明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 




陰影のない手法は、中締めと考えた『深川の人形作家石塚公昭の世界』以降の話しで、図書館に行っては浮世絵、日本画ばかり眺めるようになってからで7、8年前と思っていたら、5、6年前の話であった。たいした違いはないようだが、まさかこんなに早く時間が経つとは思っていなかったから、ちょっと得をした気分である。 ジャス、ブルースの人形を作っていた頃、ハウンドドッグ・テイラーという、鼻が曲がりそうなサウンドのブルースミュージシャンが「俺が死んだら皆んなは『あいつはたいした演奏はできなかったけど良いサウンドだったなぁ、というだろうな」といっていて、そんなことをいつかいいたいと思った。これが彼の墓碑銘にもなっているようである。 良い悪いはともかく、ここに来て私もようやく独自のサウンドを奏で始めたのではないか?嬉しいのはハウンドドッグ同様、技術的にたいしたことはしていないにも関わらず。という点である。もっともハウンドドッグが、スピーカーに鉛筆で穴を開けたなど珍説があるように、私も言葉で表現不可な鼻薬はかなり効かせてあるけれど。

石塚HP

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




明治の初期に『光線画』というものが登場する。ガス灯の普及で都会の夜景に強い直線的光線による新たな陰影が生み出された。日本人は『写真』といい『光線画』といい実に珍妙な名前を着ける。 これは浮世絵に陰影を取り入れるという、写真から陰影を排除する、私とはまさに真反対のことを試みた連中である。私に言わせれば、西洋画のリアリズムに毒された?連中ではあるけれども、先達が真剣には描いて来なかった陰影を主役に持って来たという意味で、乃木大将とステッセル。話してみたい気がする。連中が輪郭線の排除の理由も判る。明るくなった現代から見ると心地良い風景ではある。 陰影を消しながら濃淡による立体感を出す、というある種の矛盾をねじ込んでみたが、お陰で、別の矛盾を受け入れる可能性も生まれた、と私は考えるのだが、果たしてどうだろう。

石塚HP



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


個展に来てくれた友人知人と連日飲みに行った目黒駅近くの居酒屋。11月に入り、2時に来るという2人とは別に仕事が終わって来る3人。今回は仕方がないと2人は先に飲みに行った。後から4人で行ったらまだ飲んでいた。混んでいたので席は別である。その先に行った2人が揃ってコロナに。 しばらくサボったクリニックへ。思ったほどに悪くはなっておらず。あんな物作っておいて健康は保とう。そうは行かない。帰りに受付で無呼吸の装置をちゃんと着けるよう院長先生が、と看護師。データが全て送られバレてたんだ。という私の顔を見て可愛らしく笑う。 被写体から陰影を出さないよう撮影すると、陰影が無い分平面的にはなるが、引き換えに光の呪縛から解放され、シチュエーションの自由が得られる。今回は被写体がせっかく立体であることを生かすため、濃淡による立体感を意識した。これは矛と盾の間の微妙なさじ加減の試みである。当初立体作品を作るということは陰影を作ることに他ならず、その陰影を無くすことに躊躇したものだが、これでその問題は解決し、この手法での撮影法は完成といって良いだろう。そこに架空の山水風景が相まって、今回は余計絵を描いたように見えるようである。風景に関してはあまりに男性的で大嫌いなアンセル・アダムスとは真逆の世界を目指したい。目指さなくとも心配ないけど。

石塚HP

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


搬出  


ふげん社に出かけ、プリントにサインを入れる。こちらですっかりホットのブラックコーヒーが飲めるだけでなく美味しさが理解出来た。最後に一杯いただくことを決めていた。江東区に転居以来、数十年お願いしている運送屋は、江戸っ子できっちりしているが早く着き過ぎてビルの前で荷物と共に一人立ち尽くしたことがあった。今日は他の仕事があるので3時〜4時になるというので2時前に着いてコーヒーを飲んでたら、2時に到着。仕事が早く済んで道路が空いてたらしい。コーヒーもゆっくり味わえず。人という物はそうは変わらない。 帰宅後、戦後処理とばかりに部屋の片付け。気をつけなければならないのは、こんな時には、棚からぼた餅のように名案が降って来がちである。そんな時、あまりにも素晴らしすぎて、部屋の片付けなどという、後ろ向きの行動を取ってる場合ではない。となる。数ヶ月ぶりにレコードをかけ、ぼた餅避けとした。

石塚HP



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ポーズの違う像を作る時、一つの首を取り外して別な身体を作って差し替えるのだが、2年前のふげん社の個展に、襷掛けした葛飾北斎像を展示したが、肝心の写真を撮っていなかった。これは画室で世界でもっとも有名な春画『蛸と海女』のための写生をしている、という設定で、障子から女の脚が覗き、そこには一本の蛸足が絡んでいる。北斎はというと、何かを覗き込むような姿勢である。他のことを思い付いたのか、そままになってしまった。おそらく三島展、最後のハイライトであった、滝沢馬琴作『椿説弓張月』の惨殺される武藤太に扮した三島の完成を急いだせいだったろう。 転居数十回。窓から富士が見えた画室があったとしても不思議はない。そこまで考えていたので、改めて某所の撮影許可の打診をした。 今回、竹竿にシャレコウベを掲げた一休を作る際、先に撮っておけば良いのに、酔い潰れた一休を思いついてしまい、粘土で目をつぶらせ、また開眼させるのに厄介なことになった。作ることになると早く見たくて我慢が出来なくなる。多少は後先を考えるようにしたい。

石塚HP



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





本日皆既月食だそうだが400年だろうと500年ぶりだろうが全く興味がない私は、天体ショーのたび、夜道を歩いていて、見上げれば何かが起こっている、と知っていながら見上げないくらいである。訳の判らない空間に地球が浮かんでいる、というだけであまり気分は良くない。宇宙の果てなど余計なことは知らずに終わりたいものである。知ってしまったなら、よっぽどバカバカしいことでもしでかさないと、収まらない気がする。なので私のカンが、あんな物興味を持つんじゃない、といっている。おかげで『寒山拾得』で収まっているのかもしれない。見上げてしまうような私なら、縦2メートルの『昇龍図』横2メートルの『風神雷神図』に着手しかねない。冗談じゃない、という話だが、なぜ私は眉間にシワを寄せるでもなく、ニヤケながらこれを書いているのか。良く判らない。

石塚HP

 



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




長年、死ぬ時はあれを作りたかった、これも作りたかった、と悶え苦しむに決まっているだろうことが嫌でしょうがなかったが、長い目標など立てず出来るだけ短い目標であれば中途挫折の可能性は低くなる。私にしてはグッドアイデアである。2年くらいなら何とかなるだろうと決めた個展が昨日最終日を迎えた。おかげで親しい連中までも唖然とさせた〝大ジャンプ”を見せることが出来た。当分作ることは考えずに体調を整えたいが、私は部屋を片付けようと、頭の隅にちょっと浮べただけで、創作意欲が満ちて来るという奇病をかかえている。 寒山拾得はことあるごとに一生手がけ続ける価値あるモチーフである。一番厄介な頭部が既に出来ている一休宗純には揺れ動く激情、飲酒、肉食、女色の破戒と、偽善と腐敗を暴く風狂僧一休にはあからさまに描かれた『狂雲集』がある。アニメ一休さんと真反対、リアル一休禅師の中、晩年を描くなどどうか?鉄は熱いウチに打てというけれど。

石塚HP



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




曽我蛇足描くところの一休和尚をもとに立体を作り、二作品制作したが、同じ蛇足作の握り拳に憤怒の喝!の表情が興味くて立体化してしまった臨済宗開祖臨済義玄だが、禅宗としても数が多い臨済宗の開祖というのに情報があまりに少ない。古過ぎて肖像を残す習慣がなかったかもしれないが、無ければ後世必ず創作されるものである。実際蛇足の臨済義玄像も中国の寺で画僧に注文して描かせた肖像が由来である。文革の影響もあるのかもしれないが、それにしても。インスタも100件未満という有様である。いつか臨済宗の寺で、どういう扱いなのか聞いてみたい。日本に広めた栄西は知られているのに。 一度立体を作ってしまえばどこからでも撮れるメリットを生かし、どうせ喝!とされるなら真正面から目を見て。と誰もが知らないであろう義玄の正面図。    近所にお住まいの、通りがかりという方が、3回目の来廊、竹竿にシャレコウベの一休で悩んでおられたが、シャレコウベのせいで、「カミさんがいなくなったら買う。」よろしくお願いしますともいえず。真正面向きの臨在義玄を選ばれた。シャガールをどかしてこれを玄関に飾るそうだが、〝臨済の喝!“に睨まれおかしな物は入れないだろう。 2年間は先のことは考えないと決めてようやく最終日を迎えた。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




人形は人形に学ぶべきではなく、写真は写真に学ぶべきではない。何でも見て学べば良いというものではなく、知らない方が良いこともある。技術は必要になってから身に付けけるべきで使いもしない技術は身に付けてはならない。それらは何一つ根拠がある訳ではなく、独学我流者のカンとしか言いようがないが、画廊内を見渡すと、そうでなければこうはならなかったことは明白である。  人間も草木同様の自然物、肝心なことはあらかじめ備わっており、ならば、外の世界にレンズを向けず、それを取り出すために、眉間にレンズを当てる念写が良い。 蟻塚もビルも本来同じ物だろう。原発さえも。ただ人間がヘタな頭を使うとロクな物にならない場合がある。もんじゅふげんなど、我等が〝本名“を妙な物に使いおって、と寒山と拾得も嘆いているに違いない。 そんな私が選んだ今回のモチーフは、本人は行き当たりばったりのつもりでいるが、様々な要因が合焦した結果であろう。 明日6日最終日

, Feel! 寒山拾得展
人形作家・写真家 石塚公昭 作家活動40周年記念

11月6日(日) 最終日

石塚HP



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




極初期の頃からの人形作品を多数所有頂いている方がみえた。挨拶いただいたが、マスクを取るまでどなたか判らない。外してようやく。その時。ギャラリートークの日、娘さんを連れてご挨拶いただいたのが、高校の恩師だったことにようやく気付き慌てた。苗字を名乗られたがどちらだかわからず曖昧な挨拶しかしなかった。せっかく来て頂いたのにさぞ怪訝に思ったろう。さっそくお電話で、とりあえず出られた奥様に失礼を詫びた。マスクにまつわる悲喜劇が日本中で演じられているに違いない。 高校生のように見えたが、あまり熱心に見ているので若者に声をかけると、盆栽を撮影させてもらった盆栽美術館で盆栽を学ぶ台湾人であった。ほとんどのモチーフを理解している。さすがである。『虎渓三笑図』の山水風景が、棚の上にあった水石が利用されていることを見破り、これは○○石、○○石と指摘する。手のひらに乗る石だけで中国山水風景が可能を知ったが、盆栽の世界でいう小さな木を大きく見せることを〝形小相大”と言うことを青年から教わった。私の場合さらに形大相小?もあるけれど。

, Feel! 寒山拾得展
人形作家・写真家 石塚公昭 作家活動40周年記念

10月13日(木)〜11月6日(日) 明日月曜日は休廊

石塚HP



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




私のように、モチーフを変える人間は、40年間通して見てくれている人は貴重である。ジャズ、ブルースシリーズから作家シリーズに転向したり、作家シリーズでも、江戸川乱歩は好きだが三島由紀夫には興味がない、と言うことは当然ある。挙句に寒山拾得である。 私の大リーグボール1号といってる、人形とカメラを手持ちで街で撮り歩くのは、今ではスマホでぬいぐるみなどで誰でもやっているが、これは私の大リーグボール3号(陰影のない手法)とは対極にあるもので、手に捧げ持った人形と、背景には当然同じ方向、同じ質の光が当たっているので、その場にいるように見える。現実世界に居るかのように撮ることが出来るが、私の頭の中のイメージを取り出すには不充分である。今回、中国の深山に住まう仙人だろうと制作可能なことが証明出来た。初期の作品から見てくれているビリケン商会の三原さんが、今までの作品では一番良いと。何よりである。 一休のいう冥土の旅への恐怖を払拭するには、昨日にさえ戻りたくないほど変化する方が、改善されたクリニックの検査結果よりはるかに効果がある。

Don't Think, Feel! 寒山拾得展
人形作家・写真家 石塚公昭 作家活動40周年記念

10月13日(木)〜11月6日(日)

石塚HP



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




廃れた技法オイルプリントを独学で覚え発表したのは22年前である。(正確にいうと前年に一日だけ発表している)その時の経験では日本では、誰もやっていないことはするもんじゃない。その成分、出自、由来が不明だと目に明かりが灯らない。あれはトラウマになった。絵を見る前に、まずキャプションを読むような人達ばかりだと。そんな訳でしばらく発表を連発したものの、再び再開するには、デジタル化の反作用で古典技法を手掛ける人工が増えてからであった。少々早過ぎた。     陰影を無くす手法を発表するようになり、どうやって作るのか、とは全く聞かれなくなっていた。修験者の技のようなものは使われていないことは明らかである。ところが今回、陰影を無くすが濃淡による立体感を表現する、という微妙に矛盾を含む試みに至り、再びなんだろうこれは? だがしかし来廊者の目には明かりが灯っているのが22年前とは大いに違う。何よりである。こう書いていると、目に灯りってなんだ?と思われるかもしれないが、本当に目に灯りはあるのである。※明日文化の日は在廊します。

Don't Think, Feel! 寒山拾得展
人形作家・写真家 石塚公昭 作家活動40周年記念

10月13日(木)〜11月6日(日) 明日月曜日は休廊

石塚HP

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




個展会場で作品を改めて見る、というのは、ほとんど被写体制作に費やした私としては、つい最近出来たばかりの作品で、会期残り数日にしてようやく反芻するように眺められる。今回は勝算もないのに、早々に風景を実景を使わずに作ることにしてしまった。ようやく着手したのは1ヶ月前。それが気が付いたら山深い中国風景が出来ている。私がもっとも熱中したアルト奏者チャーリー・パーカーは、演奏中に自分の指を見て、今演奏しているのは自分なんだ、と驚いたそうだが、難関の霧深い深山制作を後回しにしたことを後悔していた一月前の私に、無事に完成した、と教えてやりたい。〝窮鼠火事場で馬鹿力で猫を噛む”  私の外側にレンズを向けず眉間にレンズを当てる念写作品は、ほとんどの時間粘土での被写体作りに費やしている限り、デジタル作業が上手くなろうと深山を覆う霧の如く、手描きアナログ感は拭い難く漂い続けるだろう。 それにしても入手した武器は使いたくなるのが人情である。寒山拾得は元より、世を捨てた仙人が住む風景を作りたくて仕方がない。

Don't Think, Feel! 寒山拾得展
人形作家・写真家 石塚公昭 作家活動40周年記念

10月13日(木)〜11月6日(日)

石塚HP



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


   次ページ »