明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



なぜ何かを作るかというと、頭にイメージが浮かぶからで、養老孟司は“人間は頭に浮かぶ物を作るように出来ている”という。何故浮かぶか、については判らない。食べたい物が自然に浮かぶ感じに近い。小学校入学と同時に図書室の人物伝をかたっぱしから読み耽り、また力道山の頃からプロレスを、64年の東京オリンピックに釘付けになったのも人の姿形に魅せられたていたからであろう。そういえば始めて女性の脇毛を見たのはソ連の投擲選手タマラ・プレスであった。つまり物心ついた頃には人間が最も興味のあるものとなっていた。 何故私は私なのか。来年個展40周年を迎えるにあたり、いくらか核心に近付きつつある気がしている。これは実在した作家を作っていたら、そうは感じなかったろう。現在手掛けているモチーフは、本日も朝、寝惚けながら、なんということをやっている、とめげながら目が覚めたが、覚めてみれば、生き物である私が作りたくなったものだ、良いも悪いもあるか、となっていた。横尾忠則さんいうところの成り行きとしかいいようがない。

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禅宗にはリアルに制作された肖像画が残されている。なので今日でもその面影を想像することが可能である。当初これも臨済宗か、と思っていたら、その殆どが臨済宗のものであることは最近知った。しかし臨済宗開祖、臨済義玄(~866)ともなると古すぎて正確な肖像というわけにはいかないが、曽我蛇足の作品は一休宗純がお墨付きともいえる賛を書いているし、2021年の私としては”そういうことにしておこう“といっても罰は当たらないだろう。蛇足の義玄は、その変わったハゲ具合が、まるで見てきたような描き具合だな、とは思っていたが、それもまた先達の肖像画を元にしたらしいと知って腑に落ちた。 久しぶりに霧吹きを購入、特に夏はこれがなければならない。昔の霧吹きは、大工センターなどで買っても5、6年はもったが、今の製品は霧吹きに限らずそうはいかない。粘土も準備済みである。



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徹子の部屋に横尾忠則さん。お元気そうで何より。三島由紀夫没後50年にして出版された篠山紀信撮影、横尾さんデザインの『男の死』は本来三島と横尾さん二人の写真集になるはずであった。三島一人では引き受けないだろう、と読んだ企画者の元薔薇十字社の社主内藤三津子さんに伺った。 出版の僅か半年前に開くことが出来た三島由紀夫へのオマージュ展『椿説男の死』だが、僅か半年でも先に開くことが出来たのは、三島にウケることだけを考え、出版に怯えながら制作し続けた私に対する三島の褒美だったと思う。 本来であれば真っ先に手掛けるはずの『聖セバスチヤンの殉教』はすでに三島本人にやられてしまっている。その代わりに、三島演出により死の前年に上演された『椿説弓張り月』(ポスター横尾忠則)の武藤太の責め場に“聖セバスチヤンの殉教図”を見いだし制作した作品は、三島に一番見て貰いたい作品となった。 番組内で、現在東京都現代美術館で、開催中の『GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?』が紹介されたが、最初に映ったのは『寒山拾得』であった。多分そうなるだろうと思っていた。


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午前中作業机をようやく予定の場所に設置。午後定期検診へ。 ここ2カ月ほど異様な眠気に悩まされていたが、原因は無呼吸症候群だと判った。以来空気を鼻から送る装置を着けて寝ている。改善されている自覚はあるがリポートを見ると4時間以上着けている日が数日しかなく、2時間程度しか着けてない日が多い。確かにちょっと目が覚めたときに、もう起きた、と寝ぼけながら外してしまう記憶がある。2時間でも着けていれば数値は良いので、明日から外さないようにしよう。 やはり呼吸が20秒以上止まる友人がいる。彼は自分より七つほど若いかみさんを貰って困っている、という話を良く聞くので、この装置を勧めている。旦那が寝床で鼻から長いホースが繋がった、レクター博士みたいなマスクを着けていたら、かみさんも妙な気を起こしにくいのではないだろうか。


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私が私となった原因の一つには、目の前の現実とほぼ同じように、頭に浮かんだイメージにリアリティーを感じていたことであろう。なので幼い頃、頭に浮かんだイメージは何処に行ってしまうのだろう、確かに在るのに。と不思議がっていた。乱歩がいうように”夜の夢こそまこと”とは思わないまでも、私には等価な物として在った。 それを取り出し可視化し、やっぱり在った、と確認するのが、私の創作行為ということになる。 この間まで続けていた作家シリーズは、殆どが、中学、高校までに読んだ小説を読んで浮かんだイメージがネタ元になっている。しかしその後となると、他人の頭に浮かんだイメージに対して興味が薄くなって行き、小説は読まなくなり、展覧会にも行かなくなっていった。中学生の頃乱歩と共に夢中になり授業中にも読んでいた谷崎潤一郎と、泉鏡花の『高野聖』は、やり残した感は拭えないものの、現在制作しているモチーフは、あまりにも古いので、良くいえばやりたい放題である。可能性としては何処かの坊様に、座禅一つせず、と叱られる可能性は大いにあるが、自然物たる私の中に浮かんでしまったのだから仕方がない。

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使う道具は多くはないが、なくてはならないのは粘土ベラである。今まで何本使ってきたか。工芸学校で誰かが竹を削ったヘラをずっと使い続けていた。柔らかい粘土といえど減ってくるのでたまに削る。いずれ使い物にならなくなる時が来るのだろう。その時は困るだろうな、と思っていた。20代の2度目の個展の頃だったろうか、掃除をしていてゴミと一緒に捨ててしまった。これだから掃除などするもんじゃない。数年使ってきて手に馴染んでいたのに、と途方に暮れた。仕方がないので、分厚い竹を切って代用した。所がその日も終わる頃にはすっかり忘れて普通に使っていた。 以来、厚みのある竹でさえあれば何でも良い、とブラシの柄を代用したり、青竹踏み用の竹を買っておいたりした。といっても一本あれば良いのであるが。 本日、大工センターで買った、おそらく子供用の粘土細工ヘラが出てきた。セットの中にあった、何かだけが必要だったのだろう。なんとはなしに使ってみたら、作り続けて四十有余年、最も使い易いヘラであった。

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一日  


東京オリンピックの新競技、空手の男子形で、喜友名諒選手が金メダル。採点基準など良く判らないが、感銘を受ける。こんな繊細な競技が海外で受け入れられていることが素晴らしい.。この気合いは、臨済義玄の喝!を制作する寸前の私のために、用意されたかのように勉強になった。 白鵬が柔道を観に行ったと問題になっている。まるで休場中に来日した大リーグ戦を観に行って引退に追い込まれた前田山である。茂木某が差別だ、偉大な横綱に対して、なんてふざけたことをいっているようだが、優勝回数が多いだけで偉大ではない、ということが理解出来ていない。 私がファンであった“休場は負けと一緒”といった魁傑、放駒親方の弟子、ガチンコ大乃国の芝田山は怒ってるようだが、保志なんかに任せてないで何とかして欲しい。白鵬が親方になって、どんな弟子を育てるかと思うと寒気がする。会場で大野将平と写っていたが、大野選手の爪の垢を戴きにお邪魔しました、とでもいうなら考えないでもない。そういえば、偉大な双葉山にも張り手をかました前田山の爪の垢は、白鵬以外の力士には必要であろう。

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“喝!”の表情が面白い、それだけで首を作った臨済宗開祖、臨済義玄だが、当初寒山拾得のはじの方に置いておこうなどといっていたのが申し訳ない、と中に納めるボロボロではあるが厨子を用意した。 私が参考にしたのは曽我蛇足が描き、一休が賛を書いた作品だが、義玄といえば、そのまた遙か昔の人であるし、どこまで面影を伝えるものなのか、とずっと調べていたが、中国で描かれた肖像を見付けた。しかし、まるで別人である。ここまで古いと、その歴史の中には様々な経緯があることが判ってきた。 私が探せていないだけで、当然、義玄の肖像は様々あるようである。元々穏やかな表情の義玄像であったが、北宋末、南宋初のある禅僧が、伝統的な義玄像を描いていた画工に”怒目奮拳“ の義玄像を描かせ、それが日本に伝わり、その中の曽我蛇足作を私が見たということになる。 座禅一つしたことない私が何故ビビらずにいるかというと、禅は“不立文字”文字では伝わらない、と臨済宗に禅美術が発達したようだが、となるとそれらの図像を目にし、その気になっている私には、意図通り、何某か伝わっている、と解釈しているからである。ビビるのは作ってしまってからで良く、後悔するのは作ったずっと後でも出来る。


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何も知らずに面白い、作ろう。と手を伸ばし、後からどんな人だ?と知って背筋が伸びる。は少々不味いだろう?と思うのだが、これは昨日今日の話ではなく、独学でやってきたせいで今日まで正されることなく来てしまった。 それでも長いスパンの目標を持たず、目先の作りたい物に手を伸ばし、ただ作ることを繰り返して生きるというのは挫折しにくい、というメリットがあることに最近気が付いた。短すぎて折れようがない。 こんな物を手掛けて良いのか、ということは常につきまとわなくはないが、作りたい、という欲が勝ってしまう。
日頃マスクをしたまま歩いているだけで息苦しいのに、男子バレーのブラジル選手でマスクしたまま試合をしている選手がいてびっくりした。一人だけ、というのも奇妙であった。

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昨日知ったのは、臨済宗に導かれるように、と思っていたら、参考にする残された肖像画は、みんな臨済宗なのであった。 写真が残っている人物を絵画化する場合、リアルな画風であるほどちょっと角度を変えることも至難の業で、ほぼ写真の通り描くことになる。なので、作ってしまえば、どの角度からも撮れる立体の利点を生かし、残された写真とは違う角度で作品化することを心掛けていた。しかし今回のモチーフは、元が絵画で数百年、またそれ以上昔の人物であり、それと違えたところで、単なる私の一人相撲、自己満足で終わることになろう。まあ今まで、ずっとそうだったので何を今さらである。それでも夜中に一人、今こんな物を作っているのは地球上で私だけであろう、とほくそ笑むことだけは止める訳に行かない。 という訳で、達磨大師に教えを乞うため、切断した己の腕を差し出す慧可の肖像(14世紀)を見付けたので、それ元に作る。実にしみじみと地味な試みである。

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寒山拾得だけで個展をと考えていたのに、モチーフが広がってしまった。それは禅宗に祖師像(宗祖など高僧の肖像画)を遺す習慣があったためである。肖像画は対象の代替物として機能するもので、似ていなければならない。それが鎌倉時代の美術に写実的迫真性をもたらす。 一休禅師を作ろうと思ったのは、鏑木清方の三遊亭圓朝像の表情に匹敵する迫真的な表情の一休像が、小学生の私に”門松や冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし“と共に私の頭に刷り込まれていたからである。当時左卜全そっくりに見えた。調べると一休も寒山拾得の臨済宗の僧ではないか。返す刀で喝!といってる開祖臨済義玄の表情に惹かれた、という理由だけで、義玄の首も作った。 そんな訳で臨済宗繋がりで導かれるように、と思っていたが、なんてことはない、国宝、重要文化財の禅宗の祖師像76件のうち、曹洞宗1件、黄檗宗1件、他の74件が臨済宗の物だと知った。 


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私はかつてイベントで奇妙な薔薇色の衣装を着けた筋肉モリモリのフランス人男性が『薔薇の精』を踊るのを見た。リハーサルから見ていたのだが、どうやらモリモリ男の中身は乙女であった。その音楽と共に感銘を受けた私はニジンスキーを知り、その数少ないポートレートを観て、雷に打たれ翌年個展をやってしまった。それを思い出すたび、私も若かった、と遠くを見る目になり、大分落ち着いたつもりでいたが、気が付いたら座禅もしたことないのに、禅宗の第一祖達磨大師、第二祖慧可禅師、臨済宗開祖、一休宗純を作ろうとしている。 確か今年の初め頃には、寒山拾得を作るといったものの策がある訳でもなく、金魚の水槽を眺め暮らしていたはずである。金魚の動きに何やら催眠効果があり、悪い夢を見させられてしまう、なんて話は『目羅博士の不思議な犯罪』を書いた江戸川乱歩でも書かない。 しかしそれはまんざらな話ではなく、私は確信を持って金魚を利用し、柳家小さんが『禁酒番屋』で酒だと思い込んだ男が小便を口にする際に、フーフー吹いて表面の邪魔な泡を退かそうとしたように、妨げになる頭を退かして腹の底から沸く物を待ち、“考えるな感じろ”を実践しようとした。これらのモチーフを手掛けるには案外理にかなっていた、と思っている。

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