被写体が目の前に有るのにかかわらず、写真は人間を撮影したと間違えた時であった。おっちょこちょいな話であったが、本来それだけリアルに撮れている、ということなのに、何故私は嬉しくないのだろう?今にして思うと、私が、乱歩いうところの、“現世(うつしよ)は夢 夜の夢こそまこと”体質なのだ、とまず身体が反応した瞬間だった。翌年、デビューから十数年続けたシリーズを捨て、その乱歩を含めた六人の作家により作家シリーズを開始した。 その後何年も経ち、都営地下鉄のフリーペーパーの表紙で一つの実験をした。それは人形としてどれだけリアルにできるか、ということであった。CGといっても、最低限、大きさと色味の調整だけでやってみた。ちょっとした遊びであったが、結果、老人である古今亭志ん生に、巨大な火焔太鼓を背負わせたのにかかわらず、見る人には実写に思われた。つまり老人に重い物を担がせようと、気球にぶら下げようと、見える物は見える、ということである。私の最高作、といってくれる人もあるが、やはり私のやるべき方向ではなかった、と再確認した。最近の陰影を排除する手法というのは、説明するまでもなく、私が制作した作り物である、ということが誰が見たって明らかである、という意味で、心穏やかでいられるのであった。まさに紆余曲折の果て、というわけである。しかしだからといって、太宰治や、エトガー・アラン・ポーの陰鬱な表情に、陰影を与えたければ、何も無理して我慢することはない、とようやくそんな心持ちになれた、という令和二年である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




椿説弓張月で密告により為朝を生け捕りにさせた仇、武藤太が木槌により竹釘を打込まれる処刑は“小槌の仕置”と呼ばれる肥後の山賊に伝わる処刑方法らしい。これから三島にやってもらう予定の武藤太の役は、三島が演出した歌舞伎では、市川猿翁の弟、四代目段四郎がやっている。もしやと思ったら、たまたまサイン色紙を持っていた。私の子供時代のアルバムを前の家に忘れて来て、何でこんな物を持っているという話である。これも何かの縁であろう。 裸の処刑場面だけは三島のこだわりで筋骨隆々の大映の俳優勝村淳がやっている。勝新太郎の勝プロ所属で、勝新の座頭市などでスタンドインをやり、『悪名』や『兵隊やくざ』ではよく見かける。ブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』ではブルース・リーに一本背負いを決めている。また勝新と三島が共演した『人斬り』に勝村も出演している。そんな縁であろう。 雪降るこのシーンで琴を弾く白縫姫は、三島歌舞伎では常連の歌右衛門ではなく、高校卒業直後で大抜擢の坂東玉三郎である。『椿説弓張月』『人斬り』いずれも三島の死の前年の作品である。人斬りで田中新兵衛役の三島は、“めんどくせぇもういいや、何でも良いから腹切りたかったんだ”といわんばかり、ほとんど唐突に腹を切るが、リハーサルから竹光を血が滲むほど程腹に当て、周囲がハラハラしたそうだが、この場面により京都撮影所で使用する一年分の血糊を使ったらしい。つまり弓張月、人斬り、翌年の“本番”に向け、それこそリハーサル充分の三島なのであった。





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




制作に年月をかけたて来たお陰で、おおよその失敗を経験している。特に初めから独学で手探りでやってきたものだから、誰に相談する訳でもなく、失敗だけが財産である。ではこういう時にはここをこうすれば良い、というデータが頭にある訳ではまったくなく、こんなこともたしかあったが、今、無事にこうしている、というだけである。よって未だに、作り始めに、必ず完成に至る、という確信はないのだが、毎回そういってる割に、完成してきた、という気分だけが残っているに過ぎない。しかしこのおかげで慌てることもなく、なんとかなるだろう、と落ち着いていられる。おかげで、やったことがないことに向かっても行ける。 私がタイムスリップして、まさか、この程度に至るまでにこれほどの時間を要すると知らない私に会ったなら、どうするだろうか。別な道を行け、と止めるか、誰か師匠を持て、とアドバイスするのか。実は今朝、そんな夢を観た。山手線に乗る陶芸家を目指していた頃の私に出会い、肩を叩くかどうか躊躇する。陶芸に向いていないのはやりゃ判るだろう。問題は独学は時間ばかりかかって苦労するから止めろというかどうかで悩むのだが、結局、お前程度の才能で、普通のことをしていたら、何でもなくなってしまうだろ、と肩を叩くのは止めた。案外教わると気を使って師匠の教えに反することが出来ないタチであろうし。だいたい写真嫌いだった私が、いずれ写真を始めるから、といっても信じる訳がないよな、と電車を降りた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




北砂図書館へ。砂町銀座商店街の近辺で引っ越し先を探したのに、アリオ北砂が近いので、ついそちらに行っていたが、砂町図書館が商店街の中を行くことがわかり、図書館へ行くときは帰りに商店街で買い物すれば良い。出無精の私もようやく一通り、必要な場所を把握出来た。 椿説弓張月の惨殺シーンは、三島の演出では、北斎の挿絵同様後ろ手に縛られ、座らされて腰元達に木槌で竹釘を打込まれる。黒蜥蜴に剥製にされた三島で、ほぼ同じポーズで一度作っている。そのまま使おうか、と思ったくらいである。ご丁寧に弓矢まで刺している。聖セバスチャンの場合は、三島もそうしたが、両腕を上げている。後ろ手はすでに作ったし、セバスチャンのオマージュという意味でも腕を上げたポーズにしようかと思った。なぜなら三島にとっては腋窩の翳りがつまり脇毛が重要ではないか、と思ったからである。これだけ書くと、何馬鹿なことで悩んでいる、と思われるかもしれないが、こればかりは『仮面の告白』を読んでもらわないとならない。と書きながら、妙なことで悩ませてくれて三島は本当に有難い人物である。こんな一見バカバカしいことについて悩むなんてことは、私の大好物である。 引っ越し後、私の東京は64年の東京オリンピック以前の東京だ、などと粋がって、掃除機を拒否し、箒とチリトリ、座布団に座椅子と決め込んだ訳だが、どうも足腰に来る。しかしユーチューブで久しぶりに小津安二郎の『お茶漬けの味』を観て、やっぱり良いよな。無性にお茶漬けを食べたくなる。しかしよく考えたら、佐分利信でさえ、今の私より年下であろう。粋がってないで、座椅子や文机の高さを少々高くすることを考えるべきであろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


引っ越し以来、生活のリズムが変わり、妙に規則正しい。以前はマウスを何度も取り落とししたりしながら制作していたが、年齢もあるだろうが、眠くなったらすぐ寝てしまう。眠くないのに寝るということはないから、これでいいのであろう。太宰治は、隣に人間の女性を立たせたせいで、粘土製の毛髪に違和感を感じ、ベランダから頭を突き出し、自分の髪を自撮りして使った。よって作り直した。中学のときの担任である理科の教師は、いつも革のジャケットを着ていたが、今思うと太宰を意識していた可能性があり、しょっちゅう髪をかき上げていた。隔月で連載している『タウン誌深川』は、生活のリズムの変化のせいで締切時期を間違え、慌てて書いて、今回は中学時代のある日のことを書いたので、久しぶりにその担任教師のことを思い出していた。随分中学生気質も変わったことだろう。授業中に乱歩と谷崎を熱中して読んだことを思い出す。考えて見ると、私の制作上のモチーフは、ほぼ中学高校時代の読書体験でまかなわれており、太宰、三島、寺山、村山槐多は、二十歳以降であった。太宰は心中して生き残った、というだけで読む気もせず、三島は映画黒蜥蜴の剥製役と、からっ風野郎で呆れてしまって読むのが遅れた。そう思うと何が何してどうなるか、などは全く判らないものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




織田作之助、坂口安吾、太宰治の無頼派座談会は、織田が大阪から来て、太宰が疎開先から帰えり開かれた。酔っ払ってそれぞれ勝手な事を言い合っていて可笑しい。織田 いま、一銭銅貨というものはないけれども、ああいうものをチャラチャラずぼんに入れておいて、お女郎がそれを畳むときに、パラパラとこぼれたりするだろう、そうするともてる。太宰 どうするの?織田 こいつは秘訣だよ。太宰 一銭銅貨を撒くの?織田 ポケットに入れておいて、お女郎がそれを畳もうとすると、パラパラこぼれるだろう。それがもてるんですよ。太宰 ウソ教えてる。織田 百円札なんか何枚もあるということを見せたら、絶対にもてないね。太宰 ウソ教えてる。坂口 そういう気質はあるかもしれない。 このあと安吾は祇園では七つや八つの女の子を十七、八までに垢すりでヒイヒイ泣いているのをゴシゴシこすって一皮剥かないと美人になれない。渋皮が剥けるというのはきっとそれだろう、なんていっている。太宰は織田作之助とは一月前に初めて会った、と追悼文に書いている。 一九四七年の別の座談会では 坂口 荷風の部屋へ行くと惨憺たるものだそうだ。二ヶ月くらい掃除をしておらんのだ。それでずいぶん散らかっている中に住んでいて、部屋がない、部屋がないといって部屋を探して歩いているそうだ。そういうのは趣味だと思うね。ちっとも深刻でもなんでもない。 坂口安吾は自分自身がこの前年、林忠彦に散らかり放題、ホコリが一センチ溜まった仕事部屋を撮られている。まだ発表されていないのか、されている前提で話しているのか、あんたがいうか、といずれにしても可笑しい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ふげん社の個展では、数十年ぶりに、会場に音を流してみようと考えている。一つは映画『憂國』で使われたワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』三島の葬儀の際にも流されたと聞く。もう一つは未聴なのでまだ内緒にしておく。ちょっと面白い物である。もっとも、三島作品は全体の半数と考えているから、流しっ放しにするつもりはない。 写真が残っている実在した人物で新作はもう作らないつもりでいるが、実在した人物を扱う面白さは、私が好きな所で好きな事をさせられるところにある。なので、私の作品としての最終形態は、人形ではなく写真作品だと思っている。肝心なのは顔であり頭部だが、作るにあたってただ忍耐だけを要し、辛いだけである。そう思うと、辛い思いをさせられたまま、見返りの創作の快楽を充分に味合わせてもらっていない人物も多々いる。例えば太宰治は、交通局発行のフリーペーパーの表紙用に作ったので、飲酒は駄目、タバコも駄目であった。檀一雄がいっていたのだったか、太宰の食い気は凄まじく、鶏一羽を引き裂いて貪り食らう様は異様だったそうである。本来なら、写真に残っていない、そんな場面こそ私が手掛ける価値がありそうだが、そんな場面を作って面白そうな気がしない。それよりも、何度も考えながら実現していない、私が最も通い慣れ、今は廃業した酒場に座らせたい。無くなる前に写真を撮ったが、人がいる場面ばかりである。しかし人が居ないところをフィルム時代に一度撮影している。探せばネガはある筈である。つげ義春トリビュート展に、そこを“もっきり屋”に仕立てようか、と考えたくらいの酒場である。太宰が飲んでいて十二分な風情であろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨年、金魚坂での個展は、本物の金魚を使って室生犀星の『蜜のあはれ』を制作したのだった。赤井赤子こと、被写体に選んだ琉金は立派な尻尾をしていたが、さらにそれを強調してみた。赤子はウチに来る事になっていたが、当時はまだ引っ越し先を探している最中で、落ち着いたら取りに行くことになっていた。 小学生の頃から熱帯魚は飼っていたが、金魚は鈍臭い動きが嫌いであった。ところが金魚坂で撮影していたら、赤子という女の子を撮影しているような気分も多少あり、顔を撮ろうとすると、明らかにそむけたりして。そうこうしていると、このフラダンスしているような動きこそが可愛らしく見えて来た。昨年暮れに取りに行こうと思ったら調子が悪い、ということで本日用事もあり、取りに行けたら、と思ったら、死んでしまったという。以前金魚の飼い方を読んだら、金魚に名前を付けてはいけない、と書いてあった。付けた訳ではないが、赤子という気分ではあり、ただ金魚が死んだ、とはやはり何か違った。 砂町図書館に行く。砂町銀座商店街の中を行く。商店は水曜日はほとんど休みで、空いていたので肉まんを歩きながら。歩き食いは世代的にあまり楽しくはない。 一度減らした蔵書をもう増やす訳には行かない、特に持っていた本は悔しくなるので借りて済ますことにする。本は積んだらお終いだ、と肝に命じている。石田波郷コーナーを初めて見る。帰りはすっかり暗く風も強い。開いている惣菜屋を覗くと安い。ソニー・リストンの拳くらいあるチキンカツに切り分け損なったのではないか、とつい確認してしまった。見覚えある店を確認しながら、行きと帰りの区別がつかないせいで、反対側に出てしまい寒い思いする。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『椿説弓張月』の中にあった聖セバスチャンの殉教図、武藤太の拷問場面だが、作るにあたり、決めかねていることがある。ブログに何度か書いたが、それ以前、板東妻三郎の無声映画『雄呂血』のように、追手に追い詰められ、刺叉やハシゴに囲まれ、ザンバラ髪の三島が刀を振り回し、顔は歌舞伎調、というのをイメージしていたのだが、残念ながら該当する作品、エピソードがない。薔薇十字社版では、三島は好き勝手?なガテン系の男達になり切り、そりゃ楽しかったろうが、私は根拠もなく、作りたいからといって捏造してはならない。そこに持ってきて、和製セバスチャンを見付けた訳である。そもそもが三島が演出した歌舞伎であるから、歌舞伎調メイクや、目の演技をしていても良い訳である。飛んで火に入る、といいたい所であるが、何を迷っているかというと、聖セバスチャンは、何本もの弓に射られていながら恍惚とした表情、というのが”ミソ“である。しかし一方の武藤太は、苦痛にうめきながら、半沢直樹に土下座させられた市川中車のような表情である。腰元達に竹釘を打込まれるのだから当然である。さて、どちらの表情にするか、である。こう書きながら三島が扮したセバスチャンは手本の絵画に準じ恍惚としているが、石塚版ではやはり苦痛にうめくべきであろう。こうしてサービスに務める私であった。本日のブログも、書いたお陰で決められた。そんな駄文にお付き合い頂くのはいつも心苦しくはある。 それにしたって、この一年の長さはなんだ。部屋の片付けばかりしていた気がする。嫌なことを嫌々やっていたら時間が経たないことがはっきりわかった。私が結婚していたら『火の鳥』の登場人物のような目に合っていただろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




5月のゴールデンウィーク明けに予定している個展会場『ふげん社』が移転し、その内覧会に出かける。古い趣きのある会場も良いが新築はまた気持ちが良い。まあいくら観たところで頭には何も浮かばず、展示は一言も発しないままお任せすることになるだろう。 昨日から出品作の解説を書いている。先日、写真作品に説明は不要ではないのか、というフェイスブック上で論議があった。確かに野暮といえばそうだし、必要ないなら、とは思うが、写真は通常外側の既存の世界を撮るものだから、なんとなく想像がつくかもしれないが、私の場合は、頭に浮かんだ、私しか見た事がない風景である。だったら絵画と同じだし、絵ではそんな解説しないだろうという事にもなるが、私の選ぶモチーフがまた厄介である。三島由紀夫を読んだ人なら判るか、というとそれがそうも行かない。三島の作品をただ作品化したというなら話は簡単だが、そうではない。特に、私の作品の中でも、作者にウケる事しか考えていない、という特殊な事情もある。それはともかく。 単純に考えて、三島由紀夫が汚穢屋姿で死んでいたり、王子様の格好でドラゴンに噛み砕かれている所を作った人間が、何の説明もせず、個展会場でただ押し黙って立っているなんてことが、はたして許されるものであろうか。私は許される気が全くしないのだが。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


老化  


昨日Wi-Fiが届き、スマホに繋がったが、手元にある唯一の古いMACにつなげようと思ったが、案の定、設定で頓挫。あれ程商品の能書きは、薬だろうとオーディオだろうとすべて読み、何で女は、マニュアルを読みもしないで、出来ない解らない言ってんだよ。と散々言っていた私が気がついたら自分がそうなっていた。唯一、友人とツアーで出掛けたNYで中華街やイタリア人街から一歩も出ないで死ぬ連中がいる、と聞いて、そいつらバカじゃないか、と言っていた私が今そうなっている。これも何も老化というものであろうが、それで良いのである。何かを得る為には何かを捨てなければならない。容量には限界がある。必要の無いことは学びたくも身に着けたくもない。必要であれば、何でもしたいが、身に着けた物を余らして死ぬという無駄は避けたい。ぎりぎり必要な事だけを学んで身に着け、すべて使い切って死にたい。その為には必要になってから学べば良い。 私は自分の過去のブログを読んで楽しいのは、解らないけどやりたくなったから始めた、という頃にブツブツ言ってることを読むことである。つまり今は解っているし出来ている。あの状態から脱し、今に至っている、と思えるからである。バカだな、と過去の自分に優越感を持って笑える。歳を取るのも悪くない。頭に来るのも笑うのも、自分に対してなら、安全だし迷惑も掛けない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


来客  


昔からの友人が来る。一人はネパール人の奥さんを連れて。ジャズ、ブルースシリーズ時代を知っている連中であるから知り合ったのは随分昔である。その頃は、作った物を、他人になど見せないで、友人だけに見せて"良いだろ?"なんて言っていられたらどんなに良いか、なんて思っていた。いや、それで済むなら未だにそれで済ませたいくらいである。そもそも子供の時に、頭に浮かんだ物は何処へ行ってしまうのか、といつも思っており、それを作って可視化して“やっぱり在った”と確認さえ出来れば、大半の目的を果たした事になる。私もすっかり忘れていた、その頃作った余計な物を覚えているので驚きながら、そんな二十代の頃を思い出していた。 考えて見ると、頭に浮かんだ物は何処へ行ってしまう、と言いながら、自分の中からとっくに消え去っているのに、他人の頭に居残っている訳だから、何かを作って人に披露するという事の不思議さを、またうかつには披露出来ない、と改めて思う。当時、沖縄のサトウキビ畑でバイトしたりしながら沖縄を撮影したり、それこそインド、ネパールを撮影していたが、いずれネパールに移住するつもりで家を建てたのに、奥さん、息子はその気は全くなく、奥さんの親戚が住んでいるそうである。息子は某大で宇宙物理学?かなんかの大学院に進んだそうで、全く計画通りには行かないものである。 話していると、様々な事が思い出されて来て、その後彼がきっかけとなり、彼には関係ない人脈が随分派生していたな、と思い出されながら、名前が出てこない。次回会うまでに確認しておこう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




部屋を片付けながら、私が手本にしたい某浮世絵師の画像の色眼鏡をかけたままの状態である。昨日ブログを書いていて思い出した事がある。私が遠近感についてこだわるのは、両目で作る立体と一眼の写真との間に理由があるのは明らかであろう。私はデッサンもろくすっぽやらずに我流で人形を作り始めたが、よって初期の頃は、対象を離れてチェックすらしなかった。つまり目の前で作っていたせいで、両目の距離の分、頭部の側面を開いて見てしまっており、まさに逆遠近法で見ていて作った人物は、写真で撮ると幅が狭くなってしまう。ちょっと腕を伸ばして眺めるか、片目をつぶって見れば防げるものを、それに気付くに時間がかかった。お粗末にも程があるが、自分で写真を撮るようになり、澁澤龍彦の背後にクラナツハ調のヌードを配したが、クラナツハは解剖学的にはいい加減で、臍は真ん中になかったり、脚は変な方向に捻れていたりしたが、一眼で見れば成り立って見える、という。展示は出来ないが、一方向から撮る写真であれば成り立つという事を、極最初から試みていた。これかパースを強調して造形した気球の乱歩とどちらが先かは忘れた。 後で考えて見れば、前述の失敗経験から来ているのだと思う。先に写真を始めていれば、こんな事にはならなかったろう。 テレビドラマで北斎役の長塚京三が、西洋画を見て「観たまんま描いていやがる。」と呟いたシーンが忘れられないが、私もなんとか頭の中に浮かんだまんま描いてみたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


   次ページ »