真っ白です。 (--;)
「こりゃーひどい」という言葉しか出てこない状況です。
昨日から日本上空を通過した-33度の寒気、桜の上に雪やみぞれまで積もらせ、その挙句が今日の霜。
私はお茶を作っているわけではありませんが、年老いた老夫婦が仲良く摘み取り機などで、お茶の葉を集めているのをみるにつけ、それが自分の親の姿とかさなってしまうこともあり、まったく他人事としてみることが出来ないのですね。
そういえば数年前にも霜がおりて駄目になった事もあり、新茶が出てくるのが後ほんの少し先という事で、その矢先の霜。
自然の力に打ち勝つことの出来ないのが人間ですが、故に勝つのではなく、自然と融和した形で乗り越えてきた。
特に日本人はそうした自然とのかかわりをずっと持ち続けてきたわけです。
バイクで冷たい空気を切り裂いていると、しろくなった茶畑に朝日がさし、全体が金色に輝きます。 その美しさはなんともいえないほどですが、こうした目に見える美しさは視覚という情報としてのもので、しかしながら美しさをかなでる主役たる霜にはこれまた別の面がかくされているわけです。
こうした表面的なものだけに惑わされるのが普通の私たちです。
しかし視点を変えてみるということが多くの違った物をもたらしてくれるということを、再度思い起こさせてくれる朝でもありました。
帰宅途中の茶畑を抜けていくと、前から見た事あるダットラが走ってくる
すれ違いざま「プップッ」とホーンを鳴らし、笑顔で通り過ぎる息子。
「ありゃ? どこへ行くんだ?」
と思っていたら、しばらくして帰宅した息子の頭を見て納得。
床屋でした。
入学にあわせ、気合を入れるために坊主にすると言っていたので、その刈り込みをしに行ったのですね。
と、まあ気合を入れてとは言っても、完全丸坊主ではなくて、短めのスポーツマンらしい小奇麗な頭というほうが正解かもしれません。
あんまり極端に刈り込むのはどんなもんだろうか?と意味の無い心配をしていた私ですが、何の問題もありませんでした。
入学早々にフレッシャーズキャンプ合宿があるとのことですが、全体的にのんびりムード。
高卒の私にとっては、大学生活は羨ましい限りの話。
「もう一度あのときに戻れたらなー・・・」
なんて思ってはみる物の、それはそれで今とは全く違う人生になっているわけで・・・・・、ということは家内と知り合うチャンスも無かった事になるわけですから、当然に娘と息子もいないということになる。
「それは又とんでもなく嫌だなー」と、一人で思ったりして。
という事は今に満足しているという事で、今に満足しているという事は、これまでの生きてきた道に誤りはなかった、有ったとしても乗り越える選択に間違いがなかったという意味でも有るわけですが
それは幸せだったということなのですが、それを当然の事と思えば幸せではなくなり、奇跡と思えば、こんなに幸せな事はない。
思えば若いときにはまったく目に入らなかったはずの、道路端に咲く花に美しさを感じ、桜の木を横切って私の頬を撫でていく風に季節を感じ、そうした日常のあらゆる事に幸せを見出す能力が備わった? ことが、別の意味で自分を豊かにしてくれているのではないか? と思ったりもするのです。
息子が様々な出来事を通して私にもたらしてくれたのは、私という人間の未熟さと小ささを教えてくれた事でしょうか?。
子供を育てるということは、親である自分を育てること、子供なら自然に成長できるものが、大人であるがゆえに苦しみをともなうものなのだと。
私がよく行くウインドサーフィンゲレンデの一つである利根川は、今菜の花が咲き乱れているはずです。
「いくぞー、いくぞー」といいつつも、なんだかいろいろあって動けない今年の春。
来週あたりは息子みたいに気合を入れてやるだんべ (^▽^)
ついでに新しいセイルが欲しい・・・・・(--;)