SPAの記事でニートの子達の約20%が日常的に親への暴力を繰り返していると伝えています。
こうした雑誌の伝える内容がどのくらいの信頼性があるかという点において多少の疑問をもたざるをえないわけですが、
仮に大げさに伝えていたとしてその半分の10%としても、10人に一人はこうした子がいるということになり、それはまた依然として驚異的に高数値なわけで、
なんというか、それがさらに日常繰り返されているというところに言葉に仕切れない異常さと恐怖を持つわけです。
引きこもりとニートは異なると、引きこもり関連のところが強く主張していますが、引きこもりを脱した後にニートになる子が大半で、またニート事態が他人と接する事がうまくできない事からきているわけで。
そこには、人の気持ちを読みとり、それを自分のなかで正しい方向へと転換できないという、原因たる共通の問題があるわけです。
生きていれば必ず社会という枠からはみ出て生きる事は出来ません。
当然に自分に対して善なり悪なりの接触と、それから生じる何がしかの対人的心の交流というものはあるわけですから、それ自体が出来ねば、それはすでに人格障害と言って過言ではないわけです。
子供を叱ると親の顔色ばかりを見るようになると、だから叱っては駄目だとして、ほんらい叱らねばならない事まで無くしてしまった事は、
結局親という存在との心の交流を遮断したまま成長してくることと同じであって。
そうであるなら、親の心を読みとることが出来ない=人の心も読みとれないということになり、それが他人との接触において恐怖を抱き続ける原因でもあるわけです。
叱られれば親の顔を見るのは当たり前のことで、なぜ顔を見るかというなら、親の表情から心を読み取るために本能がもたらしたものなのですね。
そうでなければ別に顔など見る必要ないわけですから。
必要だからある、それが本能、いじめも全く同じ事です。
顔をみるのはそこに親の心がそのまま現れているからで、
言葉は厳しくても顔が微笑んでいたり、声が優しくても顔が厳しかったり。
表情が訴える多くの意味はきちんと叱られてくれば、感情にはさまざまな種類があり、同じ叱る事の中にも沢山の意味があるのだという事をきちんと学んできます。
それが親以外の他人と接する未来へ生きてくるわけです。
どこのバカが言い出したか知りませんが、叱ると親の顔いろを見るようになるから叱ってはいけないなどという事は、すべての他人がそのこにとって母親であれば問題はありませんが、そんな都合のよい事などあるわけも無く、
他人は他人でしかなく、ましてや利益の調整が人間としての日常生活という社会においては、他人の顔から心を読み取る事そのものを100%要求する事であって、ゆえに幼い頃から正しい叱られ方をしてきた子は、能の真っ白な面からも膨大な数の感情を読み取る能力と感性をもちうるわけです。