僕が生まれた時のこと-It was when I was born-安達充
久しぶりにドカンと娘を一喝!
そういえば、最後に叱ったのは何時の事だっけ・・・・・・
中学までは別として、高校生になると殆ど叱られるような事をしなくなるし、親へ迷惑をかけたり心配させたりというのが無くなる。
それが我が子の特徴なのか? うん? 普通そういった物なのか? 正直なところ分からない。 上の子もそうだし、下の娘もほとんど同じである。
ただ、不思議なのは、「なんで?」と、あたかも叱られる原因を意図的に作っているのではないか? と思うような出来事だけは存在する。
これは上の子も同じだったので、非常におもしろい。
いや面白いなんて言っては良くないのだけれど、実際問題そうした行動を子供は取ることがある。
人の成長過程においての、不思議な心理的補完機能という点では当然知っている理論であれども、現実のものとして前の前に起きると
その不思議な一面が、益々持って不思議に感じてしまう。
ドカンとやったのは、娘が幼い頃より担当しているトイレ掃除の事。
これをこの処サボったことから、仕方なく一撃お見舞いしたわけだけど、僕の場合(皆そうだと思いますが)は何かしら叱るべき原因があってもすぐに叱ることは無くて、
まずは何度も言葉で諭す、説明する、意味を伝える、というように、人間という高度頭脳を持つ生物に適した方法で意志を伝達しているし、行動を促している。
幼い頃は型にはめて育てなければなりませんから、当然の事として強制していましたし、年齢的に未熟ですから、それへの反発やら、トイレが汚いだのという意識があるのは当然。
故に直接的に、時として体罰を行使しながら責任という視点で掃除をやらせてきた。
中学へ入ると、意味をしっかり理解出来るようになりますから、汚いという概念は消失し、じぶんから進んでやるようになっていた。
そうした面では何ら問題はなかったわけです。
ところが? ここに来て突然、何らかの理由をつけてサボろうとする努力をするようになった。 いまさらながら?
「何らかの落ち度でもあったろうか?」とまずは親としてのあり方はじめ問題点を自分で探して考えるも、はたと見あたらない。
ところがだ、このサボりらしき物が始まったのが、夏の世界大会への参加が正式に決まった頃からだというのに気がついた。
はは~と理由らしきものがおぼろげながらに解ってきて納得したわけだが、人というのは親の愛情を得るに二つの方法がある。
一つは、普段から注がれる何の変哲もない愛情で、99%がこれと言ってよく、それを受け取りながら成長する。
もう一つは叱られることを通じて得る愛情で、これはたった1%でありながら、それによって受け取る愛情はその子の人生を左右することもあるほど大きな影響をもたらす。
言うなれば、普段あり得ない形を通じて、自分への厳しさを成長させる為の原動力、助力として受け取るものだ。
叱るということは、親としてその内容に間違えがあってはならない。
激しい感情をぶつけるが故、その起点となるべき中心ぶれがあってはならないということだ、
故に「それが人として間違えていると思うからこそ叱る」、それゆえ子は正しく受け取るし、その場ではいくらひねくれようが、時間が必ずそれを理解させるように出来ている。
叱ると事は基本的に上の物が下の物にたいして施すもので、ダイレクトな感情を交えた行動であるからこそ親子という信頼が織りなす関係を基礎として成り立ち。
その受け取りを繰り替えしながら、人(他人)の感情の有りかたを正しく受け取り、理解できる人間へと成長していく。
幼い頃より正しくい叱られることは、一番難しい心の処理をする訓練をしているのと同じ事なのです。
故に、そこへ親の利益という側面での不埒な思いや、訳の分からない思い込みをこれっぽっちも混ぜてはいけない。
(例 自慢できる子、人より優れた子、勉強が出来る子、特別な能力を持つ子にするのだ等々、我が子の人間性を育てる為ではなく、親の見栄と自慢の種(自己利益目的)にするためという目的を持って叱る事)
大人になるという事は、人の持つ激しい感情を冷静に正しく分析し、自分の成長に生かせるということそのもの。
自分へ向けられた激しい感情表現は、その処理の難しさ故に正しい処理の訓練が必要で、それは思春期が来てからでは時すでに遅く。
幼い頃より正しく叱られてくるという訓練の積み重ねによって初めて得ることができる。
きちんと処理できる人間は、 例え相手が自分より下の者であったとて、お叱りを受けているという正しい方向へ変換して思いを受け止める事が出来、それが容易に出来る能力を持つ物は多くの人に信頼され、愛されることになる。
叱らない教育、ほめて育てる教育が、なぜに恐怖の教育なのかというなら、これらの教育法は怒る、叱るという人の激し感情を教育から一切排斥するところにあり、それは冒頭に書いた99%の愛情をさらに拡充させた物でしかなく、1%の心の訓練を否定しているところにある。
当たり前の事ですが、親から叱られることを経験してこなかった子は、自分へ向けられた人の感情を処理できる力がありません(訓練してきていない)から、そうした場面に遭遇すると自分を肯定することですぐ手一杯になる。 ましてや相手が他人ならなおいっそう難しくなる。
簡単に言うと、”自分は正しく、うまくいかないのは全て人のせい”という逃げの姿勢だけを取り始める。
更には、ほめて育てられているが故に 自分は偉いんだという根拠無き万能感を後ろ盾にしているから、最悪である。
冷静に感情を分析して処理等、当然に出来はしないために、すぐに切れる、暴れる、暴力的になるのだけれど、
それでもまだ自分の思いを素直に表へ出来る子はともかく、そうでない子は引きこもりや不登校、ニートなどに落ちていき。
仕事をなさず、生産活動もせず、それが”働いたら負けだ”という彼らの身勝手な論理に結びついているのは、全て自分以外の人間が持つ感情への畏怖と恐れを処理できない欠陥(親が作り出した)が心の背景にある。
まあ、叱らない教育、ほめて育てることがどれだけ子供達に不幸な未来をもたらすかなどを此処で書いてみたところで、華々しい経歴と肩書きを看板にした教育評論家が口にする先進的教育法?たる叱らない、ほめるという言葉の前では、
あっという間にかき消されて無くなってしまうものである。
でも、このブログを読んでくれた方の心の中に少しでも残ればと思って、素人研究家ながら書いている。
さて、話は元に戻るが、サボりの原因らしき物が解ってくれば、こちらも容赦しない、というか、明らかにそれが原因かなど明確に分かるものではないが、間違いなくあるのは さぼったという揺るぎない事実。
故に親としてやらねばならない事はただひとつ、ガツンと正しく叱ることだ。
と、朝から思いっきり叱られた娘、ぷうっと頬をふくらませたような、ふてくされた態度を取りながら、こちらの眼を見ることもせず、僕はこれにほぼ5分程度の時間を割いた。
後は娘がそれをどう処理するかの問題であり、ふてくされてやらず、明後日の方向をみているなら、僕の育て方に問題があったということ。
当然、再度 雷を落とすし、逆にきちんと処理できるなら何にも言わない。
はて? いかがなものか?と、その後の行動をみていたが、程なくして掃除をやり始めた、一階と二階をやり終え、後は何事も無かったように普通にしている。
その後、家族間におかしな空気もなく、午後にはいつもと同じ家庭の状態へ完全に戻っていた。
ついでにこのところ何となくよそよそしかった態度まですっかり消失した。
子供は今自分がいる足場より一段高いところに登ろうとするときに、不安を覚える、幼いき頃なら素直に駆け寄って親へ助けを求めることも出来るだろうが、高校生にもなればそんな事は出来ない。
約一月後に自分が戦うべき相手は世界中から集まった選手達だ。
規模が違うし、まったくこれまでのレースとはスケールが違う、未知の世界でもあろうし、自分の力がまったく及ばなかったらという
形の無い不安もあるだろう。
自分では意識などしていないように思えても、心の底では不安を覚える物だし、何かの支えをもとめることもある。
先も書いたが、幼子なら抱っこを求めて満たされるそれも、思春期ではかなわず、又それが成長というもので仕方ない。
ではどうしてそれを得るのかというなら、親が常に自分のそばにいてくれることを確認することでなしえる。
あえてやっていたことを、やらないという、サボり行動はかならず親の叱る行為を引き出す事を知っている。
殆ど100%の確信犯でもあり、それは叱られることが愛情を基本としていることを経験的に知っているからこそのものであるが、
親が叱る行為が、その裏に立脚する純粋無垢な揺るぎない愛情をもとにしており、それが常に自分を支え、守っていてくれるのだと。
こうした行為を通して受け取り、確認して安心できること、これが人という生き物の持つ不思議な行動であり、心理でもある。