帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

必要な言葉

2011年06月17日 | 研究-教育・育児

職場環境の変化で多少忙しくなったカミサン、しばらくは夕飯作りに余裕を持てない状況。

これを見ていた僕、「こりゃ~いかんな~・・・・」  と思っていたわけですが、

こうしたときに信頼している息子夫婦へ相談を持ちかけるのは当然で、久しぶりに一家の役割分担へ変更をかける事にしました。

 

「あいよ!」っというべきか?、「待ってました」というべきか? 快く応じてくれた息子夫婦、

嫁さんには、食材の買い出し(重い物以外)と食事作り、特に夕飯の分担をこれまでより多く担って貰いました。 

 

よって現在は木曜と土、日の3日間を家内が作り、それ以外は息子の嫁さんが主力となっています。

家内はこれまでの負担から解放されて休めるし、僕含めて3人はこれまでとは違う味(夕飯)もたべられるわけでして、

しかもこの嫁さん、料理が上手で、つくる物全てが美味しい。

 

家内は娘から「ママのよりおいしくない?!」なんて結構ハッキリ言われて、「なによ~」なんて言い返しておりますが、まあ、いたって平和な光景です。 

 

嫁と姑、小姑との問題って本当に有るのだろうか?と家の女3人を見て思うのですが、

嫁さんが台所へ入っていると、家内か娘のどちらかが(いれば)必ず「手伝おうか?」といってますし、それで一緒にキッチン作業したり、かとおもえば「大丈夫です」という嫁さんの言葉で気を悪くすることもなく、テレビを見始めたり、そのまま側で駄弁りながら笑っていたり。

 

まあ、家庭が安定しているのは良いことですが、こうした事は、どちらかというと嫁さんの頭の能力で70%決まる。

控えめで有るのは当然として、頭が良ければ問題は起きず、自己主張が強く人の心が読めないバカであれば、始終いざこざが起きるというのが現実。 

 

人というのは、特に日本人は良好な人間関係を成立させる基本的条件として 控える事 を好み、

なぜならこうした姿勢を貫いていると、相手の方から気を遣って「これはどうだ?」と自己主張を求めてところに利点があり、事を荒立てず

に融和するに適している。

そうした関係から少しずつ自分の思いや希望などを述べることで、溶け込みながら思いを通じさせることが出来るわけですが、

難しいのはその際の主張量と希望や意志の方向で、微妙であるが故にいざこざの発端部分が隠れているわけでもあるのですが、

ただし、こうした物は男女関係なく、誰にも大なり小なり有って、完全に消し去れるものではないですから、いくら頭が良くとも100%になり得ませんし、結局何らかの引き金になる。 

 

そうした問題を解決する「有効的解決方法などあるのだろうか?」ということになるのですが、それは人により様々であるとしても、家の場合は「ありがとう!」、という至極単純な一言で解決している。

そしてそれを完全にするための補完方法として「ごめん」を重要視している。 

物事は出来る限り単純でなければならず、単純であることはカバーできる範囲が最大限に広いからだ。 

 

Thank you! ありがとう! どちらでも良いのだが、僕はこれを家で多用しており、

これはふたりの子供が小さいときから常用してきた言葉ですが、僕が子育てしていた時に流行っていた”友達親子”等というくだらない関係が存在したが、それを完全否定し、きっちりと上下関係、親子の立場を確立させて育ててきた中においてもよく使ってました。

平等概念を廃した(本来親子とはそうしたものだ)関係というのは、一時的に何かをきっかけとして立場がひっくりかえる事が多いわけですが、それは親とて間違えはするし、子に迷惑をかけることも有るわけで、

ただし、それが人間として当たり前であるなら、親だろうが何だろうが当然の物としてこの言葉を使う。

同時に「ごめんね」、「ごめん」も存在し、これは本来捨てきれない強弱の関係を中和し、心のあり方を隠さずに見せることが、子供の人間性を育て、学ばせる最高の方法だからだ。 

 

あたりまえの事を、それが本当に当たり前なのか? 当然の事、それが本当に当然なのか?という、その原点に視点を移して考えるならば、こうした言葉が自然に出てくる物だと思うのだけど、これは単に僕のおごりだろうか・・・・?

 

*そうであっても、思春期には曲がることも有るし、ただし必ず元に戻って来て正しい道を歩み始めるのも事実で、僕はこれを経験しています。

 

ただ、上記の難しいところは、こうした言葉に親の思いを、しかも親の目的や愛情をすりこむ目的を持って成されてはならないところにあり。

たとえるなら、子供が思春期に問題行動を起こし始めたときにカウンセラー等がよく勧める、「生まれてきてくれてありがとう」と子供に言うとか、「あなたが居てくれるだけでありがとう」と伝えるとか。

こうした物は、それを言われた子供に不快を与えて不信感を増長させるだけ、というおかしな効果は抜群だが、親の素直な思いを伝える事は、残念ながら一切出来ない。

 

理由は簡単で、本来有るべき素直な心の果実としての「ありがとう」ではなく、どんな理由や目的が有るにせよ、そこに伝える側の下心(ましてやすがる心など御法度)が有るわけで、そうである以上は、「ありがとうで」は「ありがとう」でなく、単に「こうしなさいよ!」という強制(親の欲、目的、我儘、あまえ)もしくは命令をはらんでいることが簡単に分かってしまうからです。

子供はそこまでバカではない。   

 

似たような物に、ほめて育てるがある。

我が家では子供を褒めることが殆ど無い、有ったとしても、親である自分の予想を遙かに上回る自発的行動や思考を見せたとき、見えたときだけ、それも至極限定的範囲に留まる物だ。

これは親の利益のための誘導方たる、教育法(”ほめて育てる”)とは全く異質なもので、なぜなら心理学者や教育評論家がとなえる犬を教育すると同じ理論で構成されている「誉めて育てる教育法」が、人の健全な精神成長に害悪しかもたらさないことがわかっているからだ。 

子供は親のオモチャではなく、ペットでもない。

よって、親の思った通りの人間に成長させるのではなく、一人の自立した思考を持つ人格に育てねばならない。

特に男の子は、男として育つように意識しない限り、本能が健全性を保って成長出来ずに歪むことから、なよついて嫌なことから逃げ回る可愛い男、いうなれば母性本能をくすぐる母親のペットにしかならない。

 

だいぶ話が飛んでしまったが、人はその毎日の生活における活動の中で必ず「ありがとう」と「ごめん」という場面が出てくる、

幼き頃より親が手本をみせ、それが自然な言葉として表現できるように育てられたなら、後に社会へ巣立った子供に素晴らしき恩恵をもたらし、

親が変なプライドや恥ずかしさ、不要な上限関係や立場関係を前提にして素直な心をおろそかに育てれば、子供は親の姿勢そのままに他人と接する様になる。

簡単に言うと、社会性における不幸を繰り返し学びながら育つということだ。 

 

正しき方向の、正しき言葉には、冒頭で書いた70%を、受け手側の持つ30%を補完させたうえで相乗作用にて100%にする力がある。

往々にしてお嫁さんというのは嫁いだ家の中で微妙な立場になりやすい、孤立しやすいし、辛いことも多だろうし、ストレスもある。

こうした不要な物を壊して中和するのも、「ありがとう」、「ごめん」という二つの言葉に存在し、またこの言葉から派生してくる穏やかな会話は、

お嫁さんを家族の一人としてこの先も溶け込ませ続けて行くに最善の方法なのだ、 と思うわけです。