走っている時は心が無になる一方で、その分、様々なことにも思慮が巡る。「そもそも、なぜ今走っているのか?」など、哲学的な思考にすらなる。
私が走り始めたのは、ただ単に体型維持のために筋トレを始めたところ思うように体脂肪が下がらなかったから。ところが、いざ走り始めてみると、その奥深さ故、いわゆる「ランナー沼」にはまるのに、たいして時間は必要ではなかった。
それからレースにいくつも出場し、それまでの自分が知らなかった世界があるのを知り、ますますランニングの魅力に憑りつかれた。そうなると、走ることの意義をもっと本質的にとらえたくなる。「なぜ、人は走るのか?」と。最近読了した村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』の一節にその答えがあった。
今年はただ走り込むだけでなく、走ることの意義をもっと本質的に追究していきたいと思います。
私が走り始めたのは、ただ単に体型維持のために筋トレを始めたところ思うように体脂肪が下がらなかったから。ところが、いざ走り始めてみると、その奥深さ故、いわゆる「ランナー沼」にはまるのに、たいして時間は必要ではなかった。
それからレースにいくつも出場し、それまでの自分が知らなかった世界があるのを知り、ますますランニングの魅力に憑りつかれた。そうなると、走ることの意義をもっと本質的にとらえたくなる。「なぜ、人は走るのか?」と。最近読了した村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』の一節にその答えがあった。
僕のようなランナーにとってまず重要なことは、ひとつひとつのゴールを自分の脚で確実に走り抜けていくことだ。尽くすべき力は尽くした、耐えるべきは耐えたと、自分なりに納得することである。そこにある失敗や喜びから、具体的な---どんなに些細なことでもいいから、なるたけ具体的な---教訓を学び取っていくことである。そして時間をかけ歳月をかけ、そのようなレースをひとつずつ積み上げていって、最終的にどこか得心のいく場所に到達することである。あるいは、たとえわずかでもそれらしき場所に近接することだ(うん、おそらくこちらの方がより適切な表現だろう)。
今年はただ走り込むだけでなく、走ることの意義をもっと本質的に追究していきたいと思います。