――さあ、民主党政権の仕切り直しだ――――
菅新首相が昨6月8日夕、就任記者会見を首相官邸で行った。その冒頭発言で政治の役割は最小不幸社会をつくることにあると主張した。「毎日jp」記事から参考引用。
《菅首相会見:その1「政治の役割は最小不幸の社会を作ること」》(毎日jp/2010年6月8日)
「今夕、天皇陛下の親任をいただいたのち、正式に内閣総理大臣に就任にすることになりました菅直人でございます。国民のみなさんに就任にあたって私の基本的な考え方を申し上げたいと思います。
私は政治の役割というのは国民が不幸になる要素、あるいは世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか、最小不幸の社会を作ることにあると考えております。もちろん大きな幸福を求めることは重要でありますが、それは例えば恋愛とか、あるいは自分の好きな絵を描くとか、そういうところにはあんまり政治が関与すべきではなくて、逆に貧困、あるいは戦争、そういったことをなくすることにこそ、政治が深く力を尽くすべきだとこのように考えているからであります。
そして、今、この日本という国の置かれた状況はどうでしょうか。私が育った昭和20年代、30年代は、ものはなかったけれども、新しいいろいろなものが生まれてきて、まさに希望に燃えた時代であります。しかし、バブルが崩壊してからのこの20年間というのは経済的にも低迷し、3万人を超える自殺者が毎年続くという社会の閉そく感も強まって、そのことがいま日本の置かれた大きな何かこう全体に押しつぶされるような、そういう時代を迎えているのではないでしょうか
私はこのような日本を根本から立て直して、もっと元気のいい国にしていきたい。世界に対しても、もっと多くの若者が羽ばたいていくような、そういう国にしていきたいと考えております。その一つは、まさに日本の経済の立て直し、財政の立て直し、社会保障の立て直し、つまりは強い経済と強い財政と強い社会保障を一体として実現することであります。今、成長戦略の最終的なとりまとめを行っておりますけど、日本という国は大きなチャンスを目の前にして、それにきちっとした対応ができなかった。このように、思っております。
例えば鳩山前総理が提議された地球温暖化防止のための25パーセントという目標は、まさに日本がこうした省エネ技術によって世界の中に新しい技術や商品を提供して、大きな成長のチャンスであるにもかかわらず、立ち遅れてきております。また、アジアの中で、歴史の中で最も大きな成長の時期を迎えているにもかかわらず、先日も中国に行きましたら、いろんな仕事があるけれども、日本の企業はヨーロッパの企業の下請けしかなかなか仕事が取れない。いったいどんなことになる。つまりは、この20年間の政治のリーダーシップのなさがこういったことを生み出したとこのように思っております。成長戦略の中で、グリーンイノベーション、そしてライフイノベーション、そしてアジアの成長というものを、私たちそれに技術やあるいは資本やいろいろな形で関与することで我が国の成長にも伝えていく、こういったことを柱にした新成長戦略、これに基づいて財政配分を行いたいと考えております」
「例えば恋愛とか、あるいは自分の好きな絵を描くとか、そういうところにはあんまり政治が関与すべきではなくて」と言っているが、「あんまり」どころか、完璧に関与すべきではなく、関与されたのでは、特に不倫は日本の文化だと言ったとか言わなかったと噂されているタレントの石田純一やその同類、あるいは自由恋愛主義者なのか、山本モナやその同類の生存権を奪うことになる。
勿論、一般的な男女の生存権をも奪うことは言うまでもない。
経済的観点から言うと、ラブホテルやその他の性産業、アダルト出版関係の経営が圧迫を受けて、日本経済全体から見ても大きな損失を与えるに違いない。
だが、菅直人はなぜ政治の役割の比較にごくごくプライベートな営みである「例えば恋愛とか、あるいは自分の好きな絵を描くとか」と貧困の撲滅や戦争の廃止を対比させたのだろうか。そこは政界切っての論客と言われているから、関係もないことを関係づける力量に長けていたということなのだろうか。
「私は政治の役割というのは国民が不幸になる要素、あるいは世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか、最小不幸の社会を作ることにあると考えております」と殊更らしく言っているが、これも政治の役割としてごくごく当たり前なことで、既に日本国憲法第25条「生存権、国の社会的使命」として、(1)すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(2)国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公共衛生の向上及び増進に努めなければならない、と規定していて、「最小不幸社会」はその言い替えに過ぎない。
「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」を政治の役割として国民が納得のいく状況で社会全般に実現し得ていないから、「政治の役割というのは国民が不幸になる要素、あるいは世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか、最小不幸の社会を作ることにある」などと言い換えなければならないのではないのか。前者を実現し得ていたなら、後者を言い出す必要は生じない。
問題の一つはどこに線を引くかである。「健康で文化的な最低限度の生活」の「最低」、「最小不幸社会」の「最小」の線をどこに引くかによって政治の役割度が違ってくる。
極端な例を言うと、菅首相自身も「3万人を超える自殺者が毎年続くという社会の閉そく感」を取り上げているが、自殺者に関しては「年間3万人」を「不幸社会」の最小の線引きだとすると、「年間3万人」は許容範囲内となる。
逆に政治の力で1人の自殺者も出さないことは不可能事であろう。政治の力でなくても、如何なる力によっても不可能に違いない。
少なくとも日本社会はこの約10年間、「年間3万人の自殺者」を許容範囲としてきた。結果的に政治は「年間3万人」に線を置くことを役割としてきた。
問題の二つ目は、菅直人が人間社会をどのように認識した上で、「最小不幸社会」を政治の役割としたのかである。人間の存在性をどう考えた上で、「最小不幸社会」の形成を菅内閣の使命としたのかである。
多くの国に於いて最低賃金制度が制定されているが、最高賃金制度は制定されていない。金融庁が上場企業を対象に2010年3月期決算から年に1億円以上の報酬獲得役員の名前や報酬額などの開示義務制度を導入、これを受けて資生堂が1億円以上の報酬受取り予定の役員の名前と報酬額を記載し、ホームページで公開した。《資生堂 高額報酬を総会前開示》(NHK/10年6月3日 16時58分)
前田新造社長――1億2000万円。
外資系企業から移籍したカーステン・フィッシャー専務――1億4000万円。
1億円に満たない副社長の報酬も自主的に開示したという。
〈役員報酬の開示で、金融庁は、通常、株主総会を経て発行される有価証券報告書に必要事項を記載するよう義務づけていますが、総会の前に開示するのは異例のこと〉だと記事は書いている。
資生堂「役員報酬を決めていただく株主総会の開催の前に一般の株主に知らせることがよりていねいな情報開示につながると判断した」――
地域によっても格差のある時間給7~800円内外の最低賃金で守られている労働者と、年収1億円以上の役員たち。給与に関わる「最小不幸」の「最小」の線を時間給7~800円内外に置くとしたら、その「最小不幸」は社会的許容範囲と認められることになる。
勿論、年収1億円以上も賃金の上限を決めていないのだから、社会的許容範囲に入る。ここに矛盾はなく、社会の一つの姿として存在する。
一方で日本社会は格差社会を嫌悪・忌避し、その是正に努めている。労働者派遣法改正案もその一つの試みであろう。
2008年9月のリーマンショック以前の02年2月から07年10月まで続いた「戦後最長景気」では、その恩恵を一般労働者の賃金に還元せず、その結果個人消費に回らなかったが、大手企業は軒並み戦後最高益を得た。外需を手段とした利益獲得だが、外国企業との販売競争に於いて製品の品質で太刀打ちし、価格競争に於いては人件費を安価に押さえることができる派遣形式の雇用形態に守られて優位に立つことができた。
だが、リーマンショックに端を発した金融不安に陥ると、企業は雇用調整弁の役目を負わせて派遣を、彼らの不幸を何とも思わずに情け容赦なく切捨て、企業の利益を守った。
このような利益配分は、少数者の利益は多数者の不利益を基盤として成り立つという構造にあることを示している。こうも言い換えることができる。少数者の幸福は多数者の不幸の上に成り立つ構造にある。
その基本的構造が少数者の高収入は多数者の低収入の上に成り立つというメカニズムであろう。
また少数者が特段の高収入を得るといったこの手の経済構造を成り立たせるためには多数者の低収入を必要とする。少数者の利益保全には多数者の不利益を必要とする。あるいは少数者の幸福のために多数者の不幸を必要とする。
こういった構造は日本国内に於ける個人対個人の関係のみならず、外国との関係に於いても言える。
中国の安価な人件費によって生み出された安価な中国製品、あるいは中国に進出した日本だけではない先進国企業の安価な製品が日本の消費者をしてその購入を容易にし、安い分だけの利益をもたらしているが、このことを可能としている構図は中国の安価な人件費とそれ以上に高価な日本の人件費との格差であろう。
いわば中国人の安価な人件費の上に日本の消費者の利益が成り立っていて、成り立たせるためには自分たちの賃金、収入よりも低賃金、低収入の存在を必要とすると言うことである。
しかし中国と日本の賃金格差、人件費格差の構図に是正のメスが入りつつある。中国の外資系企業では中国人従業員によって低賃金に逆らった賃上げ闘争のストライキが頻発、操業を停止する工場も出てきて、順次賃上げに応じている。企業の中にはより人件費が安く、より従順におとなしく言うことを聞く内陸部に工場の移転を行い、人件費格差とその上に成り立たせた利益格差、幸福格差の構造の維持を図る動きも出ているという。
このように各種格差の存在とその循環によって人間社会が成り立ち、人間の存在性、あるいはその生活を規定しているなら、やはり「最小不幸社会」の「最小」をどこで線引きをするかは、政治の責任にも関わる重要な事柄となる。
完璧な社会的平等、欠点一つない社会的公平性など存在しないと言うことである。そういった社会的平等、社会的公平性を確立するだけの知恵を人類は保持していない。
問題は菅新首相がこういったことをどこまで認識しているかである。認識しないまま言っているとしたら、鳩山首相が色々と唱えてきた現実を踏まえない理想論のような口先だけの奇麗事で結末を迎える危険性を抱えることになる。
口で言うは易し。菅新首相は簡単には実現させることはできない重い課題を自ら唱え、自ら背負った。